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熊本地方裁判所 昭和62年(わ)47号 判決 1992年3月26日

《目次》

事件番号・被告人の表示等

主文

理由

被告人らの身上・経歴

罪となるべき事実

事件名等の呼称

証拠の標目

争点に対する判断

第一 公訴棄却の申立について

第二 各公訴事実の罪体に関する争点

一 争点の概要

二 本件抗争初期の段階における各被告人の犯意の形成状況ないし共謀の成立状況

1 序論

2 昭和六一年一二月八日(同月九日未明まで)の段階

3 同年一二月九日の段階・その一

4 同・その二

5 同・その三

6 同月一〇日の段階

7 同月一一日以後の段階

8 本件証拠状況の特質

三 上熊本事件について

1 被告人乙の罪責

2 同丙の罪責

3 同丁の罪責

四 黒原病院事件について

1 被告人甲の罪責

2 同乙の罪責

3 同丙の罪責

4 同丁の罪責

五 南熊本事件について

1 被告人甲の罪責

2 同乙の罪責

3 同丙の罪責

六 覚せい剤取締法違反事件について

七 暴力行為等処罰に関する法律違反事件について

八 総括

累犯前科

法令の適用

量刑の理由

裁判所の表示等

主文

被告人甲を懲役二年に、同乙を懲役一四年に、同丙を懲役八年に、同丁を懲役五年にそれぞれ処する。

未決勾留日数中、被告人甲及び同丁に対しては、いずれもその刑期に満つるまでの分を、同乙及び同丙に対してはいずれも一八五〇日を、それぞれその刑に算入する。

昭和六二年三月三一日付公訴事実(後記黒原病院事件)、同年四月一八日付公訴事実(後記南熊本事件)及び同年五月二三日付公訴事実(覚せい剤取締法違反事件)について、被告人甲は、いずれも無罪。

同年四月一〇日付公訴事実(後記南熊本事件)及び同年五月二三日付公訴事実(覚せい剤取締法違反事件)について、被告人乙は、いずれも無罪。

同年二月二三日付公訴事実(後記上熊本事件)及び同年三月一九日付公訴事実(後記黒原病院事件)について、被告人丙は、いずれも無罪。

同年三月一九日付公訴事実(後記黒原病院事件)について、被告人丁は無罪。

理由

(被告人らの身上・経歴)

一  被告人甲(以下「被告人甲」という。)は、熊本県玉名市内の中学校を卒業後、暴団美原組内H組の組員となり、昭和三八年ころ、同組の解散に伴い、自ら甲グループを結成し、同四三年ころには、これを甲組としてその組長になるとともに、暴力団道仁会A一家(現在の道仁会)会長のAの若衆となり、その後、同六〇年には、甲組を甲一家と改称して、その総長の地位につき、併せて、道仁会幹事長補佐として活動していた。

二  被告人乙(以下「被告人乙」という。)は、福岡県内の農業高等学校を中途退学後、大阪市内の造船会社で約一三年間稼動した後、熊本に帰り、鉄工所手伝い等を経て再び大阪に戻って造船関係の仕事をしていたが、同五一年には再度熊本に帰り、当時の甲組組長であった被告人甲の舎弟となり、同六〇年には、甲組が甲一家と改称されるに伴って、その本部長に就任し、更に、同六一年一〇月には、甲一家代貸の地位についた。

三  被告人丙(以下「被告人丙」という。)は、玉名市内の農業高等学校を卒業後、家業の農業手伝いを経て、大阪でタクシーの運転手をしていたが、昭和四二年ころ熊本に帰って、農業やパチンコ店及び飲食店の経営、あるいは金融業に携わっていたが、同五六年ころには、併せて露天商を始め、その営業上の便宜のため、そのころ、中学校時代の同級生であった被告人甲の舎弟となり、同六〇年には、甲一家内丙組を創立してその組長となり、更に、同六一年一二月初旬ころには、甲一家舎弟頭となった。

四  被告人丁(以下「被告人丁」という。)は、玉名郡内の中学校を卒業後、同地域を本拠とする暴力団B組の組員となり、昭和四五年ころには、B組が解散したため、一時暴力団組織から離れていたが、同五四年ころに、同組組長であったBが被告人甲の相談役となったことから、自らも甲組の組員となり、右Bの死去後、同五九年二月ころ、甲組内に二代目B組を設けてその組長となり、更に、同六一年には甲一家本部長の地位について活動していた。

(罪となるべき事実)

第一  暴力団道仁会A一家と同山口組系F一家との対立抗争に起因する殺人及び殺人未遂事件

一  対立抗争に至る経緯

1 暴力団道仁会は、北部九州一円に勢力を有する暴力団組織であり、かねて、暴力団山口組系F一家と対立関係にあったところ、昭和六一年七月二九日、熊本県人吉市内で、被告人甲の舎弟であったC(以下「C」という。)の配下の組員が、F一家系D会会長・D(以下「D」という。)を襲撃して同人に重傷を負わせる事件(以下「D事件」という。)が発生したが、右事件は、上部団体の幹部の仲裁による手打によって収拾され、抗争事件には発展しなかった。

2 ところが、同年一二月八日午後七時三〇分ころ、同市内で、CがD会組員に刺される事件が発生した。被告人四名は、その直後ころ、外出先の宮崎県都城市内で右事件の発生を知り、直ちに人吉市に向ったが、その途中、Cが同市内の収容先の病院で死亡した旨の連絡を受け、右病院でCの遺体と対面した後、同日午後一〇時ないし一一時ころ、同人の遺体が熊本県人吉警察署(以下「人吉署」という。)に移動するのに伴って、同署に移動した。

そのころ、人吉署には、他の道仁会関係者が多数駆けつけたが、そのうち、道仁会M組若頭でE1組組長であるE1(以下「E1」という。)、A一家若頭補佐で二代目B組(以下、単に「B組」という。)組長代行であるE2(以下「E2」という。)、A一家若頭補佐でE3組組長であるE3(以下「E3」という。)、A一家若頭補佐でE4組組長であるE4(以下「E4」という。)、M組若頭代行でE5組組長であるE5(以下「E5」という。)の五名(以下、右五名の全部又は一部を「補佐ら」という。なお、特に右五名の全部を指す場合には「補佐五名」という。)は、同署駐車場に駐車中のE1の自動車内で、F一家関係者に対し、Cが殺害されたこと(なお、以下、CがD会組員に刺殺された事件を「C事件」という。)に対して、その報復を加える旨を話し合い、同所に居合せた被告人乙に対し、「今度のことはわしらに任せてくれんですか。舎弟の人は口出しせんでくれんですか」等と述べて、C殺害に対する報復行動の指揮を補佐五名がとる旨を申し出、同被告人の承諾をとりつけた上、直ちに熊本市内の潜伏先に向かった。

3 補佐五名は、同月九日早朝、E5が当面の潜伏先として手配した熊本市<番地略>の「フラワーマンション」に入り、更に、同日午後、熊本県玉名市<番地略>所在の甲一家本部事務所(以下「本部事務所」という。)で催されたCの通夜に出席したが、右の席上、E1が被告人乙及び同丁に対し、「今度のことは自分たちがやります。任せてくれんですか」等と述べて、改めてC殺害に対する報復行動の指揮を補佐五名がとる旨を申し出、被告人乙及び同丁も、その旨を明確に認識し、かつ内心でこれを承諾するに至った。また、その際、E1は、被告人乙に、右報復行動の凶器として用いるけん銃の手配及び潜伏先での生活費等の調達を申し出、被告人乙は、これを承諾した上、甲一家においてけん銃の保管に携わっていた組員のE15(以下「E15」という。)に対して、E1の指示に従いけん銃を手渡すように命じ、同夜、E5が、E1の指示により、本部事務所付近の路上で、E15から、いずれも実包が装填された三八口径回転弾倉式けん銃二丁の手交を受けた。

4 同夜のCの通夜の終了後、補佐五名は、いずれも、そのころE5が新たな潜伏先として手配した、熊本市本荘の「○○ビル」五〇一号室に引き揚げ、同所に宿泊したが、補佐五名は、同夜から翌一〇日にかけて、同所で、熊本市内でC殺害に対する報復としての襲撃を行なうべき対照として、F一家H組分家U組の事務所、金融業「××実業」の事務所ないしその経営者であるH組幹部の鈴木建治こと鈴木洋一(以下「鈴木建治」という。)、並びに、いずれもF一家関係者であると目された後藤某及び福田某の名前があがり、P組事務所についてはE2を、××実業ないし鈴木建治についてはE4を、後藤某についてはE5を、福田某についてはE3を、それぞれ一応の担当者として、その素姓や所在を確認したり、動向の調査をし、E1は、それらのまとめ役や本部事務所との連絡等を行なうことになった。

そして、補佐五名は、そのころから、○○ビルを拠点として、前記各襲撃目標の下見をするとともに、E1は、本部事務所と連絡をとって、被告人乙に下見等の状況を報告するようになった。

二  暴力団P組事務所における殺人未遂事件

(犯行に至る経緯)

補佐五名が右のとおり偵察活動等を開始した同月一〇日、E2は、B組組員であるE6(以下「E6」という。)を、また、E3は、甲一家内虎上組組員であるE7(以下「E7」という。)を、それぞれ本部事務所から熊本市内に呼び寄せ、E6及びE7は、同市水前寺の「△△ビル」を拠点に、関係箇所の偵察等をするようになり、また、E1組組員であるE8(以下「E8」という。)やE5組組員であるE9(以下「E9」という。)も、E1ないしE5の意を受けて、同様に関係箇所の偵察をするようになった。

そして、同日、E2がE6に、E5がE8に、いずれも熊本市内でそれぞれ三八口径回転弾倉式けん銃各一丁を手渡して、襲撃に備えさせ、また、同日ころ、E1及びE5は、E1組組員のみでP組事務所の襲撃を試みることにし、E5がこれを配下組員に命じたが、襲撃の実行に至らず、更に、同月一一日ころには、E1が、P組組長・Pが外出した旨の情報を得て、E8及びE9にその追跡を命じたが、同人を襲撃するには至らなかった。

そのような折、同月一二日午後三時ころ、自動車でP組事務所周辺を偵察していたE6及びE7は、○○ビルにいたE2から、同事務所から同組組員らしい男が外出した旨の無線連絡を受けてその行方を追い、同日午後三時一八分ころ、熊本市上熊本一丁目のスーパーマーケット「寿屋」前付近路上で、右の男を発見して、E7が、E6の運転する自動車の助手席から所携のけん銃で右の男を狙撃することを試みたが、銃弾が発射されず、失敗に帰した(以下、右発砲未遂事件を「寿屋事件」という。)。

寿屋事件の後、E1は、本部事務所にいた被告人乙に、同事件の失敗を報告したところ、同被告人は、「お前たちはやる気があるのか」等と述べて、補佐らの消極的態度を非難するとともに、P組事務所の襲撃が可能である旨申し述べ、同事務所周辺の地理的状況等を理由として同所襲撃が不可能であると主張するE1と激しく口論した。そして、右口論では、被告人乙とE1との見解の相違は解消せず、同被告人は、E1に直接会って、P組事務所を早期に襲撃すべき旨を申し伝え、同人をはじめとする補佐らに同所襲撃を決意するように仕向けるべく、同夜、同被告人が部屋を賃借していた熊本市<番地略>所在のマンション「□□ビル」(以下「□□」という。)でE1と会う約束をとりつけた。

なお、これより前、E3は、○○ビル周辺に不審な車両がうろつくのを目撃する等して、他の補佐らに対し、潜伏場所を変更した方がよい旨進言し、これを受けて、E2が、被告人乙に電話をして、「□□」に部屋を調達するように依頼し、同被告人は、同所六〇六号室に居住する知人に連絡して、しばらく同室を貸してくれるよう求めた。

同日午後八時ころ、被告人乙は、同丁を誘って本部事務所から「□□」に赴き、同所六〇六号室から前記知人を退去させた後、同室で、同丁とともに、○○ビルから同所に来たE1、E4、E2及びE3と会った。

その席上、E1は、被告人乙及び同丁に対し、P組事務所周辺の住宅地図を示し、周辺の地形や障壁の状況、警察官の配置の状況等を説明して、現時点での同所襲撃が無理であることを説明したが、被告人乙は、E1をはじめとする補佐らに同所襲撃を決意させるべく、「行かるるじゃないか」「どげんか早うならんのか」等と述べて、早期に同所の襲撃を決行するよう強硬に申し向けた。

その結果、E1も、被告人乙の意向に押され、P組事務所を早期に襲撃することを前向きに検討せざるをえないと考えるに至り、同被告人の意向を尊重するとの意味を込めて、「そがん言わんで、わしらに任せてくれんですか」と述べ、同被告人も、E1の右言葉を、同趣旨のものと理解し、ここに、被告人乙と同E1との間に、補佐らにおいて、近日中にP組事務所を襲撃することを積極的に検討する旨の意思の連絡が成立した。

一方、E2は、寿屋事件後、自己の直属の組員であるE6が同事件に失敗した汚名を、速やかに何らかの外形的行動を示すことによって返上させる必要性を感じていたところ、被告人乙から前記のようにP組事務所襲撃を督促されたことから、直ちに同所を襲撃することを思い立ち、同丁に対し、「兄貴、今から行きますかね」と述べて、その旨を申し出た。被告人丁は、先刻来、補佐らに同事務所襲撃を迫る同乙の前記行動を是認していたが、E2から右のように申し向けられるに及び、同人が、B組組長である自己の手足として直ちに同事務所を襲撃する意思を固めたものと認識し、同人が焦燥感に駆られて無理に襲撃を決行してこれに失敗する事態を招かないようにするため、確実な機会を待って実行させる意味を込めて「無理してせんでもええ」と申し向け、ここに、被告人丁とE2との間に、暗黙のうちに、近日中に機会を見てP組事務所を襲撃する旨の意思の連絡が成立した。

その後、E3及びE2が「□□」に残ることとなり、E1及びE4は、○○ビルに引き揚げた。同日深夜、E2は、E6及びE7にP組事務所を襲撃させる意思を固め、同月一三日午前一時ないし二時ころ、E3とともに△△ビルに赴いて、E6に新たにけん銃一丁を手渡し、同所から、本部事務所に電話をして、被告人丁に、「もう今から行くですばい」と述べて、直ちにP組事務所を襲撃する意思を伝えたが、同被告人が、前記の「□□」における局面と同様の意味で、「今日はもう遅かけん、やめとけ」と述べて、即刻の襲撃決行は思いとどまるように述べたため、E2も、これに従って、同夜の決行は見合わせることとしたが、近日中の決行に備えて、E6及びE7を「□□」に連れ帰った。

E2は、同日午前中、同日中にP組事務所を襲撃する旨決意し、「□□」から本部事務所に電話をして、被告人乙にその旨を告げた。これを受けた同被告人は、○○ビルにいたE1に電話をして、「今から勝っちゃん(E2の意)が行く(「P組事務所を襲撃する」の意)て言いよる。だからとにかく、勝っちゃんと連絡をとってくれ」と述べて、E2の意思をE1に伝えるとともに、E2と連絡をとって同事務所襲撃の実行について最終的な詰めを行なうように申し渡した。

そして、E1は、E2に電話をして、同人の意思を確認し、E1自身も、同日P組事務所を襲撃する旨最終的に決意したが、E1は、右電話の際、E2から、同事務所の所在場所がよくわからない旨の話が出たのを受けて、E5に対し、「□□」に赴いてE2に同事務所の場所を説明し、同人と共同して同所襲撃を実行するように命じた。

右指示を受けたE5は、E8及びE9をP組事務所襲撃の実行者に加えようと考え、右両名に、けん銃を準備して「□□」に来るように指示した上、同日午後二時ころ、E2、E3、E6及びE7が滞在していた同所六〇六号室に赴いた。そして、E5は、道仁会側の犠牲を最少限度に留めるべく、E3を同室から退席させた上、E8及びE9が同室に到着した後、E6、E7、E8及びE9の四名でP組事務所を襲撃する旨を告げて同事務所の場所を説明し、右襲撃に際しては、右四名が二台の自動車に分乗し、E6、E7及びE8はいずれも既に所持しているけん銃一丁を携帯し、また、E9は途中で金属バットを購入した上これを携帯して、それぞれ、同事務所南側に乗りつけ、E6が付近を警戒中の警察官にけん銃を向けてこれを威嚇すること、その間に他の三名がフェンスを乗り越えて同事務所専用庭に侵入し、E7及びE8が同事務所室内に向けてけん銃を発砲すること、E9は金属バットで同事務所南側ベランダに面したサッシ戸のガラスを殴打してその破壊を試みることを、それぞれ指示した。

ここに、被告人乙、同丁、E1、E2、E5、E3、E6、E7、E8及びE9は、直接又は間接に、襲撃に伴う発砲行為によってあるいはP組組員が死亡するに至るかも知れないことを認識・認容しながら、C事件に対する報復としてP組事務所を襲撃する旨の共謀を遂げた。

そして、同日午後四時ころ、E6、E7、E8がそれぞれけん銃一丁を、E9が刺身包丁一本をそれぞれ携帯し、自動車二台に分乗して「□□」を出発し、熊本市上通町の運動具店で金属バット一本を購入した上、これをE9が携帯して、P組事務所に向った。

(実行行為)

被告人乙、同丁、E1、E2、E5、E3、E6、E7、E8及びE9は、右のとおり、C事件に対する報復としてP組事務所を襲撃する旨の共謀を遂げた上、昭和六一年一二月一三日午後四時四五分ころ、E6、E7、E8及びE9が、P組事務所が入居している熊本市<番地略>所在のコープ野村上熊本A棟の南側路上に自動車を乗りつけ、同所でそれぞれ右自動車から降り立つや、E7、E8及びE9が、右コープ野村一一四号のP組事務所専用庭南側の植え込み及びネットフェンスを越えて右専用庭内に至り、E9が所携の金属バットで右専用庭に面する同事務所応接間南側のサッシ戸のガラスを数回殴打してこれを破壊することを試み、E8が、右専用庭内から、右サッシ戸のガラスに向って、所携の三八口径回転弾倉式けん銃を構え、あるいは銃弾が右ガラスを貫通して室内にいるP組組員が死亡するに至る事態になるかも知れないことを認識しながら、あえて、右けん銃で銃弾六発を発射したが、右ガラスが強化ガラスであったため、それらの銃弾が貫通せず、同組組員が死亡する結果を生じなかった。

三 黒原外科医院における殺人事件

(犯行に至る経緯)

E4は、前記のとおり、昭和六一年一二月一〇日ころ以後、××実業ないし鈴木建治を自己が担当する襲撃目標に設定し、同月一四日ころから、自己の事実上の配下の組員であるE10(以下「E10」という。)及び佐賀市に本拠を有する道仁会前田一家内江頭組本部長で、自己のもとに応援に来ていたE11(以下「E11」という。)の両名を連れて、××実業や鈴木建治の自宅と思われる家等を探し、その間、同月一五日には、E1に依頼して、同夜、E5から三八口径回転弾倉式けん銃一丁を借り受け、鈴木建治殺害の実行に備えていたが、同人の所在は掴めなかった。

そのような折、同月一七日夕刻、本部事務所に、H組の「鈴木」なる人物が熊本市龍田町上立田の黒原外科医院(以下「黒原病院」という。)に入院している旨の匿名の密告電話があった。右の電話は、本部事務所三階の大広間(以下、単に「大広間」という。)で被告人丙が受け、その内容をその場にいた同乙や同丁らに伝えたが、当時、本部事務所には、F一家との抗争に関連する嫌がらせの電話が度々かかってきていたため、大広間に居合わせた者のほとんどは、右の密告電話も同様の電話であると思い、これを気に止めずに放置していた。

ところが、同日午後九時半ころ、再び前記電話と同じ相手から、前記同様の密告電話があり、被告人丙がこれに応対して、電話の相手が告げた、黒原病院の電話番号と「鈴木」の病室の番号をメモした上、その内容を大広間にいた同乙らに告げた。これに対し、被告人乙は、同丙に、黒原病院に電話をして「鈴木」の入院の事実の有無を確かめるよう指示し、同丙がこれに応じて同病院に問い合わせたところ、「鈴木勝則」なる人物が同病院に入院していることが確認された。しかし、被告人乙は、右「鈴木勝則」の名前が、自己が知っていたH組幹部の「鈴木建治」の名前と異なっていたことから、「鈴木建治」から貰っていたと思われた同人の名刺を探す等したが、右名刺は見つからず、結局、右「鈴木勝則」と「鈴木建治」との同一性の有無は確認できないままに終った。

一方、「鈴木」が入院しているらしいとの情報は、同日夕刻、本部事務所にいた幹部組員の一人から、E4及びE2に流され、これに基づいて、E2及びE10は、「鈴木」が黒原病院に入院している事実を確認し、同日午後一一時ころ、○○ビルに帰って、E4に右事実を知らせた。これを受けたE4は、翌一二月一八日午前〇時ころ、本部事務所に電話をして、被告人乙に右事実を伝えたところ、同被告人は、黒原病院に入院している人物がH組幹部の「鈴木」であることを改めて確認した上、右確認ができれば同人を殺害させるべく、E4に対し、「訪ねに行くとに、H(H組組長の意・以下同じ)の弟の名前で、果物籠を持って行くとよかじゃないか」等と述べて、E4に対し、黒原病院に潜入する方法を教示し、入院中の人物がH組幹部の「鈴木」であることを確認の上、同人を殺害すべき旨を命じ、これにより、被告人乙とE4の間に、黒原病院に入院中の鈴木勝則を殺害する旨の共謀が成立した。

E4は、右電話の後、ほどなく、E10及びE11に鈴木勝則の殺害を実行させることにして、そのころ、右両名にその旨を告げ、更に、E4、E10、E11、及びE2の四名は、その後再び黒原病院の下見をした。そして、E4は、E10及びE11に、翌朝、熊本市八景水谷の熊本電鉄堀川駅でけん銃を渡す旨を告げた上、右両名を同病院近くのモーテルに宿泊させ、鈴木勝則襲撃の実行に備えさせた。

一二月一八日の朝、E10及びE11は、熊本電鉄堀川駅付近の果物店で果物籠を購入した後、同日午前一〇時ころ、同駅前で、E10が、E4から、実包五発が装填された三八口径回転弾倉式けん銃一丁を受け取り、自動車で黒原病院に向かった。

E10及びE11は、同日午前一〇時三〇分ころ、同病院に到着し、E10が前記けん銃を、また、E11が前日に購入した刺身包丁を、それぞれ携帯して、同病院に入り、E10が、受付の看護婦に、鈴木建治が入院しているかと尋ねたところ、「鈴木という人は入院しているが、名前が違う」との返答であったが、E10は、鈴木建治が偽名をつかって入院しているのかも知れないと考え、E11とともに、「鈴木」の病室であると教えられた三階三一一号室に向かった。

当時、同病室には、Sと、H組組員ではあるが、鈴木建治とは別人である鈴木勝則の二人が入院していたが、E10及びE11が訪れた時には、鈴木勝則は外出中で不在であり、たまたま、同病室に遊びに来ていた鈴木勝則及びS両名の友人であるU(以下「U」という。)が、鈴木勝則に電話をして取り次いでくれ、E10も鈴木勝則と右電話で直接話を交わした。そのため、E10及びE11は、鈴木勝則が鈴木建治とは別人であると思い至らず、また、Uが鈴木建治の配下のH組組員であると思い込んだ。

そこで、E10及びE11は、一旦黒原病院を出て、E10が、右配下組員らしい人物を殺害すべきか否かについてE4の指示を仰ぐべく、付近の公衆電話から○○ビルに電話をしたが、右電話が通じなかったため、続いて本部事務所に電話をし、これに出た被告人丁に、黒原病院における前記状況を説明して、「どぎゃんしましょうか」と鈴木建治の配下組員と思われたUを殺害すべきか否かの指示を求めたところ、同被告人から、「俺にそぎゃんこつ言うてわかるか。E4に言わなんたい」等と言われたため、数分後、再び○○ビルに電話を入れ、右電話に出たE4に、同様に状況を説明して、Uを殺害すべきか否かの指示を仰いだ。

これを受けたE4は、その判断がつきかねて、E10に対し、一〇分ほどして再度自己に電話をするように申し渡した上、直ちに、本部事務所に電話を入れ、これに出た被告人乙に対し、E10から伝え聞いた黒原病院の状況を説明したところ、同被告人は、「わかった。若い者に間違いなかか」と、UがH組幹部の「鈴木」の配下組員に間違いないかどうかを尋ね、更に、E4が、「間違いなかと思います」と答えた上、「やってよかですか」と指示を仰いだのに対し、同被告人が、「お前に任す」と申し向け、ここに、被告人乙とE4との間で、E4の判断により黒原病院に入院中のH組幹部の「鈴木」の配下組員と思われるUを殺害すべき旨の共謀が成立した。

そして、E4は、Uの殺害を敢行すべきか否かの最終的判断を、現場の状況を把握しているE10に委ねることにし、その数分後に再び○○ビルに電話を入れたE10に対し、「お前に任す」と申し向け、これを受けたE10は、直ちにUを殺害する旨を決意して、付近に駐車中の自動車内で待っていたE11に、「よし、あれをやろう」と、Uを殺害する旨を述べ、E11も、直ちに、E10とともにUを殺害することを決意した。

ここに、被告人乙、E4、E10及びE11の四名は、直接又は間接に、黒原病院に入院中のUを殺害する旨の共謀を遂げ、E10及びE11は、直ちに自動車で黒原病院に向かった。

(実行行為)

被告人乙、E4、E10及びE11は、右のとおり、C殺害に対する報復として黒原病院に入院中のH組幹部の「鈴木」の配下組員と思われるU(当時三二歳)を殺害する旨の共謀を遂げた上、昭和六一年一二月一八日午前一一時二〇分ころ、E10が前記三八口径回転弾倉式けん銃一丁を、E11が刺身包丁一本を、それぞれ携帯して、熊本市龍田町<番地略>所在の黒原病院に赴いた上、UがH組組員であることを今一度確認した上で同人を殺害すべく、E10が同病院三階三一一号室のドアをノックしたところ、これに応答がなかったため、E10及びE11は、Uが自分たちの計画を察知したのではないかと思い、直ちに同病室内に入ったところ、Uが鈴木勝則のベッドに横臥していたことから、E10及びE11は、Uが鈴木勝則の配下の組員に間違いないと思い込み、E10がUを狙って前記けん銃で銃弾二発を発射して、うち一発をその背部に命中させ、更に、その直後、E11が、前記刺身包丁(刃体の長さ約20.2センチメートル)で、右ベッドから倒れ落ちるUの背部を一回突き刺し、よって、即時同所において、同人を心臓銃創及び右肺刺創等による失血のため死亡させて殺害した。

四 H組事務所前における殺人未遂事件

(犯行に至る経緯)

被告人丙は、右三の事件に先立つ同年一二月一六日ころ、被告人乙から、補佐らの間で、丙組からいわゆるヒットマンが出されていない旨の苦情が出ていることを知らされたことから、丙組組員で、かねて、何か事が起きた際にはヒットマンになる旨を申し出ていたE12(以下「E12」という。)をヒットマン要員とすることに決め、丙組若頭であるE13(以下「E13」という。)に指示して、E12を、E1の指揮下に送るべく、八代市の丙組事務所から、熊本市に向かわせた。

E12は、同日、熊本市春日三丁目の当時の国鉄熊本駅でE3に迎えられ、同人に連れられて「□□」に赴き、既に同所に来ていた道仁会X1一家内花山組組員であるE14(以下E14」という。)と合流した。そして、E12及びE14は、同日ころから同月一九日ころまで、E3の指揮下に、F一家関係者を発見してこれを襲撃し、殺害すべく、福岡市や久留米市等に赴いたが、いずれも相手方を発見できずに終り、以後、E12及びE14は、熊本市内で待機することとなった。

右の状況において、被告人丙は、E3に代わってE13にE12の指揮をとらせることを決め、同月一九夜、E13を丙組事務所から本部事務所に呼び出し、翌二〇日午前〇時ころ、同所において、E13に、E12の指揮をとるよう命じた。

そのころ、被告人丙は、P組事務所の再襲撃や、他のH組関係者の襲撃をも考えたものの、いずれも襲撃の目処が立たないか、相手方の所在が判明せず、結局、襲撃の対象を、熊本市<番地略>の暴力団F一家内H組事務所とし、同所に出入りする同組組員を殺害する旨、考えを固めた。

そして、被告人丙は、同月二四日午後七時ころ、E5の案内でH組事務所の位置を確認した上、直ちに、E13を連れて、自動車で同事務所付近に赴き、同人に対し、同事務所に至る道順を教えた上、襲撃すべき相手は同組の関係者であれば誰でもよい旨を告げて、同事務所に出入りするH組関係者を殺害すべき旨を命じ、これを受けてE13もその旨決意し、ここに、被告人丙とE13の間に、E12を実行者として、H組事務所に出入りする同組関係者を襲撃し、これを殺害する旨の共謀が成立した。

被告人丙は、同月二五日には、E13に対して、E5からけん銃を受け取ってE12に渡すように指示し、同日、E13は、右指示に従って、熊本市南熊本の飲食店の駐車場で、E5から、実包六発が装填された三八口径回転弾倉式けん銃一丁を受け取った。そして、E13は、翌二六日午後三時ころ、E12を呼び出して、前記熊本駅構内で同人に右けん銃を手渡し、更に、同人に、H組事務所が襲撃の対象であること、襲撃の相手は同組関係者であれば誰でもよいことを告げるとともに、E12をタクシーで同事務所付近に連れて行き、同事務所の所在を教えた。E13の右一連の指示により、E12は、E13と共謀の上、E14とともに同事務所を襲撃し、右けん銃を使用して同組関係者を殺害することを決意した。

その後、E13と別れたE12は、襲撃の際、とどめを刺す凶器として使用するために刺身包丁二本を購入し、E14とともに宿泊していた熊本市春日一丁目の「駅前サウナ」に戻り、同所で、E14に、H組事務所で同組関係者を襲撃することになった旨を伝え、同夜、右けん銃と刺身包丁二本を携えて、同人を同事務所付近まで連れて行った。ここにおいて、E14は、E12及び同人に指示をした上部組員と共謀の上、E12とともにH組事務所を襲撃し、右けん銃及び刺身包丁を用いて同組関係者を殺害することを決意し、ここに、被告人丙、E13、E12及びE14の四名は、直接又は間接に、H組事務所前で、同所に出入りする同組関係者をけん銃及び刺身包丁を用いて殺害する旨の共謀を遂げた。

そして、E12及びE14は、H組組関係者がいれば直ちに襲撃を実行すべく、そのまま約三〇分間、H組事務所付近で様子を窺っていたが、同事務所に人の出入りがなかったので、その日の襲撃は諦めることとし、前記刺身包丁二本を同事務所北側の墓地内の土管内に隠して、前記「駅前サウナ」に戻った。

翌一二日二七日、E12は、E14とともに、E13にその手配を依頼してあった、襲撃の際に使用する自動車を、丙組事務所付近に取りに行った後、E13から、電話で、同日もH組事務所に赴いて同組組員の殺害を図るべき旨の指示を受け、E12及びE14は、これに従って、同日午後五時過ぎ、E12が前記けん銃を携えて、右自動車で熊本市田迎町方面に向かい、更に、途中からタクシーに乗り継いで、同町<番地略>所在のABCフード田迎店付近でタクシーを降り、徒歩で同事務所に近づいた。

その途中、E12は、E14に対し、同日中に同事務所を襲撃すること、同事務所に出入りするH組関係者を襲撃し殺害すること、及び、女性や子供は狙わないことを告げて、その旨確認し合った。そして、同事務所北側墓地付近まで来たところで、E12が、前夜右墓地の中に隠しておいた前記刺身包丁のうち一本を取り出して来たが、E12及びE14は、その場で話し合い、E14が前記けん銃を、E12が右刺身包丁を使うことを決め、それぞれそれを携えて、同事務所玄関北側に駐車中の自動車の後部に身を潜め、同組関係者が表われるのを待った。

(実行行為)

被告人丙、E13、E12及びE14は、右のとおり、C殺害に対する報復としてH組事務所を襲撃し、同組の関係者を殺害する旨の共謀を遂げた上、E12及びE14が、昭和六一年一二月二七日夕刻から、熊本市<番地略>所在のH組事務所玄関北側で、同組関係者が現われるのを待ち受けた上、同日午後七時三〇分ころ、同組の情勢把握のため同所を訪れた熊本南警察署勤務司法警察員警部補X7(当時四八歳)をH組組員と思い込み、E14が右X7を狙って所携の三八口径回転弾倉式けん銃で銃弾二発を発射し、うち一発を同人の左大腿部に命中させたが、同人に加療約二か月間を要する左大腿部盲銃創等傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。

第二 暴力行為等処罰に関する法律違反事件

被告人甲は、甲一家幹部組員であるG1及びG2、並びに知人であるG3と共謀の上、熊本県玉名市<番地略>に店舗を有するスナック「O」の経営者が甲一家に盆や暮に届け物をしないとして因縁をつけ、同店経営者らを脅迫することを企て、常習として、昭和六十一年一月三日午後一〇時三〇分ころから同月四日午前〇時ころまでの間、右「O」店内において、同店経営者Oに対し、右G1及びG2が、こもごも、「総長がこうして来とるのに、なして皆揃って挨拶ばしに来んか」「お前の店はなんで正月に総長のところに挨拶に来んか。盆と正月には挨拶に来い」「お前げを潰すのは簡単なこったい」等と語気鋭く申し向け、また、被告人甲が、右Oに「はがいかろう。はがいかなら一一〇番に電話してみれ。警察が何ばしきるか。お前たちは俺どんがおるけん安心して生活もさるるし、商売もでくるとぞ」「こぎゃん店ば潰すとは簡単ぞ」等と語気鋭く執拗に申し向けるとともに、右G1及びG2に、「今日は『O』を強化月間にせろ」と命じる等して、右Oの身体・財産等に危害を加える気勢を示して脅迫し、もって、団体の威力を示し、かつ数人共同して脅迫した。

(事件名等の呼称)

本判決書における事件名等の呼称は、他に各別に示すもののほか、それぞれ次のとおりとする。

一  社会的事実関係又は刑事被疑事件等の呼称

1  「上熊本事件」

罪となるべき事実第一の二記載のP組事務所における殺人未遂事件に対応する社会的事実関係、若しくはこれを基礎とする刑事被疑事件又は被告事件

2  「黒原病院事件」

同第一の三記載の黒原病院における殺人事件に対応する社会的事実関係、若しくはこれを基礎とする刑事被疑事件又は被告事件

3  「南熊本事件」

同第一の四記載のH組事務所前における殺人未遂事件に対応する社会的事実関係、若しくはこれを基礎とする刑事被疑事件又は被告事件

4  「本件抗争」

C事件に端を発する、道仁会とF一家との対立抗争事件(右「上熊本事件」、「黒原病院事件」及び「南熊本事件」を含む一連の社会的事実関係)

二  刑事被告事件の呼称

1  「本件」

後記2の「総長事件」に同3の「舎弟事件」を併合後の本件刑事被告事件

2  「総長事件」

被告人乙、同丙及び同丁に対する殺人等被告事件を併合前の同甲に対する本件刑事被告事件

3  「舎弟事件」

本件に併合前の被告人乙、同丙及び同丁に対する殺人等被告人事件

4  「E6事件」

E6ほか七名に対する殺人未遂等被告事件(当庁昭和六一年(わ)第八七一号等・主として上熊本事件に対応)

5  「E10事件」

E10ほか二名に対する殺人等被告事件(当庁昭和六二年(わ)第一号等・黒原病院事件に対応)

6  「E14事件」

E14ほか二名に対する殺人未遂等被告事件(当庁同年(わ)第八九号等・主として南熊本事件に対応)

7  「E15事件」

E15に対する覚せい剤取締法違反等被告事件(当庁同年(わ)第一八八号等)

(証拠の標目)<省略>

(争点に対する判断)

第一  弁護人の公訴棄却の申立について

一  被告人甲及び同乙の各弁護人は、右両名に対する本件各公訴に先立つ搜査段階で、警察官によって、同乙、同丙をはじめとする関係者に対し極めて強度の暴行が駆使された事実を指摘し、右暴行と、本件各公訴の提起との因果関係も明らかであるとして、右両名に対する各公訴(但し、被告人甲に対する昭和六二年二月三日付公訴事実<暴力行為等処罰に関する法律違反事件>を除く)について、いずれも、刑事訴訟法三三八条四号により公訴棄却の判決をなすべきであると主張しており、また、被告人丙及び同丁の各弁護人も、舎弟事件第一四回公判における更新弁論で、右両被告人について同様の主張をしているものと解される。

二  確かに、捜査段階で被告人乙及び同丙に対して加えられた警察官による暴行の態様は極めて峻烈であったと認められ、また、同丁や、E4、E15に対しても警察官によってかなり強度の暴行が加えられた疑いを否定できないことは、当裁判所の平成三年一一月二〇日付決定書(以下「決定書」という。)のそれぞれの箇所に判示したとおりであり、更に、そのような暴行の駆使という違法捜査なくしては本件各公訴の提起・追行が不可能であったという条件関係の存在も強く窺われるところであって、事後における違法捜査の抑制の必要性や、当該暴行を受けた者の人権擁護の見地からは、本件各公訴は、その提起の手続に違法があった場合として、これを棄却すべき場合に該当すると立論も、決して理解できないものではない。

三  しかし、公訴棄却は、当該犯罪に対する司法的実体判断の道それ自体を閉ざしてしまうものであり、裁判所として、適正な刑罰権の発動による社会正義の実現という、刑事司法手続に課せられた重大な社会的使命を放棄するものであることに鑑みれば、捜査過程に強度の違法事由が介在したことをもって、刑事訴訟法三三八条四号に該当するとの判断を下すには、最高度の慎重さをもって臨むべきであるというべきである。そして、違法捜査に対するその被害者の人権擁護や、事後の違法捜査の抑制は、国家賠償訴訟の提起や、当該違法捜査に起因する相当範囲の証拠の排除等によりある程度図ることができること、また、当該違法捜査の被害者である被告人に関する限り、量刑上の適切な配慮によっても、その人権擁護にある程度資することができること等に照らせば、違法捜査の介在の故にそれに基づく起訴手続を違法と評価すべき場合は、違法事由の強度、違法捜査と公訴提起との条件関係のほか、起訴にかかる犯罪の法定刑・態様・社会的影響等をも十分斟酌した上、裁判所として、自らに課せられた適正な刑罰権の発動という職責を放棄し、前記の重大な社会的要請を完全に犠牲にしてでも、なおかつ当該犯罪に関して公訴を提起・追行すること自体を許容しえないと判断されるような極限的な場合に限られるというべきである。

四  そこで検討するに、本件各被告人に対する各殺人及び殺人未遂の公訴事実は、その法定刑が極刑をも含む重罪であることはいうに及ばず、その内実をみても、暴力団に特有の論理に基づいて、周到に組織的計画を進め、実行行為に際しては、一般住宅街や医療機関内での発砲行為を敢行したものであり、ことに、黒原病院事件や南熊本事件においては、対立抗争と無関係の第三者の殺害や、警察官に対する重度の傷害という重大な結果を惹起し、近隣住民に与えた恐怖感も甚大であって、犯行動機・犯行に至る経緯・実行行為の態様・犯行の結果等、いずれの基準に従っても、同種罪名の事件中でも極めて重大・悪質な犯行であるというほかなく、関係各被告人の関与の有無・態様を明らかにし、関与の事実が認められる場合にはこれに対して適正な刑罰権を発動すべき社会的要請は極度に高いものというべきである。

また、被告人甲及び同乙に対する覚せい剤取締法違反の公訴事実も、その法定刑が一年以上の有期懲役に該当する重罪であるほか、右事実にかかる覚せい剤の重量は約五〇〇グラムであるほか、右事実にかかる覚せい剤の重量は約五〇〇グラムに達し、それ自体、同種事犯の中でも誠に重大な事案であり、覚せい剤の社会的害悪の拡散防止の見地からも、暴力団組織の資金源の断絶の必要からも、やはり、同事件に対する右両名の共謀の有無・関与形態を明らかにし、共謀の事実が認められる場合に、その関与形態に応じた適正な刑罰権を発動すべき要請は極めて高度であるというべきである。

五  このような、本件各公訴事実にかかる犯行の際立った重大性と、それに対する刑罰権発動の必要の大きさに鑑みれば、被告人乙、同丙をはじめとする関係者に対する暴行の強度や、右暴行と公訴提起との因果関係の存在を十分斟酌してもなお、本件各公訴が、前記の社会的要請を完全に犠牲にしてでも、これらの各犯行に対する関与者を適正に断罪するための手続の提起・追行自体を許すべきではない極限的な場合に該当するとまで評価することは相当でない。

六  よって、弁護人の主張はこれを採用しない。

第二  各公訴事実の罪体に関する争点

一  争点の概要

検察官は、当裁判所の前示認定にかかる各事実のほか、上熊本事件については被告人丙、黒原病院事件については被告人甲、同丙及び同丁、南熊本事件については被告人甲及び同乙にも、それぞれ当該事件に関しての共謀が存在し、いずれも殺人罪又は殺人未遂罪の共謀共同正犯が成立すると主張し、また、被告人甲及び同乙については、いずれも昭和六二年五月二三日付公訴事実で、他二名と共謀の上、営利の目的で覚せい剤を所持した事実が存在すると主張する。

一方、各被告人は、被告人丙が南熊本事件について有罪であることを認めるほかは、前示認定及びそれ以外の検察官主張にかかる各事実に関する自己の共謀の事実を否認する等して無罪を主張しており、各弁護人もまた、右同旨の主張をしている。

そこで、所論に鑑み、各争点ごとに判断する。

二  本件抗争初期の段階における各被告人の犯意の形成状況ないし共謀の成立状況

1 序論

まず、以下においては、本件抗争における甲一家組員による最初の実力行使が、昭和六一年一二月一二日(以下、本件抗争の実体的経緯に言及する場合の年月日については、いずれも、「昭和六一年」を省略する。)に発生した寿屋事件であることに鑑み、右時点以前における各被告人の犯意の形成状況ないし共謀の成立状況について検討する。

もとより、右段階では、いまだ、本件起訴事実である上熊本事件、黒原病院事件又は南熊本事件という特定の犯罪についての共謀が成立していないことは明らかである。したがって、仮に、右段階で、被告人らの前部又は一部の間に、C事件に対する報復として、F一家関係者を殺害する旨の概括的合意が形成されていた事実を認めることができたとしても、それをもって、当該被告人に、本件各起訴事実たる特定の犯罪について、直ちにその正犯としての罪責を問うことはできないが、右段階での概括的な犯意の形成や各被告人間の意思の連絡の状況は、その時点以後の、特定の犯罪に対する各被告人の自己固有の犯意の形成を判断する上に、極めて重要であり、検察官も、右段階までに、個々の起訴事実について当該各被告人を正犯に問う基礎となる共謀の前段階に位置づけられる、前記概括的合意が形成されていた事実を主張している。

そこで、まず、寿屋事件以前の各段階を通じて、各被告人ないしその相互間に、いかなる程度の自己固有の犯罪実現意思と右意思の連絡があったと認められるかについて、時の経過に従って検討する。

2 一二月八日(同月九日未明まで)の段階、特に人吉署における状況について

(一) 検察官の主張の概要

検察官は、C事件発生当日である一二月八日の状況に関し、

① 被告人らが、Cの遺体が収容された熊本県人吉市内の病院において、その遺体の無残な様子を見て、C殺害犯人に対する報復を決意したこと

② その後、人吉署において、補佐五名が、同署駐車場に駐車中のE1の自動車内で、F一家関係者にC殺害に対する報復を加えることを謀議した上、E1が、補佐五名を代表して、被告人乙に、「今度のことは、わしらに任せてくれんですか」等と言って、本件抗争の指揮をとることを宣言し、これを受けた同被告人が、同所に駐車中の被告人甲の自動車内で、補佐五名の意向を同被告人に伝えたところ、同被告人は、被告人乙、同丙及び同丁に対し、熊本県内のF一家関係者に報復を加えることを指示し、ここに、被告人四名及び補佐五名の間に、C事件に対する報復として、甲一家及びM組の組織をあげて熊本県内のF一家関係者を殺傷する旨の概括的共謀が成立したこと

の各事実を主張する。

(二) 人吉署に到着した前後ころの各被告人の犯意形成(検察官の前記(一)①の主張事実)の有無

そこで、まず、被告人ら四名が、人吉市内の病院でCの遺体と対面し、その後、人吉署に赴いたころまでの、各被告人の犯意の形成状況について検討する。

(1) 被告人甲について

ア 被告人甲は、捜査段階及び公判段階を通じて、そのころ、F一家関係者に対する殺意を抱いた事実を一貫して否認している。

イ 確かに、Cは、被告人甲の舎弟であり、また、そのころ、同被告人が、C殺害犯人はD会の関係者であろう旨の認識を有していたことは、同被告人の本件公判廷での供述に依拠しても十分認めることができ、自己の舎弟が従前対立関係にあったD会の関係者に殺害されたことを知った者としては、個人的感情としても、暴力団組織における立場上も、D会関係者やその上部団体であるF一家関係者に対して、敵対意識を有するに至ることは、強く推認できるところである。

特に、昭和六一年七月のD事件の後、同年九月ころ、上部団体の仲裁によって、いわゆる手打による和解が成立したにもかかわらず、それからいまだ日の浅い時期にCを刺殺する行為が、暴力団組織の価値基準に照らしても絶対に許容できないものであることに照らせば、その敵意の程度はかなり強かったと認めるのが相当であり、それが殺意にまで発展しても、あながち不自然とはいえない。

ウ しかし、かような一般的経験則のみに依拠して殺意の存在を認めえないことは当然であるほか、次のとおりの、C事件発生までの経緯に鑑みれば、被告人甲がCの死を知って殺意を抱いたと認めるには、なお疑問が残るというべきである。

すなわち、C事件に至る経緯についての、被告人甲の本件公判廷における供述、同乙、同丙及び同丁の総長事件及び舎弟事件における各供述を総合すれば、その供述内容は、およそ次のようなものであるところ、これらの各供述は、互いに整合しており、特に不自然なものではないほか、特にその証拠価値を減殺するに足る証拠もなく、少なくとも、これらを虚偽であるとして排斥することはできない。

a Cは、昭和五二年ころ、Dの弟を殺して、その罪で服役し、同六〇年一〇月ころに刑務所を出所した後、被告人甲の舎弟になって、熊本県八代市に事務所を構えた。

b 被告人甲は、Cを自己の舎弟とするに際しては、F一家の本拠のある大分県別府市に出向いて、F一家会長であるFの了解をとりつけ、更に、その後、人吉市のD宅に出向いて、同人の弟の霊前に参る等し、これらにより従前の対立関係は一応解消された。

c ところが、同六一年七月にD事件が発生し、事態を憂慮した被告人甲が、道仁会副会長に相談したところ、D会及びF一家の上部団体である暴力団大州会会長のI(以下「I」という。)が何らかの経路でその状況を知るに至り、同人が前記FやDのもとに赴く等として、抗争に至らずに事態を解決し、その後、暴力団J一家総長のJ(以下「J」という。)も仲裁の労をとり、同年九月初旬ころには、福岡県小倉市で、道仁会とF一家との間でいわゆる手打が行なわれた。

d 被告人甲は、D事件はC側に非があり、右手打に際しては、甲一家ないし道仁会側に制裁ないし不利な条件が付せられると予測していたが、Iが道仁会会長と懇意であったこと等から、表向きは右制裁又は条件のない手打が成立した。

e 但し、右手打の際、Cは人吉市に行ってはいけないこと、もしどうしても行く用件がある時は、Cから被告人甲に連絡を入れ、同被告人からDに連絡をする旨の、事実上の条件が付せられ、同被告人がCに右条件を伝えた。

f ところが、C事件の前々日又は前日ころ、本部事務所に、Cが人吉市にいる旨の情報が入り、被告人甲が、本部事務所三階の同被告人の部屋(以下「総長会」という。)から、人吉市のCに、電話で、「何で勝手に人吉に行っているか。間違いが起きたらどうするか。人に迷惑をかけるようなことになったらいかんじゃないか。IさんやJさんに顔向けできんやないか。すぐ帰れ」等と言って、Cを叱責した。

g 被告人甲は、右の電話で、Cに、まだ人吉市に滞在するつもりかと尋ねたところ、Cが、すぐ帰る旨答えたので、同被告人は、Cが人吉市にいることをDに連絡しないまま放置しておいたところ、C事件が発生した。

右のような事実経過に照らせば、C事件の発生については、C自身の側に強い落ち度があったと評価できるほか、被告人甲としても、その落ち度の大きさは十分認識していたと認めるに妨げなく、この点に鑑みれば、通常の暴力団員同士の殺傷事件の場合のような、「やられたらやり返す」という鉄則が、本件抗争の場合にもそのまま妥当すると認めることには、かなり強い疑問を差し挟む余地がある。

エ また、検察官は、前記時点までに、被告人甲がF一家関係者に対する殺意を有していたことを基礎づける一般的な背景事情として、同被告人が、従前、Cをいわゆる先鋒として人吉市方面への甲一家の勢力拡張を図っており、C事件を機に、F一家系列の組織に対する報復を完遂することによって、同地域を自らの勢力範囲に収めることを企図したとの想定に立つようである。

しかし、被告人甲が従前右のような人吉市方面進出の意図を有していたことや、Cが、右意図に関して同被告人の先鋒として同地域への進出を図っていた事実を認めるべき客観的証拠はなく、かえって、捜査段階の証拠にさえ、被告人丙の検察官に対する昭和六二年二月一二日付供述調書や同月二一日供述調書(以下、検察官に対する供述調書を「検面調書」という。なお、以下、供述調書の作成年月日については、いずれも、「昭和六二年」を省略する。また、以下に引用する各供述調書には、その謄本をも含む。)には、「Cは人吉に女がいるので、借家に大工を入れて内装していたところ、D会が、そのことを捉えて、Cが人吉に進出してくるものと判断し、同人を襲った」旨、Cが人吉市に出入りしていたのが単なる個人的な行動に過ぎないことを窺わせる証拠も存在し、同市がCの出身地であることからみても、右行動を単なる個人的なものと解することも十分可能である。

また、前記ウcないしeのとおり、D事件は、C側、甲一家側に負い目の大きい事件であるが、それにもかかわらず、上部団体幹部の仲裁により、特に甲一家側に不利益な制裁を伴うことなく、手打によって事態が収拾され、その際、Cは人吉市に出入りしないようにするとの事実上の取り決めがなされたという経緯が認められるところ、右経緯に照らせば、被告人甲として、右手打から僅か数か月しか経たない時期に、手打の際の取り決めに反し、人吉市進出の企図のためにCを同地に送り込むというような、D会側を挑発して抗争を招く火種となることが当然予測され、また、D事件で仲裁に入った、暴力団組織の系統上自己の上位に位置する有力者である、JやIの体面を汚すことにもなる行動をとるとは容易に解釈し難い。のみならず、前記ウfのとおり、被告人甲は、Cが人吉市に行くことによって、D会を刺激し、新たに紛争が生じる事態に至ることを懸念していたことさえほぼ明らかである。

したがって、そのような意識を有していた被告人甲が、C事件を機に、F一家との抗争に勝利して人吉市進出の試みを完遂しようという態度に転じると認めることには、かなりの不自然さを否定し難く、暴力団組織の勢力伸長という点から被告人甲のF一家関係者に対する殺意を基礎づけることにも無理があるといわざるをえない。

オ これらの諸点に加え、本件前証拠を検討するも、被告人甲が、一二月八日に人吉署に赴くころまでの段階で、F一家に対する敵対意識やその関係者に対する殺意を直接表明したことを窺わせる証拠はもとより、間接的にこれを示唆・表現したような事実を示す証拠も全くない以上、右段階で、同被告人が右殺意を抱いていた事実を認めることはできないというべきである。

(2) 被告人乙について

被告人乙が、人吉署に赴いたころまでに、主体的にF一家関係者に対する自己固有の報復の意思を抱いたことを直接に示す証拠は全くない。すなわち、同被告人の公判段階の供述はもとより、罪体認定に供しうる同被告人の捜査段階の供述調書を精査するも、右のような心境を示す記載は全く見当たらない。

そして、単に暴力団社会における一般的経験則のみから、報復意思の存在を認定できないことはいうまでもなく、また、被告人乙としても、前記(1)ウに摘示したD事件後の手打の経緯の概略を認識し、また、C事件の前日ころ、被告人甲が人吉市にいるCを叱責している状況を現認していたことが認められることに照らしても、同乙が、人吉署に赴く前後の段階で、F一家関係者に対する自己固有の殺意を有するに至っていたとは、到底認められない。

(3) 被告人丙について

被告人丙の捜査段階の供述調書には、人吉市内の病院でCの遺体を見た直後ころから人吉署に赴いたころの心境について、二月一二日付、同月二〇日付け、及び同月二一日付各検面調書には、「Cの遺体は、見るも無残な姿で、それを見た時、頭がカーッとなり、Cをこんな姿にした者を許すことができないと思った。その後、人吉署で、D会の者がCを殺したとわかり、和解(D事件後の手打を指す。)をしていたのにCを殺すことは許せないと、頭に来て、私としても、これから組対組の抗争事件に発展すると予想でき、自分も仇を取らなければならないと思った」旨の記載が見られる。

これに、被告人丙が、Cの生前、同人と特に親密な関係にあったことが、同被告人自身の公判供述等の各証拠から十分認められることに照らせば、人吉署に移動する前後ころ、同被告人が、Cが殺害されたことに対する人一倍の悲しみを感じ、その悲しみの大きな故に、C殺害犯人に対する強度の憎悪心を抱いたことには、疑いの余地がない。

しかし、右各調書の記載については、被告人Cは、総長事件の公判廷で、「警察官や検察官に、『こぎゃんならんと嘘じゃないか』等と言われて、それに供述を合わせた」旨弁解しているところ、少なくとも、同被告人の取調べ担当警察官である熊本北警察署勤務司法警察員巡査部長X1(以下「X1刑事」という。)の取調べにおいて、右のような追及がなされた事実を排斥することはできず、かつ、前記各検面調書の当該記載内容が、その録取に先立って、X1刑事によって録取された二月一〇日付員面調書に既に表われていることに鑑みれば、右の弁解内容を一概に否定し去ることはできないというべきである。そして、被告人丙が、右各供述をなした時期には、決定書三4(二)等に記載したとおり、同被告人が、警察官による暴行の影響力を完全には脱し切っていなかった疑いが残る以上、たとえそれが任意性にまでは影響しないものであったとしても、信用性の判断においては、改めてその点を斟酌せざるをえない。そして、そのように、取調べの外的状況の適正さに疑問なしとしない供述については、問題となる犯意の徴表と評価できる何らかの客観的・外形的言動があったことが、他の、確実な、証拠価値の高い証拠によって裏付けられていない限り、捜査段階で右のような供述をしていることのみから、犯意の存在を断定することは、なお危険な採証方法であると評価すべきである。

そして、被告人丙が、人吉署に移動した前後ころに、殺意の徴表と目すべき外面的行動を示した事実を認めるに足る確実な証拠は何ら存在しないばかりか、これを窺わせる関係者の供述等の証拠すらないのであって、かかる証拠状況のもとで、右段階での被告人丙の殺意の事実を断定することはできないというべきである。

(4) 被告人丁について

被告人丁に関しては、同被告人の二月七日付(舎弟事件<書証番号略>)及び同月一七日付(同事件<書証番号略>)各検面調書には、「人吉の病院でCの無残な死体を見た時、必ず、仕返しをしてやろうと心に誓った」旨の記載が見られるほか、同被告人は、公判段階でも、総長事件及び舎弟事件の各公判廷で、「Cの死体を見て、可哀想だと思い、また、仕返しの行動もすることになりはしないかと、困ったことになったと思った」等と述べており、同被告人が、Cの遺体に接して、身内の者が殺害されたことに対する遺憾の念を覚えるとともに、C事件が抗争事件に発展する現実的可能性があると認識したことは、疑いの余地がない。

しかし、被告人丁は、従前、Cに対して、必ずしも好ましい感情を抱いていなかったことが窺われ、その点に鑑みれば、Cの死亡と同被告人のF一家関係者に対する殺意とが必然的に結びつくとまで解釈することには無理がある。

すなわち、被告人丁は、舎弟事件の公判廷で、

「Cとは、あまり仲がよい方ではなかった。それは、昭和六一年三月か四月ころ、私がしようと思っていた仕事を被告人甲に取り上げられ、気分が悪く、二、三日事務所に顔を出さなかったところ、同被告人に邪気を回されて、『殺す』『追放じゃ』等と言われ、大変な目に遭ったことがあるが、その時、私とすれば、Cは同じ舎弟なので、私をかばうのが筋だと思うのに、被告人甲の言い分ばかりを私に伝えて私を責めるので、『これぐらいの男か』と思って、頭にきた。他のことでも、あまりいい感情は持っていなかった」

と述べており、その内容は十分具体的で自然であるほか、これを虚偽であると認めるべき反対趣旨の証拠もない。

更に、被告人丁の総長事件及び舎弟事件の各公判廷での供述によれば、同被告人が、前記(1)ウに摘示したD事件後の手打の経緯の概略を認識し、また、C事件の前日ころ、被告人甲が人吉市にいるCを叱責している状況を現認していたことが認められ、この点を、同丁の従前のCに対する感情と併せ考慮すれば、Cの遺体に接した時の同被告人の感情としては、むしろ、「被告人甲が前記(1)ウfのようにCを叱っていた時、『人に迷惑かけたり、妙なことにならんといいが』と言って心配していたので、私としても、Cにちょっと腹が立、『同被告人に言われてさっさと帰らんからこういうことになるんだ』と、Cがもめ事の原因を作るような、軽率な動きをしたので、あまりいい気持ちはせず、同人が慎重に行動していたらこういうことにはならなかったはずだと思い、残念だった」という、同被告人の舎弟事件の公判廷での供述の方が、むしろ信用性が高いとの評価すら可能である。

これらの点に、右(3)に被告人丙について述べたのと同様、人吉署への移動の前後ころの段階で、同丁が殺意の徴表と目すべき外面的行動を示した事実を認めるに足る証拠が何ら存在しないことをも考慮すれば、同被告人が、そのころ、F一家関係者に対する自己固有の殺意を有していたと認めるには、なお疑問が残るというべきである。

以上の次第で、検察官が前記(一)①で主張する、各被告人のF一家関係者に対する殺意の形成の事実は、いずれの被告人に対する関係でも、これを断定することまではできない。

(三) 人吉署における概括的共謀の成立(検察官の前記(一)②の主張事実)の有無

(1) 被告人ら四名の共謀の事実の認定に供しうる証拠及びその内容

まず、検察官の前記主張事実中、被告人四名による共謀の事実の認定に供しうる証拠は、被告人丁の三月一四日付及び同月三〇日付各検面調書の当該部分のみであり、その内容の要旨は、それぞれ次のとおりである。

ア 三月一四日付検面調書

私は、人吉署に次々に来た道仁会幹部を案内して、Cの遺体に焼香してもらい、その後被告人甲のところに案内する等の、応対の役目をした。道仁会の親分らは、同被告人の車に行くと、車の中に入り、同被告人と何か話をした後、それぞれ帰って行った。私は、そのような偉い人たちと応対したり、被告人甲の車の中で少し休んだり、車の外で同乙と雑談したりし、そのあたりで、被告人乙と、「仕返しをせないかんなあ」といつた言葉も交わしていた。道仁会の幹部らが帰った後だと思うが、私・被告人乙・同丙の三人が、たまたま同甲の車の中で休んでいる時、同甲が、私たち三人に、「別府は向こうに任しておいてよか」と言った。それは、別府市のF一家本家に対する攻撃は道仁会本部に任せるという意味で、逆にみれば、熊本県内のF一家に対する攻撃は甲一家が担当するということだと思った。そして、私は、被告人甲が道仁会の幹部と相談して抗争の分担を決めたことがわかり、「そうですか」と返事をし、被告人乙と同丙も、同様の返事をした。この被告人甲の指示の後、E1らが、私たちに挨拶をして、出かけて行った。

イ 三月三〇日付検面調書

被告人甲、同乙、同丙、私ら、甲一家最高幹部は、同甲のベンツの中で休んだり、その回りで話をしたりし、誰の言葉だったかは特定できないが、ベンツの中で、同甲も交えて、「D会は二、三人しか組員がおらんから、犯人が四、五人いたということだから、別府の本家から人が来たんじゃなかろうか」等と話をした。そのうち、被告人乙が、ベンツの中に入って来て、「E1が行くと言うてますけん」等と言って、補佐らがCの仇を討つために先頭になって行く気になっていることを、同甲に報告した。その後だったと思うが、被告人甲が、「別府は向こうに任せておけばよか」という表現で、今回の抗争の甲一家の直接の相手は、別府市のF一家本部ではなく、熊本県内のF一家の連中であることを、私たちに指示した。道仁会幹部も、大勢弔問に来ていたので、私は、幹部の間で今回の抗争の方針が話し合われ、甲一家は、熊本県内のF一家を狙う分担になったと思った。被告人甲からこの発言を聞いたのは、E1らが私たちより一足早く人吉署から出発するすぐ前ころだったと覚えている。出発前に、E1は被告人乙に、E2は私に、挨拶をしているが、その後のことだったと思う。

(2) 右各検面調書の信用性

そこで、右各検面調書の当該記載内容の信用性を判断することとするが、結論としては、右各供述には、次に述べるとおりの看過し難い重大な疑問点が複数存在し、右各検面調書のみに依拠して、検察官主張の共謀の事実を認めることはできない。

ア 謀議の場所に関する疑問点(警察官の警戒状況との関係)

まず、関係証拠によれば、検察官主張の謀議がなされたとされる被告人甲の乘用自動車(ベンツ)は、人吉署構内に設けられた道場(以下、単に「道場」という。)の出入口から数メートルの位置に駐車していたことが明らかである。

ところで、一二月八日夜の人吉署駐車場における警察官の出動状況については、当時の警察側の記録等にこれを確定的に認めるに足る証拠はなく、各被告人や補佐らの供述内容も、必ずしも一致しない。しかし、例えば、被告人乙は、総長事件及び舎弟事件の公判廷で、「警察官は、二〇人か三〇人はいたと思う。その中には、顔見知りの熊本県警察官本部の警察官も四ないし六名含まれていた」等と述べており、また、E1は、E6事件の公判廷で、「人吉署駐車場で、断言はできないが、北署(熊本県警熊本北警察署の意)と南署(同熊本南警察署の意)の警察官を見かけた。E1組事務所が南署の管内なので、南署の暴力団係や県警本部の人が来るが、人吉署では、その南署の暴力団担当者に会ったと思う」等と述べているのであって、単に人吉署勤務の警察官のみが警戒にあたっていたのみならず、熊本県内の他の警察署からも相当数の警察官が応援のために派遣されていたことが明らかである。したがって、当時、人吉署駐車場で警戒活動に従事していた警察官の数は、かなり多数にのぼっていたことが、ほぼ疑いなく認められる。

また、これらの警察官の具体的動向に関しては、被告人乙が、

「警察官は、道場の出入口付近をはじめ、要所要所に立っていて、私たちが何人か寄れば、そこに寄ってきて話を聞いていた。私が、人吉署駐車場内のある場所から他の場所へ移動するような場合、警察官が自然に私の動きについて回ることがよくあり、関係者の応対をしている時にも、警察官は、その場に来て、話を聞いていた」

等と、また、同丙が、

「道場の出入口には、制服の警察官が、姿勢を正して立って警備しており、道場の外では、私服の警察官が、道仁会関係者に入り混じって行き来しており、幹部クラスには警察官がべったりついていた」

等と、更に、同丁が、

「警察官は、道場の出入口に三人か四人が常時警備しており、また、私たちの中にもごっちゃになっていた。私たちが二、三人で立っていると、別にどうという話をしているわけでもなかったが、警察官が『なんかい、なんかい』と言って寄って来たりした」

等と、それぞれ、本件、総長事件及び舎弟事件などの公判廷で異口同音に述べているほか、E1やE2も、E6事件の公判廷で、これに整合する供述をしている。

そして、一二月八日夜の人吉署における警察官の警戒活動には、抗争の未然の防止という目的が、少なくとも抽象的に含まれていたことは十分合理的に推認でき、これを踏まえれば、前記の各被告人や補佐らの、警察官の具体的な動向に関する公判供述の内容には、特に不自然な点はないというべく、少なくとも、そのような状況がなかったと判断することは到底不可能である。

また、関係証拠上、当時、道場内にはCの遺体が安置されており、道場には弔問客等がひっきりなしに出入りしていた状況が、ほぼ疑いなく認められ、したがって、被告人甲のベンツが止まっていた道場出入口付近は、人吉署構内の中でも、とりわけ、警察官はもとより、他の関係者の往来も頻繁であったと認めるのが相当である。

そうしてみれば、そのような、警察官の目につきやすく、少なくとも、道場出入口で常時警戒にあたっている数名の警察官からは目と鼻の先の位置に駐車中の自動車内で、しかも、甲一家の最高幹部である被告人四名が一堂に会しているというような、警戒中の警察官から注視されることが容易に予想される状況で、殊更検察官の主張にかかるような重要な謀議を行なうというのは、あまりに軽率な行動であるというべく、それ自体、かなりの不自然を否めない。

更に、前記の警察官の出動状況及びその出動目的に照らして、仮にそのような謀議の事実があった場合には、謀議の内容まではともかく、被告人甲のベンツの車内に甲一家最高幹部たる被告人四名が乗っている外形的な状況程度は、当然、道場出入口で警戒に当たっていた警察官をはじめとする警察官に把握されてしかるべきであるところ、そのような状況を目撃したとすると関係警察官の供述等は全くなく、その点に鑑みても、真実右のような状況があったものと断定するには、高度の疑いが残るというほかない。

イ 被告人甲と他の道仁会幹部との、報復の地域的役割分担に関する謀議についての疑問点

また、検察官の主張する、右謀議の際の被告人甲の「別府の本家はよそがやる」との発言は、その文理上、右謀議以前に、同被告人と、道仁会の他の幹部との間で、大分県別府市に事務所があるF一家本部に対する報復行動は甲一家以外の道仁会系列の組織が担当し、甲一家は熊本県内のF一家系列の組織に対する報復を担当する旨の合意が形式されていたことを前提としているところ、本件の捜査段階での統括者の立場にあった熊本地方検察庁勤務検事W4(以下「W4検事」という。)が明確に右事実関係を想定していたことは、同検事自身のE10事件での証言から明らかであり、現在でも、検察官は、右の図式を前提とする主張を維持しているものと解される。

しかし、被告人ら四名の謀議に先立って、被告人甲と他の道仁会幹部との間に、右のような謀議がなされたと認めるに足る証拠はない。

この点について、右の地域的役割分担の事実を窺わせるのは、被告人丁の三月一四日付検面調書中の、「道仁会幹部らは、被告人甲の車のところに行くと、車の中に入り、同被告人と何か話をした後、それぞれ帰って行った」旨の部分だけであり、右が前記謀議の状況であると解する余地もないわけではないが、仮にそのように想定すれば、前示アと同様、警察官相当数が、道仁会幹部の動向に注視しているただ中で、重大事項に関する謀議がなされたことになるという不自然さが残る。また、右のように想定すれば、被告人甲は終始自己の自動車の車内に陣取った形で、他の道仁会幹部がわざわざ同被告人の自動車まで足を運び、これに乗り込んで謀議をしたことにならざるをえないが、手打の条件に違反して騒ぎを起こす火種を作ったCの直属の上位者として、他の道仁会の幹部に対してかなり負い目があると考えるのが合理的であり、かつ、他の道仁会幹部との関係ではいわば喪主の立場にある同甲が自己の自動車の車内に陣取ったままで、弔問客の立場にあり、かつ、暴力団組織の系列上でも、同被告人と同格か、それ以上の地位にある他の道仁会幹部が、同甲の自動車を訪れて挨拶をしたことになり、その点でも、にわかに首肯し難い不自然さを免れない。更に、被告人丁の前記検面調書に見られる前述の状況を裏付ける警察官等の目撃供述も全くない。

なお、W4検事は、本件抗争の一方当事者たるF一家の本拠は別府市にあるにもかかわらず、抗争の直接の指揮者となった補佐五名が、全く同市に赴かず、いずれも熊本市内の場所ないし人物を襲撃目標として行動しており、右の点は、被告人甲と他の道仁会系列組織の組長との間に、前記地域的役割分担の合意があったことの証左であるとの立場から捜査を進めたことが、同検事のE10事件の公判廷での証言自体から明らかである。しかし、補佐五名の属する甲一家又はM組は、熊本県内に本拠を有する組織であり、補佐五名も、熊本県が地盤であって、それらの中に別府市近辺の地理に詳しい者、あるいは、F一家本部の各幹部の素姓や居宅の場所等の情報に通じている者が含まれていることを窺わせる証拠もなく、攻撃目標となる人物ないし組織に対する知情の程度、地理的事情に関する知識、潜伏場所の手配の難易、本部事務所への交通の便等のいずれをとっても、当面熊本市内のF一家関係者ないし関係団体を報復の標的に設定して行動することに、全く不自然な点はない。したがって対立組織の本拠地たる別府市に補佐らやその配下組員が赴いていないことは、被告人甲と他の道仁会幹部との前記内容の合意という要素を捨象しても、十分合理的に説明可能であって、補佐らが報復の標的をいずれも熊本市内に選定したことをもって、同被告人と他の道仁会幹部との間に、前記のような地理的役割分担の合意がなされた事実を推定することはできない。

また、被告人丁の三月一六日付検面調書(総長事件<書証番号略>・舎弟事件<書証番号略>)や、E3の舎弟事件の公判廷での供述によれば、黒原病院事件の翌日ころ、E3が、被告人乙の指示によって、同事件の被害者であるPの死体解剖が行なわれる久留米医科大学にF一家関係者が表われることを予想して、これを襲撃すべく、同大学に赴いていることが明らかであり、そのように、被告人乙が、仮に前記地域的役割分担の事実があったと想定した場合には、それに対する違背ともなるような熊本県外での報復行動を、現に命じている事実に鑑みても、そのような合意及び被告人甲による他の被告人に対するその旨の指示があったと解することには疑問が残る。

むしろ、被告人甲によって右役割分担の指示がなされたとすれば、抗争の直接の担当者である補佐五名に対し、何らかの形で、その旨の意思が伝達された事実があってしかるべきであるが、本件全証拠を精査するも、右指示の伝達の事実を直接示す証拠はもとより、補佐らが、当面の報復対象を選定するに際して、甲一家ないしM組と他の道仁会組織との間での地域的役割分担を意識していたというような、右伝達の事実を間接的に窺わせる証拠さえ、一切存在しない。かえって、補佐五名が十二月九日夜から同月十日にかけて、○○ビルで一応の報復対象を選定した経緯に関する、補佐五名の捜査段階及び公判段階の各供述を総合すれば、右報復対象の選定し際しては、補佐ら各自が、それぞれ自己の知識に従って心当たりの報復対象の候補を示し合い、その独自の判断でそれらを報復対象に選定したと認める方がはるかに自然かつ合理的である。したがって、被告人乙又は他の者から、E1その他の補佐らに対し、熊本県内のF一家系列組織を標的とするようにとの同甲の指示が伝達された事実は窺えず、そうである以上、そもそも、同甲がそのような指示をした事実自体に、かなり高度の疑いを差し挟む余地があるというべきである。

ウ 補佐らとの接触との関係についての疑問点

次に、被告人丁の三月一四日付検面調書では、前記謀議があった後に、E1が同乙に、E2が自己に、それぞれ挨拶に来たとされており、それ以外に、補佐らと被告人丁ないし同乙との接触の場面は窺われないのに対し、同月三〇日付検面調書では、前記謀議に先立って、まずE1が被告人乙に、補佐らでC殺害に対する報復を行なう意思を伝えたことが前提とされており、同被告人がE1の右意向を被告人甲に伝えた後に、同甲が熊本県内のF一家関係者を殺害すべき指示をし、更に、右の同乙とE1との接触のほかに、別途、E1が同被告人に、E2が自己に、それぞれ挨拶に来たという構図になっている。

しかし、本件全記録を精査するも、E1が、人吉署において、二度にわたって被告人乙に補佐らが報復行動の指揮をとる旨の挨拶をした事実は、一切窺うことができず、同丁の右検面調書の記載には、この点でも、多分に疑問の余地があり、そのような、基本的な枠組において信用できない点がある以上、当該調書における被告人甲を交えた共謀に関する記載全体についても、これに必ずしも高度の信用性を置くことはできない。

(3) 結論

以上の次第で、被告人丁の三月一四日付及び同月三〇日付検面調書のうち、被告人ら四名の共謀に関する部分は、置ちにこれを信用することができず、また、それ以外に、右事実を証するに足る証拠はないから、結局、検査官主張の被告人ら四名及び補佐五名の間の概括的共謀の成立の事実は、これを認めえない。

(四) 人吉署退去置前ころにおける各被告人の主観的状況

そこで、検査官主張の概括的共謀の成立までは認められないことに鑑み、一二月八日の深夜又は同月九日未明に、各被告人が人吉署から退去するころにおける、各被告人の主観的状況について検討・整理しておく。

(1) 各被告人が、人吉署に赴く前後ころの時点で、いまだ、F一家関係者に対する自己固有の報復意思を形成していた事実が認められないことは、前示したとおりであり、また、各被告人が、人吉署滞在中に、検査官主張の事実関係とは別個の態様で、それぞれ独自に、固有の報復意思を形成したことを断定するに足る証拠もない。

(2) 一方、補佐五名の、E6事件をはじめとする関係各公判廷での供述を総合すれば、人吉署に駐車中のE1の自動車内で、補佐五名、あるいは、少なくとも、補佐らのうちE1を含む複数名の間に、C殺害に対する報復行動を補佐らで行なう旨の概括的な意思の連絡があったことを認めることができる。

(3) そこで、補佐らと各被告人との連絡状況についてみるに、、まず、被告人甲及び同丙に関しては、補佐らによる右意思の連絡の内容を、直接又は間接に了知したことを認めるべき証拠はない。

(4) 次に、被告人乙については、E1の舎弟事件及びE6事件の各公判廷での供述、及び、同被告人自身の総長事件及び舎弟事件の各公判廷での供述によれば、補佐らが、前記(2)の概括的な意思の連絡を遂げた後、E1が、同被告人に対し、「今度のことは、わしらに任せてくれんですか。舎弟の人は口出しせんでくれんですか」等と述べて、自らの意向を伝え、これに対し、同被告人が、「おうおう、わかった」等と、これを応諾する返事をした事実を認めることができ、同被告人が、補佐らがC殺害に対する報復行動を行なう意思を有していることを認識しながら、それを是認したことは明らかである。

但し、右の場面では、E1が一方的に前記のような申し入れをし、被告人乙としては、単にこれを応諾したに過ぎないことが、同被告人及びE1の各公判供述のほか、右両名の捜査段階の供述に依拠しても明らかであり、同被告人が、右のE1との接触の場面で、F一家関係者を殺傷する旨の自己固有の犯意を抱いた事実を窺わせるような証拠はなく、いまだ、これをもって、同被告人を含めた概括的共謀が成立したとまでは認め難い。

(5) また、被告人丁については、同被告人が人吉署で、E2から、熊本に帰る旨の挨拶を受けた事実を認めることができる。この点、同被告人は、捜査段階では右事実を認めていたが、公判廷では、これを否認している。しかし、E2は、E6事件の公判廷で、「人吉署から退去する際、被告人丁が道場付近に立っていたので、『先にE1さんたちと帰るから』と言ったと思う。それまでは、皆が道場の方に行っても、入るのはだめだと言って返されていたが、人吉署を出る前には、人がまばらになっていたので、私一人だけならよかろうと思って、道場に行ったが、やはりだめだと言われ、その時、道場の入口付近の、制服の警察官がいたすぐ横あたりに、同被告人が腕組みをして立っていたので、『先に帰りますから』と言いながら帰ったと思う」と、具体的かつ自然で、また、被告人丁の舎弟事件の公判廷での供述に見られる、同被告人の人吉署での行動とも整合する供述をしており、E2が同被告人に右のような挨拶をした事実は、十分認められる。

但し、被告人丁の二月一七日付検面調書(舎弟事件<書証番号略>)以後の関係各供述調書に見られるような、「私と被告人乙が近くにいる状況で、E1とE2が来て、E1が同被告人に、E2が私に、それぞれ挨拶をした」という趣旨の事実までは、従前自己とE2との対話のみに言及していた被告人丁が、右二月一七日付検面調書において、何故、突如として、同乙とE1の存在についてまで供述するようになったのか、その供述変遷の理由が何ら明らかにされていないこと、E1及びE2の捜査段階及び公判段階の各供述によるも、その時、右両名が一体となって舎弟クラスの組員に挨拶に出向いた旨の事実が窺えないこと、更に、被告人乙の捜査段階及び公判段階の関係各供述に右のような事実を窺わせる記載が全くないこと等に照らして、これを断定することはできないというべきである。

そして、E2から右挨拶を受けるまでの、被告人丁の補佐らの動向に関する認識としては、人吉署駐車場で、E1ほか、少なくとも二ないし三名の補佐が一台の自動車内に乗っていた事実を現認したことは、同被告人の舎弟事件での公判供述に依拠してもこれを認めることができるが、他方、同被告人が、単に、補佐らが同一の自動車に乗っているという状況を見ただけで、それが補佐らの間での抗争に関する謀議であると理解できたと断定するにはかなり無理がある。

したがって、証拠上優に認められるE2の被告人丁に対する挨拶の態様が右の程度にとどまり、かつ、それ以前に、同被告人として、補佐らが抗争に関する相談をしている事実を認識ないし推定していたとも認め難い以上、E2から挨拶を受けた際、同被告人が、右挨拶を、「補佐らが主体となって報復行動を行なう」とか、「これから熊本に潜伏して報復行動に備える」等という趣旨のものであると理解したとまで認めるには、なお疑問が残る。

以上、前記(二)以後、右までに検討したところを総合すれば、結局、人吉署を退去する直前ころの各被告人の主観面に関しては、

① 被告人甲については、その態様を確定するに足る証拠はなく、

② 同乙については、補佐らが、E1を中心として、C殺害に対する何らかの報復行動に出ることを企図していることを了知し、かつ、これを是認したことが認められるにとどまり、

③ 同丙については、C殺害犯人と推定されるD会ないしF一家の関係者に対するかなり強度の憎悪心を抱いていたが、いまだ、自己が自ら、あるいはその配下組員等を手足としてF一家関係者に対する報復を行なうべき意思を有するに至っていたとまでは認め難く、

④ 同丁については、単に、甲一家ないし道仁会の組員が報復行動に走る現実的可能性があることを認識していたことが認められるにとどまる

というべきである。

3 一二月九日の段階・その一(Jの本部事務所来訪)

(1) 次に、C事件翌日である一二月九日の状況について検討するに、同日の経緯でまず指摘する必要があるのは、同日、暴力団J一家総長であるJが本部事務所を訪れて、被告人甲に対し、C事件に対する報復行為に出ることを差し控えるように申し入れをし、同被告人がこれを承諾する返答をした事実である。

(2) この点に関する被告人甲の本件公判廷における供述や、同乙及び同丁の本件、総長事件及び舎弟事件での各供述は、その相互の間に重要な点で矛盾するところもなく、また、被告人乙及び同丁が総長事件の公判廷で証言をするに際しては、互いに、他の被告人がどのような供述をしているかを認識していたことを窺わせるような証拠もないのであって、それぞれが自己の記憶に基づいて証言をしたものと解するほかなく、更に、特に右各供述の内容を否定するに足る証拠もないことに鑑みれば、Jが本部事務所を来訪した際の状況は、ほぼ次のとおりのものであったと認めるのが相当である。

① Jが本部事務所を訪れたのは、同日の昼前ころで、同人は、同日、それに先立ち、人吉市にD会を訪れた後に、他のJ一家関係者らと本部事務所を訪れたこと。

② 甲一家側がJの一行に応対した場所は、本部事務所一階の応接間で、同所の応接セットの一方の椅子に、J、J一家副会長(記録上氏名不祥)及びJ一家若頭で極心会会長の溝下某が、また、テーブルを挟んだ他方の椅子に、被告人甲、同乙、及びM組組長のM(以下「M」という。)が、それぞれ座り、他に、応接間の室内には、被告人丁や、J一家及び大州会の組員数名がいたこと。

③ Jが本部事務所に来た目的は、D事件の際に、同人及びIが仲介に入って手打をしたにもかかわらず、C事件が発生したことについて、甲一家側に詫びを入れ、併せて、C事件に対して報復行動に出ることを控えてくれるように申し入れをするためであり、Jは、「自分たちが話を決めて手打をしたばっかりなのに、こういうことになり、自分が力不足で大変申し訳ない。今、自分が、神戸の山口組本部に電話を入れて抗議しており、その返事待ちになっているが、まだ連絡がなく、九州は九州で話をしてくれるということになると思う」「自分たちも一生懸命やるから、なにぶん、こらえてやってくれ。ちょっと動かんで待っていてほしい」等と述べて抗争を控えるように申し入れたこと。

④ Jの右申し入れに対して、被告人甲が、「私も注意しておったんですよ。私の方も落ち度はあります」等と、C事件についてはCないし甲一家の側にも落ち度があった旨を述べるとともに、「よくわかりしまた。御迷惑かけます。ひとつ宜しくお願いします」等と述べて、抗争を控えることを承諾する返事をしたこと。なお、この点、被告人甲は、捜査段階では、三月二五日付検面調書で、「Jの来訪の際は、同人と私が二人だけで話をし、被告人乙らは聞いていない」旨や、「Jの右申し入れに対しては、『どうも有難うございます』と抗争を控えるとも控えないともわからないような返事をした」旨を述べているが、前者についてはほぼ明らかに真実に反すると認められ、また、後者についても、対立組織寄りの関係者であるとはいえ、暴力団組織の系統上、被告人甲より上位に位置し、同被告人が九州における暴力団組織の最高権威の一人であると認識している人物であるJ(この事実は、被告人甲の本件公判廷での供述によって認められる。)からの真摯な申し入れに対して、同被告人がそのような曖昧な返答にとどめるということには釈然としないものがあることに鑑みれば、右検面調書の記載をもって、被告人甲、同乙及び同丁の公判供述により一応認められる前記同被告人の応対の態様を完全に否定することはできない。

(3) なお、被告人乙の総長事件での証言によれば、一二月九日又は翌一〇日に、Jの兄貴格の人物である大州会会長のIが本部事務所を訪れて、被告人甲、同乙及びMが応対し、Iが、慎重に行動するようにとの趣旨の申し入れをしたのに対し、被告人甲の側は、「宜しくお願いします」と答えたという、Jの来訪の際とほぼ同様の状況があったことを窺うことができ、右事実を否定するに足る証拠もない。

(4) 以上の事実を前提とすれば、そのように、上部団体の幹部複数名の面前で、明確に抗争を控えることを承諾する意向を示しておきながら、故意にその言に反して、甲一家側から実力行使に出れば、それは、明らかに甲一家側の非違行為であり、仲裁に入ったJあるいはIの体面を著しく汚し、ひいては、人的・物的に全国最大の強大勢力を有する暴力団組織であることが公知の事実である山口組の組織全体を敵に回した抗争を惹起する危険性も高度であり、一方、抗争を控え、Jによる仲裁が進めば、C事件についての主たる責がD会側にあることは明白であることに照らして、甲一家側に有利な条件での和解の可能性も多分に存したと認められ、被告人甲としても、その程度の事理は当然認識していたと解するのが相当である。したがって、被告人甲として、抗争に出ることについての右の重大な危険性を覚悟し、かつ、自己側に有利な条件での和解の成立の可能性を黙殺してまで、あえてF一家関係者を殺害すべきほどの動機を抱くに足るような大きな利益となる事項を、証拠上認めることはできない(同被告人が、抗争に勝利して人吉市を自己の勢力下に収めることを企図していた事実を断定し難いことは、前記2(二)(1)エのとおりである。)のであって、この段階で、被告人甲が、F一家関係者の殺害について自己固有の犯意を形成していたと認めるには無理があるというべきである。

(5) なお、そのころ、被告人乙、同丙又は同丁が、それぞれ、独自に、新たにF一家関係者に対する殺意を抱くに至った事実を窺わせるような証拠はない。

4 一二月九日の段階・その二(総長室での会合)

(1) 次に、そのころの各被告人、特に被告人甲の犯意の形成の有無に関して、一二月九日に、本部事務所総長室で、甲一家幹部が会合し、その席で、同被告人が、F一家に対する抗争の意思を表明した事実の存否を問題とする余地がある。

(2) 確かに、各被告人の公判供述をはじめとする関係各証拠によれば、そのころ、被告人甲、同乙、同丁、及びその他の甲一家の幹部数名が総長室に集まり、Cの通夜や葬儀の進行、弔問客の接待の方法等について話し合った事実を認めることができる。

(3) 検査官は、その席で、被告人甲がF一家との抗争を遂行する意思を表明し、同乙や同丁もこれを了知した事実を主張するようであるが、これに沿う証拠としては、被告人丁の二月七日付(舎弟事件<書証番号略>・但し、被告人甲自身に対する関係では罪体認定に供することはできない。)、同月一七日付(二通)及び三月三〇日付の一連の検面調書があるのみであり、これらを総合した内容は、大要、次のとおりである。

「一二月九日午後四時半ころ、被告人甲、同乙、同丙、私、M、N、Rらの甲一家幹部が、総長室に集まった。この時主な話題は、Cの通夜と葬儀の段取りだったが、話の冒頭に、被告人乙が同甲に、『E1どんらがもう熊本に行っとるです』等と報告し、同甲は、『ああ、そうな』と答えた。あるいは、被告人甲が、『E1たちはどうしている』等と同乙に聞き、それに対して同被告人が答えたのかも知れず、また、E1らは、まだ事務所にいる様子だったから、ひょっとしたら、同乙の話は、『今からやる』というような話だったかも知れない。通夜と葬儀の段取りについて話が一段落した後、被告人甲が『抗争が一段落したら、誰か人吉に行かにゃいかんだろう』『Nか、本部長(被告人丁の意)のとこが行かんか』等と言い、その後、皆に向かって、『F一家には絶対に負けられん』と言った」

(4) しかし、右丁の供述には、次のとおり、看過できない問題点があり、必ずしも高度の信用性を置き難いといわざるをえない。

ア まず、右供述内容のうち、被告人乙が同甲に、「E1どんらがもう熊本に行っとるです」等と報告したとの点については、同乙は、一二月八日夜、人吉署で、E1から、補佐五名が報復行動を行なう旨の申し出を受け、その後、同甲と同一の自動車で本部事務所に帰り、同月九日にも、Jの来訪の際に同被告人と同席し、その後、通夜の準備をする等、ほとんど同被告人と行動を共にしている(この点は、関係各証拠が一致し、疑いの余地はない。)のであるから、E1の動向について同被告人に報告する意思があったのであれば、E1から右の申し出を受けた後の早い段階で、すなわち、人吉署からの帰路の際か、同月九日の早い時刻に報告がなされるのが自然であり、同日の午後四時半ころいう時刻に至って、初めてそのような報告がなされることには、不自然さを否めない。

また、E1の舎弟事件及びE6事件の公判廷での供述その他の関係証拠に照らせば、右会合がもたれた時点では、同人は通夜の準備のために本部事務所にいたことが明らかであるとともに、同人の五月一四日付検面調書によれば、同人に対して通夜に出席するように指示したのは被告人乙自身であったことが窺われ、同被告人として、その当時E1が本部事務所に来ていることを知っていた事実を認めざるをえないところ、そのような同被告人が、「E1どんらが『もう熊本に行っとる』です」という完了形の表現を用いたとは考えにくい。なお、被告人丁の前記各検面調書中、二月七日付調書では、「ひょっとしたら、被告人乙の話は、『今からやる』というような話だったかもしれない」旨記載されて、一応右疑問点に対する手当がなされているものの、その後の各供述調書では、また、「もう行っとります」等という、完了形の表現のみになっており、その供述の変遷経過には釈然としないものがあるほか、前記2(四)のとおり、いまだE1らを自己の手足としてF一家に対する報復行為を完遂しようとする自己固有の犯意を有していたとは認め難い被告人乙が、「今から『やる』」というような、あたかも、自己の手足として配下組員を働かせる場合のような言い回しをすることにも、にわかに信用し難い点がある。

イ また、被告人甲が、「F一家には負けられん」と述べたとの点は、同丁の前記各検面調書では、同甲のF一家に対する抗争の表明として捉えられていることが明らかである。

確かに、被告人甲が、C側にどのような落ち度があるにせよ、自己の舎弟を殺害された者として、D会ないしF一家に対して反感を抱くことは十分理解できるところであり、その発露として、前記会合の場で、F一家に対する何らかの反感ないし敵意を示す言葉を口にしたとしても、そのこと自体は十分自然である。

しかし、被告人甲は、右会合の僅か数時間前に、自らが、九州の暴力団組織の最高権威の一人と目しているJから、抗争を自制するように申し入れられ、同人を含むJ一家系の幹部組員複数の前で、明確にこれを承諾する返答をしているのであり、そのような同被告人が、まさにその舌の音も幹かぬうちに、自らの配下の幹部組員に対してF一家に対する抗争の意思を表明するとは容易に解し難く、仮に、被告人甲が、右会合の場で、同丁の前記各供述調書に見られる言葉に類似する言葉を発した事実があったとしても、それをもって、同甲が、右時点で、F一家系組員の殺傷を伴うような抗争を遂行する意思を固めていたことの徴表であると評価することはできない。

ウ また、被告人甲が、自己側の甲一家の幹部組員が人吉市に行くことを打診したとの点についても、同丁の前記各検面調書では、F一家との抗争に勝利して、人吉市を自らの勢力範囲に収めることを念頭に置いた発言という位置づけがなされていることが明らかであるが、仮に、右会合の席で同甲の口からそれに類似する言葉が出た事実があったとしても、前記2(二)(1)に述べたC事件に至る経緯等に鑑みれば、必ずしも、それを右のような趣旨を含んだ発言であったと解すべき必然性はない。

この点、被告人丁は、総長事件の公判廷で、「右の会合の時ではないと思うが、同甲から、『誰かが人吉に行ってやらにゃいかん』という打診のような話はあったと思う。しかし、それは、Cの妻が一人になることを心配していた時に出た話で、敵地に乗り込むというような問題ではなく、同被告人は、Cの墓を建てることや、同人の家庭・子供の世話等を心配して言ったものである。組とか縄張りの問題ではないのだが、取調べでは縄張のことだ等と押しつけられた」と述べており、被告人甲が右のようなCの遺族を思い遣る心情から、配下の組員を人吉に派遣してその身辺の世話等に当たらせようと考えたとしても、何ら不自然なことではないのであって、仮に、右会合の席で被告人甲がそのようなことを言ったとしても、それをもって、同被告人がF一家との抗争を決意していたことの表われであると断定することはできない。

エ 更に、右会合がもたれた時刻について、被告人丁は、本件記録上最初に右の会合に関する供述をした調書と認めるのが相当である二月七日付員面調書では、「通夜が終わった午後九時過ぎ」と述べていたのが、前記同日付検面調書では、「午後七時から通夜が行なわれたので、その前のこと」と供述が変わっており、二月一〇日付員面調書に至って、初めて、「午後四時三〇分ころ」との供述が表われているが、右供述の変遷について、特に調書上の説明もなされていない。

オ また、被告人丁の前記各検面調書での供述内容のち、右会合の際に、被告人丙がいたとの部分は、右会合がなされたとされる一二月九日午後四時半ころには同被告人は本部事務所に来ていなかったと認めるのが相当であることに鑑みて、ほぼ虚偽であると認定できる。

すなわち、同日未明に人吉署を出てから同日夕刻までの被告人丙の動向については、捜査段階・公判段階を通じて、同被告人の供述がほぼ一貫しているが、その内容は、「人吉署から、cの遺体の解剖が行なわれる久留米医大に行くと、Nが来ていたので、同人と交代して、同日午前一一時ころに八代市の自宅に帰り着いた。二時間ほど寝た後、ポケットベルで起こされ、被告人乙から、Cの死亡診断書等をとって来てくれと頼まれたので、丙組の組員二名とともに、八代市役所で死亡診断書を貰い、更に、玉名市役所に寄って火葬の手続をした後、本部事務所に行った」というものである。そして、被告人丙は、右のうち、本部事務所に到着した時刻について、舎弟事件の公判廷で、「本部事務所に到着したのは、午後五時一〇分か二〇分ころだと思う。玉名市役所に行ったのが、ちょうど五時ころという記憶である。五時までに間に合わなかったら高速で行こうかと言っていたが、市役所に着いたのは、五時すれすれか、ちょっと前だったと思う。だから、本部事務所に着いたのが、五時ちょっと過ぎということは間違いない」と、具体的根拠を示して述べており、右供述内容を排斥するに足る証拠もないのであって、前記の会合の時刻には、同被告人はまだ本部事務所に到着していなかったと認めるのが相当である。

したがって、被告人丁は、右各検面調書では、一貫して、右会合の席に同丙もいたと述べているが、右部分はほぼ虚偽であると断定でき、その点からも、同丁の右各供述の信用性には疑問を差し挟むことができる。

(5) 以上の点を総合して評価すれば、前記各検面調書に見られる、被告人の甲の抗争遂行意思の存在を示すかのような各記載は、いずれも、それらを裏付ける何らの証拠もないばかりか、内容面においても不自然さを免れず、この点に、被告人丁の捜査段階の検面調書には、既に人吉署での状況に関して前記2(三)に述べた点のほか、後にそれぞれ当該箇所で判示するとおり、各局面に関して重大な疑問点が数多く見られ、そもそも、そのような同被告人の供述調書のみに依拠して関係被告人に不利益な事実を認定することは極めて危険な採証方法であると評価せざるをえないことをも併せ考慮すれば、同被告人の前記各検面調書に記載された右会合の際の被告人甲の言動の存在を軽々しく断定することはできない。

(6) よって、一二月九日夕刻ころの段階で、被告人甲がF一家との抗争を敢行し、その関係者を殺傷する旨の自己固有の犯意を形成していた事実を断定することはできず、したがってまた、他の被告人らが、前記の総長室での会合の際の同甲の言動を契機とする等して、新たにF一家関係者に対する自己固有の殺意を抱くに至った事実を認めることもできない。

5 一二月九日の段階・その三(Cの通夜の席での補佐らとの接触)

(一) 次に、一二月九日の夜に本部事務所で行なわれたCの通夜の際の、被告人乙、同丙及び同丁の補佐らとの接触の状況についてみるに、その各当事者の捜査段階の各供述調書によればもとより、それらの者の各公判供述のみに依拠しても、それらを総合すれば、少なくとも、次のような各事実を十分認めることができる。

① 本部事務所一階で、E1が、被告人丙に金策を申し出たが、同被告人が、「今は持たんぞ」等と言うと、E1は、「よかなら、代貸(被告人乙)と本部長(同丁)に頼んでくれんか」と申し出たので、同丙は、三階に電話をして、同乙及び同丁を一階に呼び、右両名に、「E1が金を貸してくれと言いよるけん、話を聞いてやってくれ」と頼んだ。

② その後、一階応接間に、被告人乙、同丁、E1及びE4が揃い、E1が同乙及び同丁に、「今度のことは自分たちがやります。もう任せてくれんですか。皆もやると言いよるけん」等と述べて、改めて、本件抗争の指揮を補佐五名がとる意思を表明し、同丁も、補佐らの右意思を明確に了知した。

③ 同じ場面で、E1が被告人乙に、「よかなら五〇万か一〇〇万貸してもらわれんだろうか」等と言って、金策を申し出たが、同被告人は、「急に言うたっちゃあるか」等と言って、その場では貸さず、「要るなら、会費の残っているのを使え」と、「義理事の際に、甲一家がM組に代わって立て替えている金で、後日本来の負担者であるM組から甲一家に納めるべき金を使っておけ」という趣旨のことを告げた。

④ 更に、右の状況で、E1が、被告人乙に、報復行為に凶器として用いるけん銃の手配を依頼し、乙がこれを承諾して、直ちにE15に対してその旨を指示した。

⑤ 右一連のやり取りの後、被告人丙は、応接間から出て来た同乙又は同丁に対し、「どげんなっとるとな」と、聞いたところ、そのいずれかから、「頭補佐連中がやるて言いよるてたい。舎弟連中は黙って見とってくれと言いよる」と言われたため、同丙は、補佐らが中心となってC殺害に対する報復行動をするのだと認識した。

(二) これらの事実のうち、被告人乙は、公判廷では、E1からけん銃調達の依頼があった事実はなかったと思う旨供述するが、同被告人は、捜査段階では右事実を認めていたほか、公判廷でも、「けん銃の段取りの依頼は、絶対になかったと断言できるのではなく、記憶がはっきりしない」等と述べて、明確に右事実を否定するまでの態度を示していないこと、その場に同席していた被告人丁は、捜査段階・公判段階を通じて一貫して右事実を認めていること、また、右依頼の主体であるE1も、捜査段階ではもとより、E6事件及びE10事件の公判廷で、明確に右事実を認めるとともに、右依頼に基づいて同日中にE5がけん銃二丁を○○ビルに持参した旨供述しており、E5もまた、E6事件の公判廷で、同夜、本部事務所付近の路上でE15からけん銃二丁を借り受けた旨を明言していること等に照らせば、E1から被告人乙に対してけん銃の調達が依頼され、これを受け入れた同被告人が、直ちに、E15に対して、右依頼に従ってE1又は同人から指示を受けた者にけん銃を手交すように命じた事実があることは明白である。

なお、被告人乙は、本件及び総長事件の公判廷で、「右の際、又は、それ以前のJが事務所を来訪した直後の段階で、E1に、Jの申し入れの内容を伝え、慎重に行動するようにとの申し入れをしたと思う」旨述べているが、右の点は、これを裏付ける証拠が全くないばかりか、右に認定した補佐らとの接触の際の経緯に照らして、措信することができない。

(三) また、右一連の事実とは別に、被告人丁の総長事件及び舎弟事件の各公判廷での供述によれば、E2が、Cの通夜の席で、同被告人に対し、「人吉に行く」旨の言葉を口にした事実が認められる。この点、同被告人の二月一七日付検面調書(舎弟事件<書証番号略>)には、「E2が、『俺には人吉に行けてったい』と言ったので、私は、補佐らの間で、E2が人吉を攻撃することに決まったのかなと思った」旨の記載があるが、補佐五名が、当面の報復対象の候補を挙げ、そのそれぞれについての一応の役割分担を決めたのは、Cの葬儀後、同夜○○ビルに引き揚げた後であることが、補佐らの捜査段階及び公判段階の各供述から明らかであり、しかも、右各証拠によれば、その役割分担において、E2が担当することになったのは、P組事務所であることも認められるのであるから、E2が、それに先立つCの通夜の席で、補佐らの間で役割分担がなされたこと前提とする前記のような言葉を発するとはほとんど考えられず、右の検面調書の記載をそのままの形で信用することはできない。そして、E2のE6事件の公判廷での供述により、同人が、人吉署から熊本への帰路、自動車に同乗していた他の補佐らに対し、人吉市に残ろうかと申し出る等、同市でC殺害犯人が直接属する組織であるD会の関係者を殺害する志向を有していたことが認められることに照らせば、Cの葬儀の際の被告人丁に対するE2の発言は、せいぜい、人吉市でD会に報復する意思があるという、E2限りの個人的な意向を述べたものであるにとどまると解するのが相当である。

しかし、被告人丁が、E2の言葉を聞いた後、同人に対して、「無理するな。体は大丈夫か」と述べたことは、同被告人の公判段階の供述からも明らかであり、また、同被告人は、舎弟事件の公判廷では、「E2が人吉に行くのは、補佐らの仕返しの一環として行くという理解も少しはあり、それに対するねぎらいの意味も、少しはあった」と述べていることに鑑み、かつ、E2が同被告人の直属の配下組員であることを考慮すれば、右の被告丁の行為は、本来自己の手足たるべきE2が、D会ないしF一家に対する報復意思を有していることを認識しながら、これを是認し、かつ、E2を勇気づける行為に出たものと評価すべきである。

(四) これらのほか、被告人丁の三月三〇日付検面調書には、(一)に認定した一連の出来事の前に、被告人甲が、大広間で、E4に、「放免祝いが済んだばかりで、きつかね」と、ねぎらいの言葉をかけた旨の記載が見られる。しかし、右事実については、これを裏付けるに足る証拠が全くないばかりか、右検面調書の記載の淵源とみられる同被告人の二月一八日付員面調書には、前記(一)の②以後の応接間における一連の経緯の中で、その場に被告人甲も同席していて、同被告人が、E1が同乙に金策の申し出をする前に、E4に前記のようなねぎらいの言葉をかけたという記載があり、これが明らかに真実に反するか、又は、到底措信し難いことは、その他の右応接間での経緯を示す全証拠に同甲の存在を窺わせる部分が全くないことからみて、明らかであり、前記検面調書の該当部分は、そのようなほとんど信用性のない二月一八日付員面調書の前記部分を、時間と場所を若干変更して再編成した域を出ず、さしたる信用性をもつものではない。

(五) そこで、右の各事実に鑑みれば、各被告人の、右の補佐らとの接触の直後ころの抗争に対する姿勢は、ほぼ次のとおりであったと認められる。

(1) 被告人甲について

被告人甲については、そもそも、右のとおり、前記補佐らとの接触の場面に同席していた事実を認めるに足る証拠がなく、もとより、この局面で新たに固有の報復意思を生じたこと等の主観面での積極的変化を認めることはできない。

(2) 被告人乙について

被告人乙については、右のとおり、E1からの抗争資金の提供に対して、その場で金銭を手渡すことはしていないものの、右金銭が抗争のために用いられることを認識しながら、M組が甲一家に納入すべき会費の流用を是認し、また、けん銃の調達依頼に対しては、直ちにこれを承諾した上、E15をしてE5にけん銃二丁を手交させているのであり、補佐らが企図している抗争の遂行を極めて積極的に評価し、これに協力的な態度を示していたことが認められる。

なお、同被告人は、E1からの金策の依頼について、公判廷で、最終的には、その申し出にかかる金額が五〇万円ないし一〇〇万円程度であり、その程度の金額では抗争を遂行することはできないことを理由として、抗争に関係する金員の調達の依頼だとは思わなかった旨述べている。しかし、右の依頼が、抗争に使用する凶器であることが明白なけん銃の調達の依頼と相前後してなされていること、右程度の金額で抗争に必要な全需要を賄うことは無理であるとしても、当面の潜伏生活に要する日常の出費を賄うには十分有益であって、前記金額は、当該金銭を抗争に用いることと何ら矛盾するものではないこと、また、同被告人自身、捜査段階ではもとより、公判段階でも、、一旦は、総長事件の公判廷で、右金員は抗争に用いる金であると思ったと述べていること等に照らせば、同被告人が、右金銭が抗争に関連したものであることを認識しながら、会費の流用を認める態度を示したことは明らかである。

但し、金策の相談も、けん銃の段取りも、いずれも、E1側からの申し出にかかるものであって、被告人乙としては、これに応じたに過ぎず、主体的・積極的に抗争に加功しようとするまでの態度を認めるべき証拠はなく、いまだ、F一家関係者を殺傷することに対する自己固有の犯意を形成していたとまで断定することはできない。

(3) 被告人丙について

被告人丙については、右時点で、補佐五名がC殺害の報復としての抗争の指揮をとる意思を有していることを明確に認識するに至ったこと、及び、これに対して特に消極的態度を示さず、補佐らによる抗争の遂行を是認したことは、同被告人の公判供述を前提としても優に認めることができる。

反面、この段階で、同被告人が、特に自ら主体的に抗争を遂行しようとする意思を有していたことを窺わせる証拠はなく、かえって、補佐らが抗争の指揮をとることを認識した時点の心境について、捜査段階においてさえ、「『補佐らがやってくれるなら、任せておけばいい』と思い、内心、自分でやらずに済んでほっとした気持ちになった」等と述べており、同被告人が、抗争について、単なる傍観者か、せいぜい協力者の立場にとどまれることに対する安堵の念を抱いたことが認められるのであって、同被告人が、右時点で、F一家関係者に対する自己固有の殺意を抱くに至っていなかったことは明白である。

(4) 被告人丁について

被告人丁についても、同丙と同様、右時点で、補佐らの報復意思を明確に認識するに至ったこと、及び、補佐らによる抗争の遂行を是認したことは、十分認められ、ことに、右(三)に示した、自己の直属の配下組員たるE2に対する激励の態度に鑑みれば、同被告人が、本件抗争に対する単なる傍観者の姿勢を貫いていたとみることは不可能であり、少なくとも、E2の精神的な後盾たろうとする意思があったことは明らかである。しかし、同被告人が、補佐らがとることが予想される報復行動に対する一般的・概括的な是認、及びせいぜい勇気づけ以上の言動をとった事実を窺わせる証拠はなく、同丙についてと同様、いまだ、F一家関係者に対する自己固有の報復意思を有するまでには至っていなかったと評価することが可能である。

6 一二月一〇日の段階(Cの葬儀終了後の状況)

(一) 検察官主張の概要及びその認定に資する証拠

次に、検察官、被告人甲が、F一家に対する抗争を遂行する意思を有していた一根拠として、同被告人が、一二月一〇日、本部事務所で行なわれたCの葬儀の終了後に、同所大広間で、甲一家組員に対して、抗争を開始する旨の宣言をした事実を指摘し、同被告人の右宣言により、他の各被告人も、改めて同様の意思を有するに至ったと主張する。

そして、この点に関しては、確かに、被告人Cの三月一七日付(総長事件<書証番号略>・舎弟事件<書証番号略>)及び同丁の同月三〇日付各検面調書に、いずれも、右事実を示す記載がある。

(二) 右各検面調書の信用性

しかし、右各検面調書の記載内容には、以下のとおり、かなり疑問の余地が大きいというべく、また、それを裏付ける証拠もないのであって、そのような証拠状況のもとで、検察官の主張事実の存在を断定することはできない。

(1) 記載内容の具体性・迫真性の不足

まず、前記各検面調書の当該部分の記載内容は、被告人丙のそれについては、「同甲が、『葬式気分は今日で終り。明日からは喧嘩だ』と言った」旨、また、同丁のそれについては、「同甲が『葬式気分は今日で終りぞ』等と話をした」というだけのもので、その前後の同甲の発言やそれに対する一般組員の反応等は何一つ記載されておらず、いずれも極めて具体性・迫真性に乏しいものであって、それ自体、にわかに高度の信用性を置き難い供述内容であるといわざるをえない。

(2) 当時の大広間の状況からの疑問点

次に、被告人甲が抗争の宣言をしたとされる、Cの葬儀終了後の大広間の状況について、被告人乙は、総長事件の公判廷で、

「葬儀が終了し、後片づけが終ると、葬儀屋、賄いの女性、近所の人や、被告人甲の親戚、組関係者、神主等、皆で食事をし、その時、大広間には、賄いの女性、神主、葬儀屋、親戚、近所の人等、堅気の人も多くいた。賄いの女性は、組関係者の妻であり、また、葬儀屋は四ないし五人、近所の人は七ないし八人いた。午後九時か一〇時ころまで、そうして集まっていたと思う」

等と、また、被告人丙は、舎弟事件の公判廷で、

「私は、Cの葬儀後、午後九時ころに本部事務所を出たが、そのころには、まだ皆が大広間におり、葬儀屋も一緒にいて、花輪の片付けをしており、近所の手伝いの女性や、堅気の知り合い、葬儀屋、神主、神子らがいた」

等と、更に、被告人丁は、舎弟事件の公判廷で、

「Cの葬儀後、後片付けが終ると、大広間で、組員や応援の人、身内の人、炊事や賄いの女性等を全部集め、お茶を飲んだり、握り飯を食べたりして、皆で労をねぎらうなどした。大広間には、二〇人ぐらいおり、組員でない人もいた。神主や、身内の者が四ないし五人いたし、近所の女性もいた。女性は、賄いの人や、被告人甲と親しい近所の人ら、一四ないし一五人おり、堅気の男性も、何人かいたと思う。そのような状況は、午後九時か一〇時ころまで続いた」

等と、それぞれ供述している。

右各供述の間には、本質的な矛盾点もなく、また、供述内容自体、都市部ではない地域における葬儀のあり方として、経験則上自然であると評価でき、少なくとも、その時刻ころ、暴力団関係者以外の一般人も相当数が大広間に残っていたとする右各供述の内容を虚偽であるとして排斥するに足る証拠はない。

一方、暴力団の組織においては、自己の犯意の徴表たる言動は極力第三者に知られないように振舞うべきことは、公知の事実といっても過言ではない高度の経験則であり、ましてや、一般人の面前で自己の犯意を表明する行為に出ることはほとんど考えられないというべきである。そして、右のとおり、被告人甲が、検察官主張の言動をとったとされる日時・場所に、一般人相当数が同席していた事実を軽々しく否定できない以上、検察官の主張事実の存在を仮定すれば、同被告人は、一般人相当数の面前で右言動に出たと解するほかないが、同被告人が、あえて暴力団組織における前記の鉄則に反し、一般人の面前で、あからさまに対立組織との抗争を宣言する行為に出たとは、容易に認め難いというべきである。

(3) 供述経過に照らしての疑問点

次に、前記各検面調書の当該記載は、それに至る供述経過に鑑みても、その信用性に高度の疑いを差し挟まざるをえない。

これについては、本件記録中、右局面に関する前記各検面調書の記載内容の淵源と解される記載が、被告人丁の二月一七日付検面調書(総長事件<書証番号略>・舎弟事件<書証番号略>)に求められることに照らし、まず、被告人丁の供述経過について検討する。

ア 被告人丁の供述経過

a 被告人丁の供述経過をみると、右供述記載の淵源と評価すべき供述は、同人の前記二月一七日付検面調書に見られ、その内容は、「Cの葬儀が終わった夜を、どのように過ごしたか、記憶がはっきりしない」と述べる一方、「葬儀翌日の一二月一一日の朝だと覚えているが、被告人乙が、組員全員を三階大広間に集め、決して独り歩きはしないこと、外出する場合は必ず二、三人で出ること、出る場合には同被告人かMの許可をもらうこと等を指示した」と述べているものである。そして、このうち、一二月一一日ころに、被告人乙から甲一家組員に対して右のような注意がなされた点については、同被告人及び被告人丁の総長事件及び舎弟事件の公判廷での各供述に照らして、客観的真実に合致するものと認められる。

b ところが、右調書の録取のすぐ翌日に録取されたと一応認められる二月一八日員面調書では、一二月一一日に被告人乙が前記のような注意をした旨の部分は、ほぼ前記二月一七日付検面調書と同旨であるが、その際、大広間に上がることや総長室に入ることを特定の組員にのみ許す旨の発言がなされたこと、その場に被告人甲が同席していたこと、及び、「それがF一家と戦闘状態に入ったことの全組員に対する宣言だった」旨が新たに付け加えられており、前記二月一七日付検面調書にない右各事実を新たに付け加えられて供述するに至った理由については、全く説明がなされていない。

c 次に、更にそのすぐ翌日に録取されたと認めるべき二月一九日付員面調書では、右の一二月一一日の状況として、更に、「被告人乙が、『一人玉を取られたら二人取れ』と話していたような気もする」旨が付け加えられており、一方、被告人甲の発言については、「何も話さなかったと思う」と述べられている。

d ところが、三月一〇日付員面調書に至り、従前の供述内容のほか、「被告人乙が前記のように話す前に、ソファーに座っていた同甲が立ち上がり、興奮した様子で何か話したようだが、その内容についてははっきりした記憶がない」旨、及び「その時、私も、『皆で協力してやってくれ』と話した」旨、初めて被告人甲が発言した旨の供述が現われるとともに、同丁自身の発言に関する記載がなされ、右供述の変遷の理由は、やはり全く明らかにされていない。

e そして、三月一一日付員面調書になると、供述の変更の理由に関する何らの説明もないまま、突如、日時の設定が、従前の一二月一一日から、同月一〇日のCの葬儀終了後ということになり、更に、その状況に関して、「被告人乙が大広間に甲一家の全員を集めて、『抗争中は絶対独り歩きをするな』等と演説した時、同被告人が話す前に、被告人甲が、全員を前にして、『いつまっでん葬式気分ではおられん。葬式は今日で終わりだぞ』等と話した」旨、初めて前記三月三〇日付検面調書の記載内容に符合する供述が現われ、一方、これ以後の調書では、それまで一二月一一日に行なわれたとされていた被告人乙の組員に対する一般的注意の状況についての記載は全く見られなくなってしまう。

f 更に、三月二四日付員面調書に至り、被告人甲の発言内容として、三月一一日付員面調書に見られる「葬式気分は終わりだ」という言葉のほか、「今から戦争だ」という言葉が加わり、最後に、三月三〇日付検面調書では、被告人乙や同丁自身の言動については、全く触れられてなくなる。

すなわち、右供述経過を要約すれば、当初、一二月一一日に、被告人乙のみが組員に対し一般的注意をしていた状況に関する供述に過ぎなかったものが、日を追うに従い、その注意の場面に同甲が現われ、次に、単に同席していたにすぎなかった同被告人自身が発言を始め、その発言内容もあからさまな抗争意思の表明に変化し、更に、突如、時間的な設定が一二月一〇日の葬儀終了後に移行する一方で、客観的に真実と認めるのが相当の、同月一一日の被告人乙による注意についての記載は全く姿を消して、三月三〇日付検面調書に至っており、かつ、右のような極端な供述の変遷がみられるにもかかわらず、その変遷の理由については、ほとんど説明らしい説明さえなされていない、というもので、あまりに不自然、不合理であるというべきである。

イ 被告人丙の供述経過

次に、被告人丙の前記三月一七日付検面調書の記載に至る供述経過をみるに、同被告人は、二月二〇日付け及び同月二一日付各検面調書では、Cの葬儀終了後の状況について、いずれも、「同日は、午後九時ころ本部事務所を出て、八代の自宅に帰った」旨述べており、一方、二月一三日付及び三月一一日付各員面調書では、前記の被告人乙による組員に対する一般的な注意の状況について供述している。

ところが、三月一四日付員面調書に至り、「Cの葬儀終了後に、被告人甲が大広間で、甲一家組員全員を前にして、『葬式気分は終わりだ。今からF一家と戦争する。喧嘩には負けられん』という内容の抗争宣言をした」旨の記載が現われ、これが前記三月一七日付検面調書の下敷となっている。

被告人丙の三月一四日付員面調書には、右のように供述を変更した理由について、「これまで、極道の世界で、警察に総長のことを話すことは、極道者として生きていく上で絶対に許されないことであり、また、被告人甲のことを話せば、私の出所後に殺されたりしないかと、不安な気持ちもあって、真実を話すことができなかった。しかし、隠し通せることはできないと思い、同被告人の抗争宣言を話した」旨の記載があるが、右の供述変更の理由には、確かに不自然な点はないものの、一面、極めて通り一遍な、暴力団組織の組員が自己の組織上の上位者に不利な供述をなすに至る場合に用いられる典型的な理由づけであって、被告人丙自身が適当に考えたり、捜査機関が作文したりすることが十分可能な域にとどまっていると評価するほかなく、特に、「隠し通せることはできないと思って話した」と述べる部分については、どのような取調べを受け、具体的にいかなる点が契機となってそのような考え方に至ったのかについては全く説明がなされておらず、迫真性に乏しいというべきである。

しかも、三月一四日付員面調書が録取された段階では、被告人丁が最初に同被告人の同月三〇日付検面調書の記載内容に符合する供述をした同被告人の三月一一日付員面調書のほか、決定書二6(二)記載のとおり、取調べの際、補助官の警察官によって強制的に供述調書に指印を押捺させられた出来事のためにほとんど抵抗力を喪失するに至った疑いのある被告人乙の、同趣旨の供述記載がある、三月一三日付員面調書が録取されていたことがほぼ認められる。この、他の被告人についての調書作成状況との時間的関係に鑑みれば、被告人丙の三月一四日付員面調書は、そのような、既に録収された同丁ないし同乙の供述記載による誘導の所産である可能性もかなり高いというべく、「取調べの際、警察官から、『お前が知らんはずはない。代貸(被告人乙)も言いよるぞ。二代目(同丁)も言いよるぞ』等と言われた」旨の、被告人丙の総長事件における供述の信用性を一概に否定することはできない。

(三) 結論

以上の次第で、検察官主張の被告人甲の抗争宣言の事実を肯定する同丙及び同丁の前記各検面調書の記載内容は、いずれも、極めて信用性に乏しく、これのみをもって、右記載内容を真実であると断定することはできない。そして、それ以外に、右事実の認定に資する証拠もない以上、その存在を認めることはできないというほかない。

したがってまた、当該段階で被告人甲がF一家との抗争を遂行する意思を有していたと認めることもできず、更に、同被告人による抗争宣言の事実が認められない以上、それを契機とする他の被告人らの報復意思の形成の事実が認められないことも、論理上当然である。

7 一二月一一日以後、寿屋事件以前の段階

(一) 大広間の状況一般

(1) この期間の出来事としては、被告人四名の関係各公判廷における供述等により、次のような諸事実を認めることができる。

① 一二月一〇日夜から、本部事務所に、七〇ないし八〇人の組員が泊り込み、幹部組員は主として大広間で、若い組員は主として一階部分で寝泊りしていたこと。

② その際、大広間にこたつ二台を設置したこと。

③ 同月一一日ころ、被告人乙が、大広間に組員を集め、「独り歩きはするな。出かける時は幹部の許可を得るように」等と述べて、気分を引き締めるための一般的な注意をしたこと。

④ 本部事務所の電話は、代表の電話番号である玉名○局○○○○の回線ほか二本の回線を有する代表電話であり、その電話機がおおむね各部屋に一台ずつ設置されていたが、同月一一日又は一二日ころ、そのうち一階部分に設置されていた電話機二台ほどを大広間に上げ、また、そのころ、これとは別に、被告人乙が、自己が保有していた玉名○局○○○○番の回線を引いて、大広間にその電話機を設置したこと。

(2) これらのうち、①の事実については、F一家側からの攻撃が予想されたことによる安全策として位置づけることが自然であるほか、警察からそのようにするようにという勧告があったことさえ窺われ、それ自体が抗争遂行のための体制でなかったことは明らかである。また、②の点も、冬季であるという時期に鑑みていわば当然の措置であり、③の点も、安全策の一環と解するのが合理的であって、殊更、甲一家側が主体的に抗争を遂行することを念頭に置いた行動とまでは解し難い。更に、④の点についても、普段は寝泊り等に使用しない大広間に幹部クラスの組員相当数が起居する状況になったため、外部との連絡の便宜上、電話を増設することは、特に不自然なことではなく、新たに前記「玉名○局○○○○」の回線を増設したことについても、右回線はほとんど被告人乙が使っていたこと、及び、その後、結果的に、右回線の電話が抗争関係の会話に用いられたことはほぼ認められるものの、当初から専ら抗争遂行の手段として設置したとまで断定するには、同被告人の捜査段階の供述調書に依拠してもなお無理がある。

(3) これらの点に、大広間への一般組員の出入りが特に禁止されていた事実を認めるべき証拠もなく、かえって、Cの弔問客等、組関係者でない一般人の出入りもさほど珍しくなかったことが窺えること、大広間に施錠等の設備もないこと等に照らせば、右当時、大広間が、特に抗争遂行のための作戦の場、あるいは指揮所の色彩を有していたとまで認めることはできない。

(二) 補佐らとの連絡の状況

一方、当時、熊本市内で襲撃目標の偵察等の行動を行なっていたことが明らかな補佐らと本部事務所との連絡の状況については、被告人乙が、E1と連絡をとり合っていた事実を認めることができる。

右事実は、同被告人、被告人丙及び同丁の捜査段階での各供述調書によればもとより、右三名やE1の公判段階の供述に依拠しても、被告人丙が、総長事件の公判廷で、「熊本に行った補佐らとの連絡は、被告人乙がとっており、同被告人が電話をしたり、電話がかかってきたりしていた」旨、また、同丁が舎弟事件の公判廷で、「被告人乙は、電話を取って話していたことがあるので、補佐らの潜伏先ぐらいは知っていたと思う」旨、それぞれ述べており、E1も、舎弟事件の公判廷で、「同月九日に、○○ビルで、襲撃目標を挙げて、補佐ら各自の一応の役割分担を決めた際、私自身には割り振りはなく、私は、各目標について一般的に面倒を見たり、本部との連絡交渉にあたる役割があった」旨、また、E6事件の公判廷では、「同月一三日までは、被告人乙とよく連絡をとり、私が襲撃目標の下見に行った時の状況等を話し合った。その目的は、報復を間違いなくやるためである」旨、それぞれ述べていることに鑑み、疑いの余地はない。

これらによれば、そのころの時点で、被告人乙が、抗争に対する単なる傍観者ないし協力者という立場を越え、自らかなり積極的に抗争に関与するに至っていたことはほぼ疑いの余地がない。もっとも、被告人乙が具体的にいかなる内容の情報を得、また、補佐らに対していかなる内容の働きかけをしたかについて、その具体的態様を認めるべき証拠はなく、したがって、直ちに、同被告人が補佐らと一体となり、あるいは補佐らを自己の手足として主体的に抗争を遂行しようとする自己固有の報復意思を有していたとまで断定することには、なお疑問が残るとの評価も可能であるが、ほぼそれに近い主観的状況に至っていたと認めることができる。

他方、被告人甲、同丙及び同丁については、補佐らと直接連絡をとる試みをしたり、たまたま補佐らからの電話を受けた際に抗争に関する具体的な会話をしたことを窺わせるような証拠はなく、本件抗争に関する補佐らとの一体性を認めることはできない。

(三) その他

(1) 被告人乙については、このほか、同被告人の総長事件及び舎弟事件の各公判廷での供述、並びに、E1の舎弟事件及びE10事件の各公判廷での供述等によれば、同月一一日、E1が、本部事務所にいた同被告人に、電話でけん銃の調達を依頼し、同被告人が直ちにこれを応諾して、その後、E15からE5にけん銃が手渡された事実を認めることができ、この点からも、同被告人が抗争遂行に対してかなり主体的・積極的であった事実を窺うことができる。

(2) なお、被告人丁の三月三〇日付検面調書には、そのころ、C事件を契機として熊本県以外の地域で抗争事件が発生していたことに関する同甲の言動として、「そのころ、被告人甲が、私たちに向かって、直接はっきりした言葉で抗争に対する指示をしたことはなかったが、遠回しの言動はあった。例えば、同被告人が、その日の朝刊を持って大広間に表われ、『福岡はばんばん行きよっど』、『向こうは成果があがりよる』(他の道仁会系組織がC殺害に対する報復の成果をあげているという意味)等と、一言二言言って、立ち去っていた」旨、また、同被告人と被告人乙の会話の状況に関して、「被告人乙が、同甲に、『今度は、E1が責任を持ってするて言いよりますけん』等と、言い訳がましく言っており、それに対し、同甲は、『幹部は残ってもらわなあ』と言った」旨、それぞれ記載されており、それに見合う事実があったことを窺えないでもない。

しかし、右検面調書には、既に判示したとおり、一二月八日夜の人吉署における状況、同月九日のCの通夜の前の総長室での会合の状況、同日の被告人甲からE4に対するねぎらいの言葉の点、同月一〇日のCの通夜の後の状況等、そのころの近接する時点における被告人甲の言動に関する重要事実について、ことごとく疑問を挟む余地があり、そのような検面調書には、同被告人の言動に関する他の記載内容についても、さしたる信用性を置くことができないと評価するほかないのであり、右事実を裏付ける他の証拠が全くないという証拠状況のもとで、被告人丁の右検面調書のみに依拠してその記載事実を真実であると断定することは相当でないというべきである。

(四) 結論

以上によれば、寿屋事件発生直前の段階における各被告人の主観的態様に関しては、被告人乙について、報復行動に対するかなり強度の主体性、積極性を有するに至っていた事実が認められるが、他の各被告人については、既に前記5(五)に判示した程度の域にとどまっていたものと解するほかない。

8 以上の各段階を通じての証拠状況の特質(捜査機関による証拠収集態度の一般的問題点)

なお、以上に検討した段階までの本件抗争の経緯に関する証拠状況について、あえて付言すべきは、

① C事件に至る経緯、特に、D事件後の仲裁の経過の概要及び和解の際の条件等

② その後、特にC事件直前における被告人甲のCに対する接触態度

③ C事件当日の人吉署における警察官の出動・警戒等の状況

④ C事件翌日にJが本部事務所を来訪した際の状況一般

⑤ Cの葬儀の後の大広間の状況一般

等、各被告人、特に被告人甲に関する犯意の形成や、共謀の成立の有無という重大局面について、被告人らに有利に作用すべき重要事実が、ほとんど証拠化されていないという点である。

しかも、これらの事実は、捜査段階で既に収集された証拠の中にその手掛かりとなる部分が表われているが、少なくとも、真摯に収集しようと思えば容易に証拠化することができた事実であり、それにもかかわらず、それらを証拠化する努力がなされたことが全く窺えないことに照らせば、捜査機関が、それらの被告人らに有利な事実に対する捜査を怠り、不利な事実についての証拠化にのみ精力を傾注していた事実が窺われると評価するほかない。

そして、たとえ暴力団組織による犯罪の捜査であろうとも、予断・偏見にとらわれず、当該被疑者に有利・不利の両面の証拠を等しく収集・検討し、ことに有利な証拠の収集にも真摯に取り組んだ上、それらを中立的見地から分析・検討し、その集積の中から真実を発見することが要請される捜査官憲に、右のような、被告人らに不利な証拠の収集にのみ精力を用い、有利な証拠を探求する努力を怠るか、場合によっては既に収集された有利な証拠を黙殺するというような、公正・中立を欠いたとのそしりを免れない基本的態度が窺われる点は、以後に検討する他の局面に関しても、関係証拠の評価にあたってこれを十分斟酌せざるをえない。

三  上熊本事件について

1 被告人乙の罪責

(一) 序論

(1)  本件抗争中の最初の具体的行動である寿屋事件の直前、までの時点における被告人乙の抗争に対する関与の状況については、前記二に検討したとおりであり、同被告人は、二度にわたって、補佐らの中心的存在であるE1からの依頼に応じて、本件抗争の凶器に用いられることを十分認識しながらけん銃調達の手配をし、また、E1と頻繁に連絡をとって、同人から、襲撃目標の下見の状況等について報告を受けていたことが認められ、右時点までに同被告人が本件抗争にかなり深く関与するに至っていたと認めることができる。

(2) そして、そのような状況で発生した寿屋事件の後の事実経過については、

①  同事件発生当日の一二月一二日夕刻ころ、被告人乙が、E1と電話で口論し、同人と「□□」で会う約束をとりつけたこと

②  同被告人が、同夜、同丁とともに「□□」に赴いて、E1、E2、E3及びE4と会ったこと

の各事実については、被告人乙自身もこれを争わず、また、関係各証拠に照らしても十分これを認めることができる。

そこで、以下、右各事実の具体的内容及びその法的評価等について検討する

(二) 寿屋事件発生直後の状況

(1) まず、右(一)(2)①の被告人乙とE1との電話での口論の具体的内容としては、以下に述べるとおり、E1が同被告人に対して、寿屋事件の失敗を電話で報告した際、同被告人が右失敗を非難し、併せて、E1に、早期にP組事務所を襲撃するように申し向けたのに対し、当該時点での同所襲撃が不可能であるとの認識を有していたE1がこれに反発し、両者の間で口論となったこと、右の電話は、両者の意見が鋭く対立したまま終了し、同被告人は、E1に対して、直接、同事務所襲撃が可能であるとする自己の見解を強く申し向け、補佐らをして同所襲撃の決意を抱かせるべく、E1と「□□」で会うことを約したことが認められる。

(2) まず、右電話での口論の内容については、次のとおりの認定が可能である。

ア 右の電話の際の状況について、まず、被告人乙自身の公判廷での供述をみるに、同被告人は、総長事件及び舎弟事件の各公判廷で、「P組事務所の襲撃を早く実行しろとか、実行が困難だとかに関する言い合いではなかったと思う」「私が、寿屋事件の失敗や、補佐らがぐすぐずしていることを咎めて、それにE1が反発したといったことではなかったと思う」等と述べるものの、口論の内容に関しては、「思い出せない」とか、「E1が、内容はわからないが、気に障るようなことを言い、頭に来た」等と述べて、何らその具体的な状況を明らかにできないことに照らして、右の弁解をにわかに信用することはできない。

しかも、同被告人は、公判廷で、一方では前記のように弁解するものの、他方、総長事件の公判廷では、「その時の言い争いは、本件抗争に関してのことだったと思う」「私とE1との意見の食い違いは、多分、行かれる・行かれん、つまり、P組事務所の襲撃ができる・できないということだったと思う。E1は、『何かあるけん行かれん』と言い、私は、『そういうことはない。行かれる』ということになった」旨述べて、P組事務所の襲撃が可能である旨を主張する同被告人と、これが不可能であるとするE1との間で見解が対立したことを自認する供述をしている。

更に、同被告人は、二月一九日付検面調書においては、「前記電話の際の細かい言葉のやり取りについては、記憶がはっきりしないが、E1に対し、『早く襲撃させろ』という趣旨の言い方はしているはずである」と述べているところ、同被告人が、右供述をなした当時、決定書二2に示した警察官による暴行に起因する肉体的・精神的悪影響のもとにあったとしても、右供述内容は、右検面調書に初めて表われた事項であり、右の悪影響下に警察官に対してなした供述を検察官に対しても維持せざるをえなかったという関係は生じないのであって、任意性はもとより、信用性の点でも、特にこれを阻害すべき要因はないというべきである。

したがって、被告人乙自身の捜査段階及び公判段階の各供述を有機的に総合すれば、それのみでも、右電話の際の口論の内容が、前示認定のようなものであったことを、ほぼ認めることができる。

イ 一方、右電話の相手方であるE1は、舎弟事件及びE6事件の公判廷で、大要、「私が、被告人乙に対し、寿屋事件の失敗を報告すると、同被告人は、『お前たちはやる気はあるのか』と、失敗を責めたので、私は、やる気はあるということを言った。私は、同被告人に言われて、腹が立ち、反発して、行く気はあると言い、その内容の繰り返しで、少し言い合いになった」「寿屋事件で、被告人乙から融通してもらったけん銃の弾が出なかったことに対し、『なぜもっといいけん銃を用意してくれなかったか』というような、恨み言のような言葉が出たと思う。それに対し、同被告人は、『けん銃のせいにするな』ということを言っていた。私は、一二月八日に、人吉署で、同被告人に対し、自分たちに任せてくれと言っていたのに、口出しをされてカチンときて、『お前、俺たちに任せると言っていたじゃないか。この野郎』というように、互いに感情的になって、言い合いをした」旨述べており、これらの供述の信用性を害すべき事情は全くないのであって、少なくとも、右電話で、被告人乙が寿屋事件の失敗を難詰し、補佐らないしその配下の組員の消極的姿勢を非難したことは明らかである。

ウ 更に、右口論の際、大広間でその状況を現認していた被告人丙の、総長事件及び舎弟事件の各公判廷での供述を総合すると、その内容は、大要、次のとおりである。

「その時、被告人乙は、興奮しており、『川があってや』『崖があってや』等と言って喧嘩をしていた。そして、P組事務所周辺の現場を知っている者はいないかということになり、Q(以下「Q」という。)が知っているだろうということで、私が同人を呼びに行った。それが同事務所に関するやり取りであることは、私がQに言いに行くちょっと前ころにわかった。そのころ、『上熊本』云々と言っていたし、被告人乙か誰かが、『P組』とか何とか言ったので、そのことがわかり、私は、被告人乙は同事務所の状況を聞いているのだと受け取り、同被告人とE1の対立点は、同所に東側から行く道があるかないかという点で、同被告人は『東側に道路があって行ける』と言い、E1は、『川と崖があるから行けない。道路はない』と言っているのだと理解した。その後、Qは、被告人乙と電話を変わったが、何分もしないうちに、『E1さんからおごられる。私はE1さんとは話しきらん』と言って、私に受話器を渡したので、私が電話に出ると、E1は、興奮して、『Qは嘘ばっかり言うとですたい。おるが言うのがほんなこつ』と言うので、私は、『わかったわかった』と言って、電話を切った」

右供述についても、被告人丙がこれらの供述をなす段階で、同乙を罪に陥れようとする意思を有していた事実、その他、その信用性を害すべき事情を窺うことはできず、右のような経緯があったことを十分認めることができる。

以上、被告人乙自身、その口論の相手方であるE1、更には目撃者の立場にあった同丙の関係各供述を総合すれば、同乙が、右電話の際、E1に対し、寿屋事件の失敗を責め、補佐らやヒットマンの消極的姿勢を非難し、併せて、P組事務所の襲撃が不可能であるとするE1に対し、その襲撃が可能である旨を強く主張したことは明らかである。

(3) 次に、被告人丙が、右電話を、同乙とE1の見解が対立したままの状況で切っていること、E1が、舎弟事件の公判廷で、「被告人乙との電話の直後、そばにいた他の補佐らに、同被告人の言い分に対して愚痴をこぼすようなことを言ったと思う」旨述べていることに照らせば、右電話が切られた時点で、被告人乙とE1は、自己の見解を一歩も譲らず、感情的にも極めて厳しく対立していたことが認められる。

(4) そして、被告人乙とE1とが「□□」で会う約束が、右の電話の際にとり交わされたのか、別途なされたのかを確定するに足る証拠はないものの、右のような対立状況下でその約束がなされたことは関係証拠上疑いの余地がなく、そうである以上、同被告人及びE1のいずれについても、「□□」で相手に会う目的は、電話での口論では埒があかないため、自己の見解の正当性を直接相手方の面前で主張し、自己の見解に相手方を屈服させる点にあったと認めるほかない。

(5) この点は、被告人丙が、総長事件の公判廷で、「前記電話を切った後、被告人乙は、収まりがつかないということで、『E1と話してくる』と言って、同丁とともに熊本に行った」と述べており、舎弟事件の公判廷では、「被告人乙が熊本に行く時には、E1と会うためということは知らなかった」旨、右と異なる供述をするものの、一方、「私の推測では、まだ被告人乙はしゅんしゅんきていたので、E1と会うのではないかと思った」旨述べており、更に、相手方であるE1が、舎弟事件の公判廷で、「その電話で、最後に、被告人乙と、同日夜に『□□』で会う約束をした。それは、電話の話の続きを直接会ってするということになると思う」と述べていることからも、十分に裏付けられる。

なお、被告人乙は、「□□」に行った目的の一つにE1と会うことがあったことは認めるものの、電話で言い合いをしたことの収拾のために話をしようと思っていたに過ぎない旨弁解し、E1も、E6事件の公判廷では、「□□」で同被告人と会った目的は仲直りをするためである旨、同被告人の右弁解に沿うかのような供述をする。しかし、右に判示したとおり、前記電話が切られた時点ないし被告人乙が熊本に出発する時点では、P組事務所襲撃の可否を巡って、同被告人とE1の見解が鋭く対立し、互いに極めて感情的な状況のままであって、両者の間に、歩み寄りや仲直りをしようとするような兆しは一切見られなかったこと、あるいは、被告人丙の本件、総長事件及び舎弟事件の各公判廷での供述や、捜査段階の供述により、同乙が、「□□」に赴くに際して、同丙に対し、「どっちがほんなこつか、P組ば見て来てみんかい」等と述べて、わざわざP組事務所周辺の状況を見定めてくることを指示していることが認められること等に照らし、同乙が、右時点で、自己の見解、すなわち、地理的条件に照らしてP組事務所の襲撃が可能である旨の見解が正当であることに強く固執していたことが認められること等に鑑みれば、「□□」でE1と会う目的が、同人との仲直りの点にあったものでないことは明らかであり、被告人乙の右弁解を信用することはできない。

また、この点は、「□□」に被告人乙と同行した同丁が、舎弟事件の公判廷で、「本部事務所を出る際、被告人乙が『E1は、横着か』と言っていた」と述べており、右時点で同乙がE1に対して依然強い反感を有していたことが認められることからも裏付けられるところである。

(6)  以上の次第で、被告人乙が「□□」に赴いた主要な目的の一つが、報復行為に出ることに消極的な補佐らに発破をかけ、P組事務所襲撃の実行を決意させようとする点にあったことに、疑いを差し挟む余地はない。

(7) なお、右時点での補佐らの認識ないし意向については、補佐五名が、いずれも、P組事務所に対する偵察の結果、同所周辺で警察官による厳重な警戒が実施されていること、同事務所が室内に鉄板を搬入して警戒に当たっていることや同事務所南側のベランダに面したサッシ戸に装着されたガラスの光り方が通常のガラスと異なること等から、同ガラスが防弾ガラスかも知れないと考えられたこと等の理由により、当該時点での同所襲撃が極めて困難である旨の認識を有していたことが、補佐ら各人の捜査段階及び公判段階の各供述からほぼ明らかであり、また、ことに、E1が、「□□」に赴くに際して、同事務所の襲撃が不可能であることを示すためにその周辺の地図まで持参している事実に鑑みれば、補佐らの側、特に、E1としては、右時点では、被告人乙の主張やQの説明にもかかわらず、これに耳を貸すことなく、依然として同事務所襲撃が不可能であるという見解に立ち、「□□」で同被告人と会う機会に、同被告人に自己の見解が正当であることを主張して、同被告人の、同事務所の早期襲撃を迫る強硬な態度を改めてもらおうと企図しており、切迫した時点での同所襲撃の意思を全く有していなかったことは明らかである。

(三) 「□□」における被告人乙の言動

(1) 「□□」六〇六号室での状況に関しては、被告人乙は、公判廷では、E1らに対してP組事務所襲撃を決行するように申し向けた事実を否定するが、以下に述べるとおり、右弁解を信用することはできず、同被告人が補佐らに同事務所を襲撃する決意をさせるべく、右襲撃が可能であることを主張するとともに、早期にこれを実行するように強く迫った事実は、優にこれを認めることができる。

なお、被告人乙自身、捜査段階では右事実を認めていたものであり、その点に関する関係検面調書の記載に特に信用性を害する事情を見出せないことは前記(二)(2)アに述べたのと同様であるが、その点を一応措くとしても、以下のとおり、他の関係証拠のみに依拠しても、右事実の認定は十分可能である。

(2) まず、被告人丁は、舎弟事件の公判廷で、

① 被告人乙が、寿屋事件の失敗について、E6とE7を揶揄し、E2がこれに対して右両名をかばう会話があった後、同被告人とE1とのやり取りになったこと

② 右のやり取りでは、まずE1が地図を見せて、「P組がこうこうだ」「警察官がおる」等という話をしたこと

③ 右やり取りの内容は、P組事務所襲撃の話であり、被告人乙が補佐らに、「行かるるとじゃないか」「襲撃ができるんじゃないか」ということをくどくど言っており、それに対して、E1ら補佐は、「行かれん」つまり、襲撃できないと言っていたこと

④ E1が地図で説明していたのは、同事務所の襲撃ができないことを具体的に説明していたもので、補佐らは、襲撃ができない根拠について、「警察官がいるから」とか、「建物の回りにフェンスがあるから」とか、「鉄板を事務所に入れていたから、どこに入れているかわからない」等ということを言っていたこと

⑤ それに対し、被告人乙は、更に、「どげんか早うならんのか」「どげんか早う格好も」云々というようなことを頻りに言っていたこと

等を述べている。

そこで、右供述の信用性について検討するに、被告人丁は、既に前記二で検討した各局面に関する供述性向のみに照らしても、確かに、捜査段階で取調官に迎合しやすく、また、公判段階でも、捜査段階での取調べの影響を脱し切らないままに供述する傾向が窺われ、公判廷における、自己の属する暴力団組織の上位者に不利な供述であるという一事をもって、直ちにその信用性を肯定することはできない。

しかし、被告人丁が舎弟事件で右供述をするについては、弁護人から、公判廷での供述は、捜査段階での供述を繰り返すのではなく、自己の記憶に従って述べるべきものであることを言い含められ、その趣旨を理解した上で供述をしたものであることが、記録上明らかに認められ、また、同被告人は、右供述をした舎弟事件の公判廷で、それに先立つE6事件の公判廷での証言内容に触れ、「E6事件では、捜査段階の供述のとおりに供述した。被告人乙の言動についても、オーバーに述べたところがある」等と述べた上、右の弁護人による説論を念頭に置いて、E6事件での証言内容と異なる、それよりも被告人乙に有利な内容に供述を訂正していることが、E6事件及び舎弟事件の両者における同丁の供述内容それ自体の比較から十分認められる。この点に、そもそも、被告人丁が、捜査段階の取調べの際に、「□□」での同乙の言動について特に強度の強制や誘導を受けた事実が窺えないことをも併せ考慮すれば、少なくとも、右の局面に関する舎弟事件での公判供述に、捜査段階の供述の悪影響が残存している事実はないと認められる。そして、右舎弟事件での供述の段階で、被告人丁が同乙を罪に陥れようとする心理を有していなかったことも明らかであり、その他、特にその供述の信用性を害すべき要因を窺うこともできない。

したがって、この局面に関する被告人丁の公判供述は、E6事件におけるそれは別論、こと舎弟事件におけるそれに関する限り、他の関係各証拠に照らして同乙をかばう趣旨に出たことが窺われこそすれ、決して、同被告人に不利な方向に事実を歪曲したものではないと評価することができ、少なくとも、右①ないし⑤のような事実経過があったことは、十分これを認めることができる。

(3) 次に、被告人乙と「□□」で応対した主たる相手方であるE1の供述状況をみると、E1は、その際の状況について、五月一八日付検面調書で、

「被告人乙が、『どぎゃんして失敗したつか』等と述べて、電話での寿屋事件の失敗の話を蒸し返してきたので、私は、説明するために持って来た住宅地図を見せて、P組事務所がどんな位置にあるのかを説明し、『何回も見に行ったが、警察の張付けが厳しいし、難しい』等と説明した。同被告人は、『とにかく何とかできんのか』と言って、同事務所を襲撃して早く戦果をあげろと言ったが、私は、『どげん考えてもできん』と言った。しかし、同被告人は、『行けんことなかろうが』となおも言うので、私は、『まあ、こっちはこっちでやっとるから、わしらに任せてくれんかですか』と言って、その場は被告人乙らを押し切った」

旨述べている。

更に、E1は、舎弟事件での公判廷でも、「被告人乙はまず寿屋事件の失敗の話をした。P組事務所をやれるかという話もしたと思う。私が、同事務所の周囲の状況や、警察の張付けの位置・状態等の話をした。私は、襲撃は無理だと思い、そのような説明をし、同被告人に、はっきり、すぐ襲撃するのは難しい旨を言った」と述べているほか、前記五月一八日付検面調書に見られる被告人乙の言動に関しても、右調書の記載内容を告げられて、「それなら、そのような話があったのだと思う。調書がそのようになっているのなら、調書の方が記憶が新しいので、そうかも知れないと思う」「私がその旨調書で述べているなら、そういう話をしたかも知れない」等と述べて、暴力団組織の系列上自己より格上の組員である同被告人の面前で、これらの事実をほぼ肯定する証言をしているのであって、右五月一八日付検面調書の記載内容には、十分な信用性を置くことができる。

なお、E1は、舎弟事件の公判廷で、一方では、「検面調書を作る時、私は、記憶がはっきりしないので、『そのへんはよくわかりません』と言うと、『乙はこう言いよるぞ』『丙はこう言いよるぞ』等と言われ、『じゃ、そうでしょう。その方が正しいんでしょう』というような感じで答えていた」と述べている。しかし、右検面調書の記載内容は、被告人乙自身の関係各供述調書の記載内容とも必ずしも一致するものではなく、E1が同被告人の供述によって誘導された事実があるとは解し難く、また、被告人丙に至っては、同被告人は終始「□□」に行った事実自体を否定していたのであって、検察官がそのような同被告人の供述によってE1を誘導するとはほとんど考えられず、この点のE1の証言内容の故に、前記検面調書の信用性が減殺されるものではない。

(4)  以上の次第で、被告人乙が、「□□」六〇六号室で、E1に対し、改めて寿屋事件の失敗を非難するとともに、補佐らに早期のP組事務所襲撃を決意させるべく、右襲撃が可能であるとする自己の見解を強硬に申し向けた事実は、これを優に認めることができる。

したがってまた、同被告人は、遅くとも右段階で、補佐らと精神的に一体となって、あるいは、補佐らを自己の手足として、P組事務所の襲撃という特定の犯罪を実現しようとする、自己固有の犯意を有するに至っていたことが明らかである。

(5) これに対し、被告人乙の公判廷での弁解の内容は、右事実を一般的に否定する点では一貫しているものの、その具体的内容は、一旦、「E1がP組事務所付近の地図を見せて、『行かれんですよ』等と行った。その地図は、三〇ないし四〇センチの大きさで、E1は、それを見せて、建棟周辺のこと等を説明した。E1は、P組という言葉を出してそう説明し、私も、その地図を見て、それに『野村コーポ』と書いてあったので、すぐにその意味がわかった」等と述べておきながら、後日、「E1が図面を見せて説明しようとしたので、私は、『そがん話で来たつじゃなかぞ』等と述べて、E1が説明する前に跳ね除けた」と述べる等、全く一貫性がなく、その場限りの思いつきの弁解であると判断するほかないのであって、到底、E1及び被告人丁の供述等により十分認められる前記諸事実に合理的疑いを生じさせるに足りないというほかない。

(四) 乙の右言動の効果・影響

(1) 次に、被告人乙の右言動が、補佐らにもたらした影響について検討するに、少なくとも、その場に居合わせた補佐らのうち、補佐らの内部で、P組事務所について一応の担当を受け持っていたE2(右役割分担については、補佐らそれぞれのE6事件の公判供述その他の関係各証拠により、十分認めることができる。)が、これにより同事務所の襲撃決行を決意するに至ったこと、及び、補佐らの中心的な取りまとめ役であったE1が、従前の自己の考え方を再検討し、早期の同事務所襲撃を積極的に考える心境に至ったことは、いずれも明らかである。

(2) まず、E2の心境の変化についてみるに、被告人丁の捜査段階及び公判段階の各供述によれば、前記一連の経緯の後、被告人乙及び同丁が「□□」六〇六号室を退出する間際に、E2が、同丁に対し、「兄貴、今から行きますかね」等と述べて、直ちにP組事務所の襲撃を決行する旨申し出たことが認められる。なお、E2は、E6事件の公判廷で、右事実を否定しているが、被告人丁は、捜査段階及び公判段階を通じ、一貫して右事実を認める供述をしており、かつ、同被告人が捜査段階で右事実に言及するについて、取調官から強制ないし誘導がなされたような事実も全く窺えないのであって、同被告人の供述内容に、E2のそれを圧倒的に上回る信用性があることは明らかである。

そして、E2が、「□□」に赴く前の時点で、P組事務所襲撃が極めて困難であることを認識していたことは、前記(二)(7)のとおりであり、そのような、その直前まで襲撃が無理であると考えていたE2が、この段階で被告人丁に対し、同所の即時襲撃を申し出るに至った原因となる事実は、同乙による前示の強硬な申入れをおいて他に窺うことはできず、同被告人の右言動が、同事務所に関する役割を分担していたE2をして、早朝に同所を襲撃するほかないとの決意に至らせたことは明らかである。

この点、確かに、E2は、自己の直属の配下組員であるE6が寿屋事件に失敗した汚名を、早期に何らかの外形的行動を示すことによって返上させる必要性に駆られていたことは認められるが、右の点を十分考慮に入れても、「□□」に来る時点ではP組事務所という特定の対象に対する襲撃を決意していなかったことが明らかなE2が、「□□」での被告人乙の一連の言動の直後にこれを決意するに至ったという時間的関係に照らせば、その決意の最終的契機が、同被告人の右言動にあったことには疑いの余地がない。

(3) 次に、被告人乙の前記言動がE1に与えた影響についてみるに、E1及び被告人丁の捜査段階及び公判段階を通じた、相互に矛盾のない各供述によれば、同乙とE1との「□□」での一連の応酬が終ったきっかけは、E1の「そげんこつ言わんで、わしらに任せてくれんですか」という言葉にあったと認められる。

その言葉について、E1は、五月一八日付検面調書で、「そう言って、その場は被告人乙らを押し切った」と述べており、舎弟事件の公判廷では、「『任せて下さい』というのは、『自分の方針でやろうとしているのだから、自分らに任せてくれ』という意味である。その方針というのは、見張りを強化して、外で狙う方針のことであり、当面はその方針でやるという気持ちだった」旨述べている。しかし、E1は、一方、右検面調書において、一二月一二日の深夜又は同月一三日未明の状況において、「○○ビルで、E5に対し、『あやつどんがあぎゃんワーワー言うなら、明日(一二月一三日の意)、P組ばやらにゃあいかん』と言って、翌日(右同)にP組事務所襲撃を強行することを伝えた」と述べており、また、舎弟事件の公判廷でも、「(「□□」から帰った後)○○ビルで、E5と、P組事務所の襲撃に行ける・行けないという話をした。『もうそろそろ襲撃しなくては』という話もした」と述べているのであって、これらの点に鑑みれば、少なくとも、E1が、被告人乙の言動の結果、従前全くその実行の意思のなかったP組事務所襲撃について、遅くとも近日中にその実行に出る心境に至ったことは明らかである。

更に、E1は、P組事務所襲撃を最終的に決意した理由についても、被告人乙自身が在廷している舎弟事件の公判廷でさえ、「舎弟らからうるさく言われたからということも、少しはあった。舎弟は、当初私に任せると言っていたのに、うるさく口出ししてくると感じていた。『□□』で被告人乙らと話し合ったことと、決行をすることを決めたこととの間にも、関係はある。同被告人から発破をかけられたことで発奮したということも、少しはあると思う」と述べているのであって、「□□」での同被告人の言動がE1をして同事務所襲撃を決意させた契機となったことは明らかである。

したがって、E1の、前記の「わしらに任せてくれんですか」という言葉の意味は、自己の方針を貫くことを被告人乙に申し向けて同被告人を押し切ったというものではなく、逆に、同被告人の強硬な言動に押されたE1が、同被告人の意向を尊重してP組事務所襲撃を積極的に検討するとの意思を示したものと評価すべきである。

(4)  よって、被告人乙の「□□」における一連の言動が、従前、P組事務所襲撃は極めて困難であると認識し、早期に襲撃を実行する意思を有していなかった補佐ら、就中、同所についての一応の分担者であるE2及び補佐らの統括的立場にあったE1の気持ちを動揺させ、積極的に襲撃の実行を考えるに至らせたことは明らかであり、同被告人の言動と、補佐らの同所襲撃の決意との因果関係も、一二分に認められる。

(5) 他方、被告人乙も、E1の前記「わしらに任せてくれんですか」という言葉の後は、もはや同人に対して文句を言うことはなくなったことが、被告人丁及びE1の供述により十分認められ、また、「□□」からの帰路の状況についても、被告人丁の本件公判廷での供述によれば、同乙は、右帰路には、もはやE1の消極的姿勢を非難する類の言葉を全く口にしていなかったことが認められる。

そして、「□□」に赴く際にはE1に対する反感をあらわにし、同所で強硬にP組事務所襲撃が可能である旨申し入れていた被告人乙が、E1の前記言辞を境にして、同人に対する態度を一変させたことに照らせば、同被告人としても、E1の右言辞が、「同被告人の意向を尊重して、P組事務所を早期に襲撃する方向で検討する」という趣旨のものであると考え、補佐らが右襲撃を早期に決行してくれる運びに至ったと理解したことが明らかである。

(6)  以上の次第で、「□□」での被告人乙の言動の結果については、同被告人に直接応対したE1が、その時点でいまだP組事務所襲撃の最終的な決意までには至らなかった点において、右時点で直ちに同被告人を含めた共謀の成立を断定することは憚られるとしても、これにより、同被告人とE1との間に、E1が補佐らの統括的立場において、同被告人の意向に従って同事務所襲撃の決行を積極的に検討する旨の意思の連絡が成立した事実は、優にこれを認めることができる。

(五) 一二月一三日の被告人乙と補佐らとの連絡の状況及び右事実の法的評価

(1)  そこで、次に、上熊本事件当日である一二月一三日の被告人乙の関与状況についてみるに、同日午後三時ころ、既にP組事務所襲撃を決意していたE2が、本部事務所に電話をして、同被告人に、これからP組事務所を襲撃する旨告げたこと、それに対して、同被告人がE2に、E1と連絡をとるように指示したこと、及び、その直後、同被告人が○○ビルに電話をして、E1に対し、E2から右趣旨の電話があったことを伝えるとともに、同人と連絡をとるように述べた事実については、同被告人自身が一貫して認めているところであり、また、E2及びE1の捜査段階及び公判段階の各供述に照らしても、十分認めることができる。

また、その後、E1が、被告人乙の右指示に従って、E2と連絡をとり、その段階で、E2が直ちにP組事務所を襲撃する決意を固めていることを知り、E1としても、最終的に、同日中に同所を襲撃する決意をし、直ちに、E2に同所周辺の状況を説明させるべく、E5を「□□」に赴かせたことが、E1、E2、及びE5の各公判供述に照らしても明らかである。

(2) そして、被告人乙は、前記のとおり、右段階以前に、P組事務所襲撃という特定の犯罪についての自己固有の犯意を有していたことが明らかであるとともに、E2が今まさにその自己の犯意の内容に符合する同所襲撃という犯罪を遂行しようとしていることを十分認識しながら、何らこれを制止するような言動をとらず、かえって、わざわざE1に電話を入れて、「今から勝っちゃん(E2の意)が行く(「P組事務所を襲撃する」の意)て言いよる。だからとにかく、勝っちゃんと連絡をとってくれ」と申し伝えているのであり、そうである以上、右電話の趣旨は、単なる補佐らの間の電話の取り次ぎにとどまるものではなく、E1に対し、E2と連絡をとって同事務所襲撃の決行について最終的な詰めを行なうように申し渡したものと解するほかなく、また、E1としても、その前日の被告人乙の「□□」における積極的態度に鑑みて、同被告人の意思が、右のような趣旨のものであることを認識していたことに疑いの余地はない。

(3) なお、被告人乙は、E2からの電話の際、同人に、E1と連絡をとるように告げた理由について、総長事件及び舎弟事件の公判廷で、「まだP組事務所の襲撃をするような段階ではないと思い、E1は間違ったことをするようなことをしないだろうと思ったから」等と述べるが、右は、その前日、同被告人自身が、同事務所襲撃に消極的なE1に対して、前記(三)のような強硬な申し入れをしている事実と両立せず、また、同被告人が、E2からの電話の際、同事務所襲撃を思い止まるべき旨を直接的又は間接的表現で伝えた事実や、E2が右電話の際に、同被告人が同事務所襲撃に消極的である気配を察知してその実行に出るかどうかを考え直したような事実も全く窺えず、更に、その後、同被告人が、E1に電話をした際に、同事務所襲撃を差し控えるようにとの趣旨を含む言葉を申し向けた事実も何ら窺えないのであって、同被告人の右弁解は、到底信用することができない。

(4)  したがって、遅くとも、右の被告人乙とE1との電話でのやり取りの時点で、右両名の間に、当日又はそれに切迫した時点で、P組事務所を襲撃する旨の意思の連絡が成立したと認められる。

(5)  そして、その直後に、E1が当日中にP組事務所襲撃を決行する旨を最終的に決意した上、E2に同所周辺の状況を説明させるため、自己の情を知っていることが明らかな配下組員であるE5を「□□」に向かわせ、同所において、罪となるべき事実第一・二の「犯行に至る経緯」欄に適示した内容の具体的襲撃方法が最終的に決せられて、それが実行者たるE6ほか三名に申し渡されたこと、及び、実行者がこれに従ってP組事務所襲撃を敢行したことが、いずれも明らかであるから、結局、被告人乙は、右襲撃についての正犯としての罪責を免れないというべきである。

(六) 共謀の内容

右により成立したと認められる被告人乙を含むP組事務所襲撃の共謀の内容は、次のとおり、P組組員の殺傷を含むものであったと認めることができる。

(1)  すなわち、右襲撃は、あくまで、自己の所属する暴力団組織の幹部組員が殺害されたことに対する報復という意味を有するものであり、そうである以上、その報復の内容も、対立組織の組員の殺傷であると考えるのが最も自然であるほか、前示二5(一)及び(二)並びに同7(三)(1)のとおり、被告人乙は、右共謀の成立に先立って、補佐らに対し、E15を通じて、抗争に供すべき複数のけん銃を調達していることが明らかであり、右けん銃の少なくとも一部がP組事務所襲撃の用に供されることを当然認識していたと認めるほかなく、そのような、極めて殺傷力の高い凶器であるけん銃を使って対立組織の事務所を襲撃することを企てている以上、特段の事情を窺えない限り、当該共謀者は、右事務所内の組員が死亡するに至る可能性を認識し、かつ、これを認容していたものと認められる。

(2) この点、被告人乙は、舎弟事件第一〇回公判において、「P組事務所襲撃は、ただ格好をつけるために実行したもので、何が何でも相手を殺害するという目的はなかった。同事務所に防弾ガラスが取り付けてあることは、二日ぐらい前に聞いていたので、襲撃を実行しても人を殺すことはないだろうと思っていたし、殺意はなかった」旨述べている。

しかし、被告人乙が、P組事務所が防弾ガラスを装備していることを、確実な具体的かつ客観的根拠に基づいて認識していたことを窺わせる証拠は全くなく、右の同被告人の弁解を直ちに信用することはできない上、ましてや、同被告人が、同事務所に装備されているガラスが、いわゆる強化ガラスをも含めた広義の防弾ガラスのうち、けん銃により発射された弾丸の貫通を絶対的に防止しうる完全な耐弾能力を有する防弾ガラス(以下「狭義の防弾ガラス」という。)であることを客観的根拠に基づいて認識していたことを窺わせるような証拠は皆無である。よって、同被告人が、右ガラスが狭義の防弾ガラスでない可能性、したがってまた、襲撃実行者が発射した弾丸が右ガラスを貫通して、室内にいる組員が死亡するに至るかも知れないことを、認識・認容していたことに、疑いを差し挟む余地はない。

一方、他の各共謀者も、それぞれ、E6事件や舎弟事件の公判廷において、前記ガラスが防弾ガラスであることを理由として、殺意がなかった旨主張しているが、これらの者が、客観的な根拠に基づいて右ガラスが狭義の防弾ガラスである旨の確信を有していたわけではないことは、その各自の公判廷での供述自体から明らかであり、結局、前記罪となるべき事実第一・二の欄に記載した、上熊本事件に関する各共謀者の全員が、P組事務所襲撃に際して、同組組員の死亡の結果が発生するかも知れない旨を認識し、かつ、これを認容していたことは、十分認めることができる。

したがって、右共謀者の全部又は一部の者について、P組事務所襲撃の主たる意義がいわゆる示威行動としての面にあったことは十分認められ、被告人乙自身についても、第一義的には示威行動としての側面を重視していた事実を否定することはできないが、右のような認識・認容を有していたことが明らかである以上、右共謀が殺人の共謀に該当することは言を俟たないところである。

なお、念のため付言すれば、司法警察員作成の昭和六二年二月一九日付鑑定嘱託書の謄本及び熊本県技術吏員作成の同年四月二七日付鑑定書の謄本によれば、上熊本事件の実行行為に際して、E8がそれに向かって弾丸を発射したP組事務所応接間南側ベランダに面したサッシ戸に装着されたガラス状の物は、狭義の防弾ガラスではなく、単なる強化ガラスであるにとどまり、弾丸の貫通・不貫通の結果は、当該弾丸の罪質、形状、質量及び速度により相対的に生じうるものであり、発射された弾丸の単位面積あたりの活力(kgfm/cm2)で表わせば、56.4以上の場合には、けん銃から発射された弾丸を貫通させることが明らかである。したがって、E8による発砲行為は、いわゆる相対的不能に属するに過ぎず、また、ガラス越しに人の現在する室内にけん銃の銃口を向けて弾丸を発射する行為は、たとえ当該ガラスが強化ガラスであっても、その外形上、一般人をして、当該室内に存在する人の死亡という結果を生じるかも知れない旨の具体的危険性を感じさせるものであるというべく、E8の発砲行為は、殺人罪としての定型性を有すると評価でき、右行為が、殺人罪の実行行為性を有することは明らかである。

(3) 最後に、弁護人は、上熊本事件の実行行為に確定的故意を欠く旨主張するところ、確かに、実行行為者たるE8のE6事件の公判廷での供述や、当時P組事務所内に現在していた同組組員数名の各供述調書を総合すれば、右実行行為たる発砲行為の際におけるE8の殺意は、未必的なものにとどまっていたと解する余地が多分にあるが、だからといって、この点を捉えて、被告人乙に関する殺人の共謀の成立そのものが否定されることにならないことは、論を俟たないところである。

(七) 結論

以上の次第で、被告人乙は、上熊本事件に関し、殺人未遂罪の共謀共同正犯の罪責を免れない。

2 被告人丙の罪責

(一)  被告人丙が「□□」で補佐らに発破をかけた事実の有無

検察官は、一二月一二日夜に、被告人丙が、同乙及び同丁とともに、「□□」で、補佐らに対し、P組事務所を襲撃するように発破をかけた事実があるとし、これをもって、同丙について上熊本事件に関する共謀が存することの中核的理由とするので、以下、右のような事実があると断定できるか否かについて検討する。

(1) 各関係者の供述状況

ア 前記事実の有無(以下右に関する問題点を「『□□』の件』という。)に関し、まず、被告人丙自身は、捜査段階及び公判段階を通じ、一貫してこれを否定している。

イ また、同夜、「□□」で補佐らと接触したことに疑いの余地のない舎弟クラス側の当事者である被告人乙及び同丁の供述の状況をみるに、同乙は、捜査段階では、同丙が「□□」に来ていた事実を一貫してこれを認めていたが、公判廷では、これを否定している。一方、同丁は、捜査段階において、当初、右事実を否定していたが、二月一九日付検面調書(舎弟事件<書証番号略>・以下同じ)に至ってこれを認める供述に転じ、更に、三月三一日付員面調書で、同丙は来ていなかった旨、供述の再訂正を申し立て、以後、公判廷でも右事実を否定している。

ウ 一方、「□□」で被告人乙及び同丁と接触したことが明らかな補佐らのうち、E3、E2及びE4は、いずれも、捜査段階で、「□□」の件を肯定する供述をしていたが、公判段階では、E3が舎弟事件の公判廷で、一旦これを肯定する供述をしたのを除いて、いずれもこれを否定しており、E1は、捜査段階では、自己が直接被告人丙から発破をかけられたのではなく、自己が「□□」を退去後に、E3から電話があって、同人から、同被告人がE3に発破をかけた旨告げられたという趣旨の供述をしていたが、舎弟事件の公判廷では、右電話でのE3からの話の内容について曖昧な供述をし、更に、その後、E6事件の公判廷では、明確に、E3から「被告人丙が発破をかけた」旨告げられた事実を否定する供述に転じている。

(2) 「□□」の件を肯定する被告人乙及び同丁の各検面調書の信用性

捜査段階で録取された「□□」の件を肯定する内容の各供述調書のうち、本件訴訟で罪体認定の用に供しうることが明らかなものは、被告人乙の二月一四日付、同月一九日付、同丁の同日付及び同月二一日付(舎弟事件<書証番号略>・以下同じ)、並びに、E1の五月一八日付検面調書である。

これらのうち、E1の前記検面調書については、その内容の基本的枠組自体が他の証拠と異なるので、ひとまず措くこととし、ここでは、まず被告人乙及び同丁の各検面調書の信用性を検討する。

まず、このうち、被告人乙の二月一四日付検面調書における当該記載内容は、「寿屋事件が発生し、その結果、私、被告人丁、同丙が『□□』に行くことになった」という極めて概括的・抽象的なものであって、到底、これをもって、「□□」の件を断定することはできない。

また、その余の各検面調書についても、次に述べるとおり、その記載内容自体のほか、供述の録取経緯等に照らしても、重大な疑義があり、これらに依拠して、「□□」の件の存在を断定することはできないというべきである。

ア 右各調書の記載内容のうち、被告人丙が「□□」に現われるまでの経緯に関する部分の疑問点(特に時間的な不整合性)

a まず、一二月一二日、本部事務所で、被告人乙が、E1と電話で口論をした後、同丙に対し、P組事務所周辺の状況を確かめてくるように指示し、これに応じて同丙が同事務所付近に向かったことについては、証拠上疑いの余地がない。

b 次に、前記各調書のうち、被告人丙が「□□」に赴くまでの行動に関する部分をみると、同乙の二月一九日付検面調書では、「当初から私、被告人丁及び同丙の三人が揃って『□□』に行く段取りにはなっていなかったような気がする。私と同丁が、熊本に向かう途中、自動車電話に同丙から、「自分も『□□』に行く」という連絡があったような気がする」とされている。

また、被告人丁は、二月一九日付検面調書では、「被告人乙、同丙、私、及びE16の四人で本部事務所を出た後、同丙については、途中で降ろしたような気がするが、どうもよく思い出せない」と述べていたが、同月二一日付検面調書では、「事務所を一緒に出たのは前記四名だったが、間もなく、玉名高校付近で、被告人丙が車から降りて、別行動をとった。車の中で、P組事務所の状況がどんな具合になっているかということが話題になり、被告人乙が同丙に、『そんならそこば見てけえ』等と指示したことから、同丙は、途中で車を降りて別行動をとったという記憶がある。そして、被告人丙と別れた後、三人で熊本に向かった」と供述するに至っている。

これらのうち、事実経過について比較的具体的に述べられているのは、被告人丁の二月二一日付供述調書のみであるが、右内容は、全くその裏付けを欠くばかりか、その僅か二日前に録取された同月一九日付供述調書で、「被告人丙については、途中で降ろしたような気がするが、どうもよく思い出せない」と述べていたのが、何故に同月二一日付検面調書にあるような具体的な供述をなしうるに至ったのかについての理由も全く判然とせず、これを直ちに信用することはできない。

c 一方被告人乙、同丙及び同丁の総長事件や舎弟事件等の各公判廷での供述によれば、前記被告人乙とE1との口論の後、同被告人が被告人丙に対し、p組事務所周辺の状況を見てくるように依頼し、被告人丙は、「□□」に向かった同乙及び同丁とは別個に本部事務所を出て熊本に向かったという点で、関係各供述の内容が一致している。そして、被告人乙及び同丁が本部事務所を出発した時刻と、同丙が同所を出発した時刻との先後関係については、同丙は、総長事件、舎弟事件及びE10事件の各公判廷を通じて、同乙及び同丁が本部事務所を出た時刻の方が先である旨述べており(総長事件では、「被告人乙らが熊本へ行った方が、私が本部事務所を出るより早かったと思う」旨、舎弟事件では、「被告人乙らの方が、私よりも五ないし六分先に本部事務所を出たと思う」旨、また、E10事件では、「被告人乙らが熊本に出た後、すぐ、本部事務所を出たと思う」と述べている。)、同乙及び同丁も、少なくとも、右の同丙の供述と矛盾する内容の供述はしていない。

したがって、同丙が熊本市に向けて本部事務所を出発した時刻は、同乙及び同丁と同時か、それ以後であることには、ほぼ疑いの余地がない。

d よって、本件証拠上、「□□」の件を肯定できるとすれば、被告人丙が、右のように玉名を出発した後、P組事務所付近の状況を見分して、同乙及び同丁が「□□」に滞在中に、同所に到着したという時間的な図式が、十分合理的に成り立つことが必要不可欠である。

e ところで、被告人丙がP組事務所周辺を見分した際の状況の概要については、同被告人及びQの捜査段階の関係各検面調書及び舎弟事件の公判廷での各供述、並びに司法警察員作成の昭和六一年一二月二〇日付実況見分調書の謄本等によれば、以下の各事実を、十分認めることができる。

① 被告人丙が、P組事務所の近傍に住いがあり、その付近の状況に詳しいQを同行し、丙組組員である早永某に自動車を運転させて、右三名で、本部事務所から、熊本市上熊本に赴き、P組事務所があるコープ野村付近の、Q方が入居したマンションである、同所<番地略>所在の柴尾ハイツの前に車を止めたこと。

② 同所に赴く車中で、Qが、被告人丙に、肝臓によく効く薬を持っていると申し出たことから、同被告人は、Q方が右薬を分けてもらうことにし、①のとおり、前記柴尾ハイツ前に車を止めた直後、Qのみが同マンションの同人方前に赴いたが、その妻が不在で、鍵が開かず、先にP組事務所周辺の状況を見分することになったこと。

③ そこで、被告人丙とQは、前記早永を自動車に残し、二名でP組事務所の周辺を見分したこと、及び、右見分の際の歩行距離は、一〇〇〇メートル前後であること

④ その後、被告人丙とQは、前記柴尾ハイツに引き返し、同所で、二〇分前後、Qの妻の帰りを待っていたが、同女が帰宅しないため、前記早永の運転でその場を離れたこと

そして、これらを総合すれば、被告人丙は、右の際、P組事務所周辺ないしQの自宅付近で、少なくとも三〇分程度の時間を使っていることがほぼ明らかである。

f 一方、被告人乙及び同丁の捜査段階及び公判段階の各供述、更には、右両名が「□□」に赴く際、その運転手として同行したE16の員面調書を検討するも、同乙と同丁が本部事務所を出てから「□□」に到着するまでの間の状況については、警戒のために、熊本市京町付近で、本部事務所から乗って来た自動車を銀行の駐車場に止め、同所でタクシーに乗り換えた上「□□」に赴いたことが認められるものの、右タクシーの待ち時間は僅かであったと認められ、その他にも、特に時間を浪費したことを窺わせる証拠はない。

g また、被告人乙、同丁はもとより、補佐らの捜査段階及び公判段階の各供述を総合するも、被告人乙及び丁が「□□」六〇六号室に滞在していた時間は一〇分ないしせいぜい二〇分程度であったと認めるほかない。したがって、これに先立って、同乙が、右六〇六号室の住人に部屋を借りる交渉をして、同人を同室から退去させるのに数分程度を要したことを念頭に置いても、右c、e及びfに検討したところからすれば、同乙及び同丁が「□□」六〇六号室に滞在していた時間内に、同丙がP組事務所周辺の見分を終えて「□□」に到着すると考えることには、時間的にみて、かなり無理があることを否めない。

しかも、被告人丙が「□□」六〇六号室に現われた状況について、同乙は、二月一九日付検面調書で、

「『□□』では、まず六〇一号室(被告人乙の自宅)に行くと、E3が顔を出し、『E2さんは六〇六にいる』等と言ったので、六〇六号室に行った。そこには、E2とE4がおり、E3も、私たちに続いて同室に入った。私たちが部屋に入って座った後、ちょっと遅れて、被告人丙とE1が相前後して部屋に入って来た。その二人が来た後、E1が、持って来た住宅地図を開いて、我々に見せ、『ここがこがんで、どがんで、絶対行かれん』等と説明を始めた」

と述べており、被告人丙が「□□」に到着した時点は、同乙とE1との間に、P組事務所襲撃の可否を巡っての論議が始まるより前であったとされている。

また、被告人丁も、その状況に関し、二月十九日付検面調書では、

「被告人丙は、私たちより少し遅れて来たように思う」

と述べ、二月二一付検面調書でも、

「『□□』では、エレベーターで六階に上って、前記E16は、被告人乙の部屋である六〇一号室に入り、私は、同被告人の後について六〇六号室に行き、その住人が部屋から出るのと入れ替わりに、同被告人と私が『六〇六』に入った。間もなく、E1、E2、E3及びE4が、ぞろぞろと入って来た。最初は、寿屋事件が話題になり、被告人乙が、補佐らに向かって、E6とE7を非難する言葉を言い、E2がそれに対してしきりに弁解する等した。その後、同被告人が、『P組ば、どがんかせにゃならん』と言い、話題がP組事務所襲撃の相談に移った。被告人丙が現われたのは、このあたりだったと覚えている」

と述べており、やはり、被告人丙が来た時点は、同乙とE1との間でP組事務所の襲撃の可否を巡る議論が始まるのと同時ころとして記載されている。

すなわち、右各調書では、被告人丙が「□□」六〇六号室に現われた状況は、同乙及び同丁が「□□」を出る間際の出来事としてではなく、むしろ「□□」に到着後、それほど時間を置かない時点での出来事として記載されているが、かような事態は、同丙が本部事務所を出発した時刻やP組事務所周辺とQ宅前で消費した時間等に関して前記c、e、及びfに示したところに照らして、容易に想定し難いというほかない。

h 以上のとおり、時間的整合性という一点のみに照らしても、被告人乙及び同丁の各検面調書の当該記載内容には、かなり重大な疑問があると評価するほかない。

イ 「□□」六〇六号室での被告人丙の具体的言動に関する被告人乙の供述内容の疑問点

次に、被告人乙の検面調書に、同丙の「□□」六〇六号室での言動として記載された内容自体にも、にわかに措信し難いものがある。

すなわち、被告人乙は、二月二二付検面調書で、大要、

「『□□』六〇六号室で、E3が口ごたえしたので、被告人丙は、E3に文句を言い始めた。同被告人は、「俺あ、今、この目で見て来た。這うてでん行くんなら行かるる。もうよか。やる気のない奴は、本部に引き揚げれ」等と言った。それは、補佐らを頭ごなしに叱りつける言い方で、私としては、ここまで言って補佐らにやる気をなくさせたら逆効果になると思ったので、同被告人に、『これたちも一生懸命頑張っとっとやろうし、今度のことは、補佐クラスに任せとっとやけん、任せとこうやないな。もうええやないな』等と言うと、同被告人は、私の気持ちがわかったのか、うるさく言うのをやめた」

と述べている。

しかし、P組事務所の襲撃が可能である旨強硬に申し向けていたのは被告人乙であることが、前記1(三)判示したとおり明らかであり、一方、同丁の二月一二日付検面調書や同被告人の舎弟事件の公判廷での供述によれば、同被告人が、その際、前記1(四)(3)に示した、E1の「そげんこつ言わんで、わしらに任せてくれんですか」という言葉に同調して、同乙の過度の強硬さをたしなめたことが認められる。したがって、被告人乙の右検面調書における供述は、補佐らにP組事務所を襲撃するように強硬に発破をかけた主体を被告人丙に、その過度の言葉をたしなめた主体を自己に、それぞれすり替えたものであることがほぼ明らかであり、自己の責任を同丙に転嫁しようとする熊度が窺えるものであって、その供述内容に高度の信用性を置くことはできない。

ウ 被告人丁の供述の変遷の不自然さ

被告人丁の供述の変遷状況は、前記(1)イのとおりであるが、以下に述べるとおり、従前「□□」の件を否定していた同被告人がこれを肯定する供述をするに際し、真実、その内容の記憶を喚起して肯定の供述に転じたのか否かは、極めて疑わしいというべきである。

a 二月一九日付検面調書における供述変更の理由

すなわち、まず、被告人丁が最初に「□□」の件を肯定した二月一九日付検面調書に見られる供述変更の理由は、

「これまでの調べで、『□□』には私と被告人乙だけが行ったように述べていたのは、タクシーで『□□』に着いた時、同丙はタクシーではなかったことから、そのような思い込んでいたからだが、同所でのやり取り等を、今よく思い出してみて、同被告人がE3にやかましく言った言葉等から、同被告人が同所にいたことを思い出した」

というもので、それ自体、必ずしも説得的なものとは評価できない。しかも、右供述調書では、被告人丁が、同丙が「□□」にいた事実を思い出した契機が同被告人とE3とのやり取りであったとされており、仮に真実そのような記憶喚起の経緯があるとすれば、右局面での同被告人の言動に関する同丁の記憶内容の中核部分は、当然、同丙のE3に対する発破という言動であるはずだが、それにもかかわらず、同丁が右検面調書に引き続いて「□□」での状況をより詳細に述べた、同月二一日付検面調書には、その中核的記憶内容たるべき、被告人丙とE3とのやり取りが全く記載されておらず、極めて不自然であると評価するほかない。

b 二月二一日付検面調書における供述変更の理由

次に、被告人丁が、二月二一日付検面調書で、「□□」の件を肯定するに至った理由として述べるところは、おおよそ、

「私たちが逮捕される数日前、E3と被告人丙が『□□』で口論したという話が出ているという情報が伝わり、同被告人が怒って八代に引き揚げるという出来事があり、同被告人をとりなすため、被告人乙が同丙をいろいろ説得したが、その際、同乙が私に、『あん時は、俺とあんたの二人で行ったもんね。丙はいなかった筈なのに、おかしか』等と言い、私は、記憶も薄れていたことから、『うん、そうだった』等と、返事をした。私は、行き帰りの車が、被告人丙と別だったので、同被告人と行動を共にした時間が短かったため、つい度忘れしたものと思う。その上、被告人乙と、『あん時は丙はおらんだった』等と話をした記憶だけははっきりしていたので、同丙はいなかったと頭から思い込んでおり、そのため、当初の調べで、同被告人は来ていなかったと話した。しかし、調べが進んで、他の人の供述内容がわかってくると、さすがに、私も記憶違いに気がつき、被告人丙もいたというおぼろげな記憶が出てきたが、その一方では、『丙はおらんだったなあ』等と同乙と話をした事実は間違いなかったので、一体どうなったんだろうかという気持ちになったのが本当だった。先日から、事実を具体的に思い出しながら話をしてきたが、そうするうちに、先程述べたような記憶が段々戻ってきて、それを繋ぎ合わせると、どうしても、被告人丙があの場にいたという記憶になってきたので、そのとおりに話した」

というもので、それ自体、供述変更の理由としてかなり不自然かつ曖昧なものに終始している。

c 三月三一日付員面調書における供述再変更

更に、被告人丁は、その後、上熊本事件の捜査の終了後に、わざわざ、自己の取調べ担当警察官である熊本北警察署勤務司法警察員巡査部長X3(以下「X3刑事」という。)に申し出てまで、三月三一日付員面調書で、「どうしても、被告人丙は『□□』にいなかった気がする」と、供述を再変更している。

右調書にみられる供述再変更の理由は、大要、「警察官から、『補佐ら全員が、『□□』で被告人丙がE3と口論したと述べている』と聞いて、ひょっとすると、その時同被告人もいたのではないかと、半信半疑のまま、同被告人も来ていた旨供述したが、その後、何度もその場面を思い出したが、どうしても、その場には同被告人はいなかったような気がする。その時に同被告人とE3が口論したのであれば、私自身がその場面を忘れるはずはないと思う」

というもので、極めて素朴ではあるが、何ら不自然な点はなく、その信用性を一概に否定することはできないというべく、この点から見ても、被告人丁が、二月一九日付及び同月二一日付各検面調書において、真に自己の記憶に基づいて供述していたか否かは極めて疑わしいといわざるをえない。

エ 捜査機関の供述獲得経緯からの疑問点

次に、捜査機関が、被告人乙及び丁から「□□」の件を肯定する供述を獲得する経緯に鑑みても、右両名の供述内容には、かなり高度の疑義があるというべきである。

すなわち、捜査機関は、右両名を上熊本事件で本格的に取調べるに先立って、既に、「□□」で右両名に接触した補佐らのうち、昭和六二年四月に逮捕されるに至ったE1を除くその余の三名、すなわち、E3、E2及びE4を取調べ、右三名から、いずれも、「□□」の件を肯定する供述を得ていたことが明らかであり、具体的には、E3の一月六日付員面調書を皮切りに、同月中に録取された同人、E2及びE4の一連の供述調書に、右趣旨又はその淵源と解される記載がある。

そして、捜査機関が、被告人乙や同丁から、「□□」の件を肯定する供述を得るに際しては、それに先立って、取調官がこれらの補佐らの供述に基づいて右事実が存在した旨の心証を形成し、かつ、これに基づいて同乙や同丁を追及したことは、証拠上、ほとんど疑いの余地がないところであるので、これら補佐クラスの者の捜査段階での供述経過を後づけることは、当該供述の信用性のみならず、同乙及び同丁の前記各検面調書の信用性を判断する資料としても不可欠である。

a E3の供述について

供述経過の不自然さ

上熊本事件に対する被告人丙の関与を示す供述が、最初に表われるのは、E3が同事件で逮捕された当日である一月六日付の同人の員面調書であるが、その内容は、検察官が主張する「□□」での状況ではなく、一二月一一日午後一一時ころ、同被告人が、「□□」六〇六号室に待機していたE3に、電話で、P組事務所を襲撃するように発破をかけたというものである。右の内容は、同人の一月一三日付巡面調書で、電話があった場所が○○ビルであると変化しているほか、その状況がかなり具体的に述べられるに至っているが、右段階では、いまだ、検察官の主張する「□□」での状況に関する記載は表われていない。

そして、E3の取調官であった熊本地方検察庁勤務検事W1の牟田事件の公判廷における証言によれば、その後、E3が、同月一六日の段階で、同検事の取調べに際して、被告人丙が「□□」に来ていた旨を供述したことが認められ、その後に録取されたE3の一月二一日付員面調書に至って、右の電話による発破かけの事実に加えて、初めて「□□」での状況に関する記載(但し、その日時は、一二月一二日未明のこととされている。)が表われる。そして、それ以後は、右「□□」での状況が供述調書上の主流となり、一方、それと歩調を合わせるかのように、その後の供述調書では、電話による発破かけの事実が、全く陰を潜めるに至っている。

これら一連のE3の各供述調書を総合的に見る時、そこから一応導き出しうる被告人丙の上熊本事件に対する関与の中核となる行為は、

① ○○ビルに電話をして発破をかけた事実

② 「□□」で発破をかけた事実

の両者であると解するほかなく、これらは、いずれも、被告人丙を含めた共謀の成否ないし同被告人の正犯意思の存否を認定する上で、甲乙つけ難い重要事実である。しかし、それにもかかわらず、前記のとおり、初期の供述調書では、専ら①の事実のみが取り上げられ、その後、②の事実が表われてそれが主流を占めるようになり、他方では、①の事実が忽然と姿を消すに至っており、しかも、②の事実について供述するに至った理由、及び、捜査が進展するにつれて①の事実を埒外に置くようになった理由について、供述調書上特に説明はなされていないのであって、かような供述経過自体に照らしても、E3の捜査段階の供述に高度の信用性を置くことはできないというべきである。

E3の被告人丙に対する反感

加えて、E3の被告人丙に対して有していたと認められる反感の強度に着目すれば、E3の捜査段階の供述経過の不自然さは、単に同人の記憶の曖昧さに基づくものであるのみならず、同人が、被告人丙を罪に陥れるべく、故意に虚偽の供述に出た結果である可能性さえ否定できない。

すなわち、被告人丙は、舎弟事件の公判廷で、E3とは、従前から、玉名市内の小岱山蓮華院における露店の営業を巡って対立関係にあったとして、大要、次のように述べている。

「私は、右蓮華院で、正月や、年に三、四回の祭りの時に露店を出してたが、E3には店を出させなかった。それは、E3は若い者を持っておらず、堅気の露店の人を連れて来て、E3の名前で出させるからだった。E3の若い者がするのであればよいが、その時だけ堅気の人を連れて来て、俺の若い者だというような言い方をするので、私は、『若い者なら当番でも何でも連れて来い。店をする時だけ俺の若い者だけんて、そういうことはあるもんか』等と言って、喧嘩になっていた。それで、祭りや正月のたびに、E3と、店を出させる・出させないでの喧嘩はあり、昭和六一年一二月二九日か三〇日ころに、本部事務所に行った時にも、蓮華院の露店のことで、E3と、その正月に店を出す・出さないという問題で喧嘩をした」

一方、E3も、E6事件の公判廷で、従前、被告人丙と仲が悪かったとして、

「以前、私は、右蓮華院で露店をして、今(E3がE6事件第一九回公判で供述をした昭和六三年一〇月二〇日を指す)から一〇年以上前から正月等に商売をしていたが、六年ほど前、二年半ほど刑務所に入って、今から三年半ぐらい前に帰ってきたら、被告人丙がその露店をしていた。私は、同被告人が店を一〇本出しているのだったら、同被告人とかち合わない品物を一本か二本出させてくれと話をしたが、それでも拒否され、それから関係がおかしくなった。その露店は、もともと私がしていた商売なので、懲役から帰って来れば当然また私がしてもよいはずだが、それをやると角が立つから、私は、被告人丙に、かち合わない品物を二本ほど出させてくれと相談した。それで、最初は品物を出したが、同被告人は、次の年になる前から、少しずつはね除けようとする圧力を加えてきた」

等と、右丙の供述と実質的に整合する供述をしている。

そして、被告人丙とE3は、互いに相手方が本件一連の刑事被告事件の公判廷でどのような供述をしているかを知りえない状況にあつたと認められ、両者間の前記対立関係について口裏を合わせている事実を窺うことはできず、したがって、右両者の間には、かなり強度の反感があったことに、ほぼ疑いの余地がない。

特に、E3の側には、同人が、E6事件の公判廷で、前記のとおり述べるほか、「被告人丙個人であれば、私は早く殺していた。しかし、同じ甲一家の者だし、感情的に走ると見苦しいから辛抱していた」とまで言い切っていることに鑑み、E3の被告人丙に対する反感ないし敵意の大きさは、暴力団組織における上位者である同被告人にとってあえて不利な供述をして、同被告人を罪に陥れることを企てたとしても、あながち不自然でない域に達していたと解するに妨げない。

したがって、E3の被告人丙に不利な供述の信用性の評価に際しては、一般的に、極めて高度の疑義をもって臨まざるをえない。

現に、E3は、逮捕後の初期の段階で作成された一月六日付員面調書や一月一三日付巡面調書では、被告人丙一人だけを上熊本事件の上位指揮者として名指ししており、関係証拠上その事実の存在が明らかで、かつ、E3自身もそれを現認しているはずの、同乙が「□□」で補佐らに発破をかけた事実が全く現われていないのであって、この点に鑑みれば、E3が、前記の反感に起因して、逮捕当初から、被告人丙を故意に罪に陥れようとの意図を有していた事実をかなり強く窺うことができるというべきであり、E3が、その後の取調べにおいても右同様の意図を持ち続けていたとしても、何ら不自然さはない。

右及びに鑑みれば、「□□」の件を肯定するE3の供述には、到底高度の信用性を置くことができない。

b E2の供述について

次に、E3に続いて昭和六二年一月九日に上熊本事件で逮捕されたと認められるE2の供述経過についてみるに、同人の被告人丙に関する供述内容も、初期の段階で録取された同日付及び同月一三日付員面調書におけるそれは、いずれも、同被告人が○○ビルに架電して、E3にP組事務所を襲撃するよう強硬に迫ったというものであるが、前記aのとおり、E3が初めて「□□」の件を肯定する供述したと認められる同月一六日より後の段階で録取されたE2の同月一八日付員面調書では、被告人丙の右電話による発破かけの事実は姿を消し、代わって、「□□」での同被告人の発破かけの事実が表われており、右供述の変遷についての説明は全くされていない。

そして、E2が自己の記憶に基づいて供述した場合に、偶然右aのようなE3の供述経過に完全に符合する供述の変遷を示すということは、にわかに考え難く、右のE2の供述経過は、同人がE3の供述によって誘導された事実をかなり強く推認させるに足るものである。

c E4の供述について

更に、E3及びE2に遅れて、昭和六二年一月一三日に上熊本事件で逮捕されたと認められるE4の供述経過をみるに、同人の初期の調書では、被告人丙のE3に対する発破かけの熊様は、やはり○○ビルへの架電によるものであるとされ、一方、一二月一二日の夜に「□□」で会った舎弟クラスの組員は同乙及び同丁のみであるとされていたものが、E3が、同丙が「□□」で発破をかけた旨の供述をした一月一六日より後に録取された調書では、同被告人の電話での発破かけの事実が消え去り、同被告人が「□□」で発破をかけた旨の供述が記載されるに至っている。そして、右のようなE4の供述経過も、E2の供述経過について右bに述べたのと全く同じく、E4の各供述が、その時々のE3の供述を基にして構築されたことを強く推認させるものである。

d 小括

右のaないしcにみたE3、E2及びE4の各供述調書の作成状況に照らせば、被告人乙及び同丁が上熊本事件で逮捕された昭和六二年二月三日より前の時点で、捜査機関が、E3、E2及びE4の供述を根拠として、同丙が「□□」で補佐らに発破をかけたという想定を、ほぼ不動のものにしていたことを強く推認できるほか、本件訴訟で右局面の認定に供しうる被告人乙及び同丁の前記各検面調書(但し、同丁の二月一九日付検面調書を除く。)の録取者であるW4検事自身もまた、これらの補佐らの供述内容が真実であるとの心証を形成し、その心証に基づいて、被告人乙及び同丁の取調べに臨んだことが、同検事のE10事件での証言自体から明らかである。

しかし、「□□」の件を肯定する供述の淵源が、前記のとおり極めて信用性に乏しいE3の供述であることがほぼ明らかであり、また、E2及びE4の各供述も、前記のとおり、E3の供述の影響を強く受けていることが到底否定できない以上、それらの各供述内容が客観的真実と合致していることを担保すべきものは、ほとんど何もないというほかなく、そのような証拠を積極的に評価して構築した仮説に立って被告人乙や同丁を追及した結果得られた、右仮説に沿う供述にも、安易に高い証拠価値を認めることはできないと評価するほかない。

オ 結論

以上の次第で、「□□」の件を肯定する被告人乙及び同丁の前記各検面調書における当該供述内容を信用することはできない。

なお、「□□」の件に関するE3、E2及びE4の各検面調書については、その証拠能力に争いがあるが、仮にこれを肯定できるとしても、その信用性において重大な疑問があることは、既に判示したところから明らかである。

(3) E1の供述調書の信用性

次に、「□□」で被告人乙や同丁と接触した補佐らのうち、右両名の各供述調書作成後に逮捕されたE1の供述内容をみるに、同人の五月一八日付検面調書の被告人丙に関する部分の概略は、

「『□□』に、被告人乙及び同丁が来て、同乙が、P組事務所を襲撃しろという旨の発破をかけた。E2とE3を『□□』に残して○○ビルに引き揚げた後、E3から電話があり、同人が、『今、被告人丙が来て、溝伝いに這ってでも同事務所に行って襲撃できる等と言った』旨述べた。それで、同事務所周辺の状況を見た上、再び『□□』に行くと、被告人丙らの舎弟は引き揚げた後であり、E3が、同被告人にやかましく言われたと言って怒っていた」

というもので、E1が「□□」に滞在中には被告人丙は同所に来ておらず、その後に同所に来て、P組事務所を襲撃するようE3に発破をかけたという構図になっている。

しかし、右は、被告人丙の関与形熊に関しては、他の関係者の各供述調書における供述内容に比較して、その基本的枠組自体があまりに食い違っており、E1の右供述に、右の本質的齟齬と、裏付けの欠如にもかかわらず、なおそれに符合する出来事があったと断定するに足るほど高度の信用性があるとは、評価できないというほかない。

(4) E3の公判供述について

最後に、E3は、舎弟事件第四回における証言で、なお、「□□」の件を肯定する供述を維持しているが、これについても、E3が同被告人に対する前記(2)エaのような強度の反感ないし敵意を有していることがほぼ明らかである状況のもとでなされた(ちなみに、上熊本事件の発生の時点ないし捜査段階以後、右証言までに、E3が被告人丙に対する反感を喪失するに至ったような事情は、何ら窺えない。)供述には、それが公判廷における同被告人の面前での証言であることを考慮してもなお、高度の信用性を置きかねるというべきである。

(5) 結論

以上の次第で、結局、「□□」の件を断定的に肯定するに足る証拠はないというほかなく、その事実を認めることはできない。

(二) 正犯の不正立

右(一)の「□□」の件以外に、検察官が被告人丙に上熊本事件について共謀共同正犯が成立する根拠として主張している事実関係はなく、実際にも、本件全記録を精査するも、同被告人の二月一二日付及び同月二一日付各検面調書や、Qの検面調書、同人の舎弟事件における証言等によれば、同被告人が、P組事務所周辺の見分の際に、同所が襲撃の候補とされていることを認識していたことはほぼ疑いの余地がなく、また、同被告人自身、かなり同所襲撃に積極的であった事実を窺うことはできるものの、かといって、同被告人が自ら、又は補佐ら等の下位組員を自己の手足として利用して同所を襲撃しようとする自己固有の犯意を形成し、かつ、被告人乙、同丁や補佐らとの間でその旨の共謀を遂げたとまで断定するに足る証拠はないというべく、したがって、同丙に対し、上熊本事件の正犯としての刑事責任を問うことはできない。

(三) 幇助罪の成否

(1) 次に、検察官は、

「仮に被告人丙が『□□』に同席していなかったとしても、

① 被告人丙が、同乙の指示の下にP組事務所の下見をし、

② 同所の襲撃が可能である旨同乙に報告し、

③ その後、同乙がE2からの電話を受けてE1に電話をし、E1との間で同所襲撃の共謀を遂げた

という経過からすると、少なくとも、被告人乙が同丙からの同所襲撃が可能である旨の報告によって、襲撃を精神的に支援されて、E1にその決行を迫る意思をますます固め、その結果、E1との共謀を遂げたと認められることから、少なくとも、同事務所襲撃の幇助犯が成立する」

と主張する。

(2) 確かに、被告人丙がP組事務所周辺の状況を偵察するに際して、同被告人は、その直前に、被告人乙とE1とが電話で口論をし、右口論の中で、少なくとも、同事務所に到達することができるか否かを巡って両者の意見が対立している状況を現認していたことは、被告人丙の公判廷での供述に依拠しても十分これを認めることができ、これに、当時、同被告人が、補佐らがF一家系列の団体又は個人にC殺害に対する報復をする意思を有している旨を認識していたことにも疑いの余地がないことを併せ考慮すれば、被告人丙が、同乙の自己に対する、P組事務所周辺の地形を見分してくるようにとの指示が、何らかの意味で同所の襲撃を念頭に置いたものであることを認識していたことは、ほぼ明白である。

そして、被告人丙が、右のような認識を有しつつ、同事務所周辺の見分をした上、その状況を同乙に報告した事実もほぼ認められ、そうである以上、同丙に、自己の右報告が何らかの意味で同事務所襲撃の資料に供されるであろうとの認識があったこと、すなわち、同被告人に同事務所襲撃についての幇助意思があった嫌疑は、かなり濃厚であるといえる。

(3) しかし、検察官の主張のように、右の被告人丙の報告の結果、同乙が、P組事務所襲撃を精神的に支援されて、E1にその決行を迫る意思をますます固めたいという因果関係が認められるか否かは、すこぶる疑問である。

すなわち、本件証拠上、被告人乙が、いまだ右報告を受けるより前の段階で、P組事務所を襲撃すべき強固な自己固有の犯罪実現意思を有していたことは、既に同被告人の罪責に関して判示したとおりであり、かつ、右報告後の同被告人とE1の接触の機会である、上熊本事件直前の電話での会話の際の同被告人の言葉は、E2と連絡をとれというものに過ぎず、被告人丙の報告の影響と認めるべき内容は何ら含まれていない。そして、被告人丙の右報告以前から、既にP組事務所襲撃の強い犯意を有している同乙としては、E1に対する右程度の言葉は、同丙の右報告の有無に関わらず申し向けていたであろうと推測するのが合理的であり、少なくとも、同丙の報告がなければ、同乙がE1との電話の際に、右のような対応をしなかったであろうという条件関係の存在を断定することは到底できないというべきである。

また、被告人丙が同乙に右報告をなした事実自体は、ほぼ明らかであるにもかかわらず、被告人乙の公判段階の各供述のみならず、罪体認定に供しうる捜査段階の同被告人の全供述調書を検討するも、これに対応する、「被告人丙からP組事務所周辺の状況についての報告を受けた」旨の記載さえ、一度として表われておらず、ましてや、「右のような報告を受け、その結果、同事務所襲撃が可能だと判明して、意を強くした」というような趣旨の供述は全く見受けられない。そして、そのような、右報告の事実それ自体に関してさえ被告人乙の供述が全く見当たらないという状況に鑑みれば、同被告人にとって、被告人丙による右報告は、ほとんど記憶に残るに値しない程度の意味しか有しないものであったと解するほかなく、もとより、右報告によって、被告人乙が精神的に支援されたという関係の存在を断定することは、不可能であるというほかない。

よって、被告人丙のP組事務所周辺の見分及びその結果についての同乙に対する報告が、上熊本事件の遂行を容易ならしめたという関係を認めることはできず、被告人丙については、同事件に関する幇助犯の成立を認めることもできない。

(四) 結論

したがって、上熊本事件に関する被告人丙の関与については、正犯・幇助犯のいずれの形態についても、その証明がないというべく、同被告人は、同事件について無罪である。

3 被告人丁の罪責

(一) 「□□」に赴くまでの被告人丁の主観面の状況

(1) 寿屋事件の直前ころまでの被告人丁の本件抗争に対する関与状況については、前記二の各項に判示したとおりであり、自己の直属の配下組員であるE2の抗争遂行を是認し、かつ、同人を勇気づける言動をとったことにおいて、純然たる第三者的、傍観者的立場を超えるものがあったものの、いまだ、自己固有の報復意思を有していたとまでは認め難いので、次に、一二月一二日、寿屋事件の後、その当夜に、同被告人が、被告人乙の誘いに応じて「□□」に赴く(その事実自体については、特に争いはなく、証拠上も明らかである。)までの状況について考察する。

(2) まず、寿屋事件直後の状況について、本部事務所大広間にいた舎弟らの間で、補佐らに本件抗争の遂行を任せてはおけないという雰囲気が生じ、被告人丁もこれを察知したことが認められる。この点は、捜査段階では、同丁自身のほか、同乙や同丙も等しく認めているところであり、そのいずれの供述についても、特に不当な強制・誘導が用いられたことを窺わせるような証拠はなく、また、仮に、右各供述のみでは信用性に欠けるとしても、被告人丁は、舎弟事件の公判廷で、「そのころ、舎弟として、補佐らに任せておけないという意見が出たかどうか、はっきりした記憶はないが、そういう雰囲気は少しはあったようである」等と述べているのであって、少なくとも、同被告人に関する限り、そのような雰囲気を察知していたことは十分認められる。

また、被告人丁は、舎弟事件の公判廷で、「『□□』に行く際、本部事務所を出て、車に乗る時、被告人乙が、『E1は横着な』と言った。それを聞いて、同被告人とE1の間に何があったのかの判断はつかなかったが、抗争のことで喧嘩をしたという考えも、時期が時期なのであった」と述べており、これに、被告人丁が、前記のとおり、寿屋事件後の雰囲気の変化を察していたことをも併せ考慮すれば、同被告人が、被告人乙とE1との間で何か問題が生じていること、それが抗争に関する何らかの対立であること、及び、同乙がそのことに関連した用件で「□□」に赴くつもりであることについての、漠然とした認識を有していたことは十分認められる。

(3) しかし、他方、被告人丁の公判段階の供述のみならず、同被告人の二月一九日付(舎弟事件<書証番号略>)及び同二一日付(<書証番号略>)各検面調書によるも、同被告人が、寿屋事件後の被告人乙とE1との電話での口論の状況を現認しておらず、同丁が右口論の事実を知ったのは、その翌日に、Mから聞いた時点であることが認められる。

また、被告人乙が、現実にE1に対して発破をかける行動に出るまでのいずれの段階でも、同丁に対して、E1に発破をかけるつもりである旨を明確に告げたことを窺わせる証拠もない。

更に、被告人丁は、舎弟事件の公判廷で、「□□」に向かう車内での出来事として、「私は、被告人乙が本部を出る時、『E1は横着な』と言っていたので、何かあったなと思い、その事情を聞こうと、同被告人に、『E1が何かっていうのは』と話しかけたところ、同被告人は、調子が悪いようで、足で私の膝を押すようにしたので、私に話して聞かせたくないのだろうと思い、それ以上聞かなかったと思う。同被告人がそのようにしたので、私は、『私やE16に聞かせたくないんだろうな』『何かよっぽど怒っとるのかな』等と、いろいろ考えながら行った」旨述べているところ、被告人乙もまた、本件公判廷で、右のような事実があった旨述べており、その供述内容自体、十分具体的であるほか、特に不自然な点もないのであって、少なくとも、これを虚偽であると認めることはできない。そして、右事実もまた、被告人丁が、同乙とE1との間にどのようないきさつがあり、「□□」に赴くことがその点とどのように関係しているのかについて、明確な認識がなかったことを窺わせるに足ると同時に、同乙の側としても、同丁を、自己と共に補佐らに発破をかけに行くというような、自己と一心同体的な存在としてまでは認識していなかったことを示すものというべきである。

(4) したがって、被告人丁が、「□□」に到着するまでの時点で、同乙が同所に赴く主要な目的が、P組事務所襲撃を早期に決行させるべく補佐らに発破をかけることにある旨の具体的な認識を有していたとまで認めることはできず、まして、その時点で、被告人丁が、同乙と共に補佐らに対して右同様の発破をかける意思を有していたと断定することは不可能であって、その旨の意思があったとする被告人丁の前記二月二一日付検面調書の記載内容には、その信用性に疑問が残るというべきである。

(二) 「□□」での被告人丁の言動

「□□」で、被被告人丁自身が、積極的に、E1その他の補佐らに、P組事務所を襲撃すべき旨の発破をかけた事実がないことは明白である。

一方、被告人丁が、「□□」で、自己と同じ舎弟クラスの組員である同乙が、補佐らに対して同事務所襲撃の決行を迫る状況を現認していながら、何らそれを非難する言動をとらなかったことは明らかであるほか、被告人丁がそれを心外に感じる心境や、事態の思いがけない展開に戸惑った心境を示す証拠は全くなく、同被告人が、被告人乙の言動を是認していたことが明らかである。

また、これとは別に、前記1(四)(2)のように、E2が被告人丁に対し、直ちにP組事務所襲撃を実行する意向を述べたのに対し、同被告人が、E2に、無理な襲撃を思い止まるように申し向けた事実を認めることができる。

このうち、被告人乙の行為に対する単なる是認の点のみをもって、直ちに同丁の正犯意思を基礎づけることには、いまだ無理があり、また、E2の申し出に対する対応についても、その外面的言葉をみる限り、同丁の主観面を確定することはできない。

(三) 被告人丁のE2に対する対応の法的評価

(1)  そこで、被告人丁と、その直属の下位組員であるE2との間に、

①  被告人丁が「□□」で、E2から、直ちにP組事務所を襲撃しようかとの申し出を受けて、少なくとも、外見上の言葉としては、これを制止した事実が認められるほか、

②  その後、翌一二月一三日午前一時ないし二時ころに、再びE2から、電話で同様の申し出を受け、やはり、外見上は前同様の対応を示した事実

が認められ、これらは、いずれも同質のものと評価しうることに鑑み、右両局面における同被告人の主観面及び右言動に対する法的評価について、総合的に検討することとする。

(2) まず、これらの各事実のうち、①の点に関しては、被告人丁の自身の捜査段階及び公判段階の各供述によれば、同乙及び同丁が、「□□」六〇六号室から退去する間際に、E2が、同丁に対し、「兄貴、今から行きますかね」等と述べて、直ちにP組事務所を襲撃する意向を示したのに対し、同被告人が、E2に、「無理するな」等と申し向けたことが認められる。

また、②の点については、E2のE6事件の公判廷での供述や、被告人丁の舎弟事件の公判廷での供述等によれば、E2が、前記「□□」での経緯の後、一旦、即刻P組事務所を襲撃することを決意して、翌一二月一三日午前一時ないし二時ころ、E6及びE7が滞在していた千馬ビルに赴いてE6に新たにけん銃一丁を手渡し、その直後に同所から本部事務所にいた同被告人に電話をした際に、右のような事実があったことが十分認められる。

(3)  そこで、右のような各応対をした際の被告人丁の心境についてみるに、同被告人は、二月二一日付検面調書(舎弟事件<書証番号略>)では、①の局面に関して、「E2が、私に、捨て鉢な感じで、『もう、今日行きますけん』と言って、私の手を握った。私は、E2が感情的になってそんなことを言っていることがわかったので、『無理すんな。見もせんで』と言った。それは、単にカーッとなって突っ込んで行っても、失敗するのは目に見えていたからであり、襲撃を成功させるのが我々の目的だから、この場はE2を止めたが、E2が、私たちが発破をかけたことによって、いきりたった気持ちになっていることはよくわかった」

と述べており、また、②の局面についても、同調書や、前記同月一九日付検面調書で、

「私は、E2に、『無理すっといかん。今夜はやめとかんか』と言った。確実なチャンスを狙ってやらなければ何にもならないからである」

「私は、深夜でもあり、P組がどうなっているかもわからないので、『もう遅かけん、今日はするな。無理するな』と、一応E2をなだめ、P組を十分偵察して、無理のない方法でやらせることにした」

と述べて、①及び②の両局面について、いずれも、自己の対応が、E2によるP組事務所襲撃自体は是認しながら、同人が被告人乙から襲撃の決行を迫られたことに起因する焦燥感から無理に襲撃を強行して失敗する事態を防ぐため、性急な行為を慎ませる趣旨のものであったことを認めている。

これに対し、同被告人は、舎弟事件の公判廷では、①の局面に関し、

「E2が、『今から行きますかね』と言ったのに対し、私は、『無理してせんでもええ。やめとけと言いよろうが』と言って、それを止めた。私が止めたのは、Jが仲裁に入っているし、急いでやる必要もなく、できれば犠牲者を出したくないという気持ちがあったからである。絶対に襲撃してはいけないという言葉はないが、『やめとけ』とは言った」

旨述べて、自己がE2に申し渡した言葉の趣旨について、必ずしも明確でない供述に終始し、また、②の局面については、

「私は、E2に対し、『やめとけ。無理するなて言いよろうが。何べん言うとわかるか。やめれて言うたらやめれ』とやかましく言った。私は、E2が、私が『□□』で言ったことをよく理解できていないと思ったし、また、私たちが『□□』に行ったのを、発破をかけに行ったと勘違いしているのかなと思ったので、そのように言って叱った。D事件の際に一〇日か一五日で話がついているし、今回も、Jが来ていることを知っていたので、急いで襲撃をしなくても、話がつけばいいという気持ちが一番にあり、できれば抗争は避けたいという気持ちだったので、無理してする必要はないと思い、絶対襲撃してはいけないとまでは言えないが、できればやらせたくないという気持ちで、そう言った」

等と述べて、捜査段階の供述内容の主観的側面をほぼ否定する供述をしている。

(4) しかし、いずれの局面に関しても、被告人丁は、公判廷でも、少なくとも、E2に対して「無理してせんでもええ」等と述べた事実はこれを認めており、右言葉は、その文理上、当該行為自体を絶対的に禁止する趣旨のものではないと解するのが自然であること、②の局面で同被告人がE2に即時の襲撃実行を思いとどまらせるために、深夜であることを告げたことが、同被告人の前記二月一九日付検面調書のほか、E2のE6事件の公判廷での供述から明らかであるところ、襲撃自体を絶対的に禁止するのであれば、殊更深夜であることを理由とする必要性は全くないこと、あるいは、少なくとも②の局面に関しては、被告人丁の前記公判供述は、これに対応するE2のE6事件での供述と趣きを異にしており、E2の右供述からは、同被告人がP組事務所襲撃自体を思い止まるように厳しくE2を叱責したというほどの状況がなかったことが明らかであること等に照らして、右の公判廷での弁解には直ちに信用し難いものがある。そして、以下の各点に照らせば、むしろ、被告人丁は、右①及び②の両局面で、E2によるP組事務所襲撃の行為自体はこれを是認しながら、単に、成功の目処のない性急な決行を思い止まるよう申し向けたに過ぎないと認めるのが相当である。

ア 供述経過・取調べ状況に鑑みての信用性

まず、右①の局面での言動に関する最初の供述は、昭和六二年二月三日の上熊本事件での逮捕当初、同事件の被疑事実を否認していた被告人丁が、最初に同事実について概括的な自白をした二月七日付で録取された検面調書に見られるものであり、その記載は、E2の言葉に対する対応という特定した状況に関するものではないが、「□□」での被告人乙とE1との議論の際の言動として、「私は、その際、『無理してすんな。確実なチャンスを待ってやれ』という意味の言葉を言った」というものである。

ところで、被告人丁は、同事件に対する自己の関与を認めた主要な動機について、これを、警察官による再度の暴行を恐れたためである旨述べているが、決定書四4(一)(1)記載のとおり、右弁解は信用できず、むしろ、同被告人は、上熊本事件での再逮捕の時点から、E2及びE6にのみ上熊本事件の責任をとらせるわけにはいかないとの心情を有していたところ、同事件での弁解録取手続におけるW4検事からの同趣旨の進言が一つの契機となり、右進言を受け入れて自白の供述に転じたと認められる。

また、右二月七日当時の検察官の取調べ方法が、警察官の取調べに依拠せず、検察官自身が警察官に先駆けて各被疑者を取調べ、直接心証をとる方法によっていたことが認められることは、決定書二5(二)(5)及び四(一)(6)に述べたとおりであり、被告人丁の右の言辞に関する供述も、前示のとおり、W4検事に対する同日付の検面調書に初めて現われたものであって、同被告人が、何らかの悪影響のもとに警察官に対してなした供述を検察官に対しても維持しなければならなかったという関係は生じない上、もとより、W4検事自身が右供述を得るについて同被告人に不当な圧力を加えたような事実を窺わせる証拠もない。

そして、右二月七日付検面調書における①の局面に関する前記の抽象的な表現から、前記同月二一日付検面調書における当該局面に関する具体的供述に至るまでの供述経過にも、不自然、不合理な変遷は全く窺えず、そのうち主観面に関する供述に関しても、捜査機関がそれを獲得するに際して、特に強硬な取調べ方法を弄したことを窺わせる証拠はない。

したがって、取調べ方法ないし供述経過の観点からみて、その信用性を特に強く阻害するような事情はなかったものと認めることができる。

イ 甲一家本部長としての立場における抗争遂行の必要性(抗争遂行の動機の合理性)

次に、被告人丁の動機面から考察するに、確かに、同被告人とCとの人的関係等に照らせば、同被告人に、C事件に対する報復としての本件抗争を遂行する個人的動機が乏しいことは、既に前記二2(二)(4)に判示したとおりである。しかし、他面、被告人丁にとって、甲一家の幹部組員という立場においては、「C事件に対する報復」というような具体的性格を捨象した抗争一般を、他の幹部組員に率先して遂行する必要性は、同じ舎弟クラスの組員の中でも、とりわけ高度であったと認めるに妨げない。

右のような被告人丁の立場を端的に示すものが、同被告人の二月一二日付検面調書の大要次のとおりの記載である。

「B組は、以前は、甲一家と対立関係にあったが、甲一家が次第に強大化する時代の流れに勝てず、五年ほど前に先代組長が甲一家の相談役になって、実質的に甲一家に吸収され、当時服役中だった私が出所した時は、既に、その傘下に入っていた。先代組長は、私が服役中に亡くなり、私が、二代目B組組長になっていたようで、私が甲一家に所属するようになったのは、三年前からであり、遅くなってから所属したわけで、いわば『外様』だった。外様というのは、非常に厳しい立場にあり、甲一家で面倒を見てもらうようになった義理があるので、何か事が起った場合には真っ先に行かなければならない立場にあった。私は、昨年九月から本部長の役職についたが、これも、私の働きが認められたというより、いざという場合にB組を兵隊として動かして使うためのものだった。私は、自分の立場をよくわかっていたし、E2やE6も、私の立場を私以上によくわかっていた。だからこそ、真っ先かけて、私のために、上熊本事件を起こしてくれた。こうでもしなければ、甲一家内での私の立場は保つことができなかった。真っ先にやってくれたことにより、私は、甲一家に対する義理を果たしたわけである。私は、本部長の立場にあるが、あくまでも外様であり、発言力も限られ、必ずしも優遇されていなかった。今回の抗争で、華々しい手柄を立てれば、名実ともに本部長にふさわしい発言力を手に入れることができた」

右に被告人丁がいうところの「外様」の立場にある者の組織内での微妙な立場に関する供述は、同被告人が、右検面調書で最初に行なったものであって、員面調書の上塗りでないことはもとより、捜査機関がその淵源となるような資料を既に入手していたことを窺わせるような証拠もない。

また、これを録取したW4検事は、E10事件の公判廷で、被告人丁の取調べ状況について、

「被告人丁の甲一家での立場については、私は、ほとんど知識がないので、当初の段階でかなり詳細に聞いた。その際、同被告人は、自分は甲一家では外様だと言い、昔は反目(はんめ)、すなわち、対立側の組織に属していたが、自分が服役中に親分が甲一家に入り、自分もその流れで甲一家に入らざるをえなくなったとのことで、『外様なので、自分は、本部長の地位になっているが、それは実力でなったのではなく、被告人甲が指名してなっている。なぜ同被告人が自分を本部長に指名したかというと、いざという時に働けという意味だ。だから、こういう抗争が起きた時は、自分は真っ先に立って地義理を果たさなければいけない』というような雰囲気で語った」

と述べており、右は、前記検面調書の当該部分の録取の際の状況と認められるところ、右証言内容に鑑みても、前記記載が、W4検事の意図的誘導によるものではなく、被告人丁がその本心を吐露したものであることは明白であって、当時の同被告人の認識を示すものとして十分信用できる。

したかって、被告人丁として、Cの仇を討つべき個人的動機に欠けることは前示のとおりであるほか、同被告人が、一個人として、又はB組の長として、抗争の遂行に必ずしも積極的ではく、できればこれを控えたいという心情を有していたことも、その公判段階の供述のみならず、捜査段階の供述中にも散見され、それはそれとして十分信用できるところではあるが、他面、甲一家の組織に身を置く幹部組員として、甲一家内の他の組に率先して、自己の配下の組員に何らかの外形的行動をなさしめ、もって、自己ないしB組の甲一家内における対面を保ち、その地位の安泰を図る必要性は極めて大きかったと認められ、同被告人は、個人的心情や、E2やE6の上位者としてのいわば私的な立場と、甲一家本部長としてのいわば公的な立場との間での板挟みになって苦悩していたことが認められる。

この点は、二月一九日付検面調書(舎弟事件<書証番号略>)における

「私は、甲一家では外様的立場にありながら、本部長をしており、かねて、私の配下のE2やE6は、体も十分でないのに、私の身を案じて、私が組でものを言えるようになってもらいたいと考えてくれており、どうしても先陣を切って仇討ちに行かなければならない状態だった。私個人としては、二人の健康や家族のことを考えると、二人を犠牲にするには忍びなく、できれば、私がヒットマンとして殺(や)りたいぐらいの気持ちであり、被告人乙や同丙が、自分のところからヒットマンは出さず、E2らに『行け行け』と指示しているのを見て、内心、身を切られるような思いがしていた。しかし、私も、極道として、本部長という立場にある以上、被告人乙や同丙にたてつくわけにはいかないから、E2やE6には、何とか早くP組事務所を襲撃して、地義理だけは果たせということから、心で泣きながら、『行け』と発破をかけざるをえなかった」

旨の供述に端的に表われている。

右供述には、個人的には、自己ないしB組の利益のために犠牲になろうとする配下組員の身を案じながらも、甲一家本部長という立場を重んじざるをえない、暴力団組織に身を置く者としての哀感が切々と如実に表現されており、それ自体において信用性が高いと評価できるほか、被告人丁が右のような心情を訴える供述をしたのは、検察官に対する右供述調書が最初であって、右供述が、警察官の暴行等による悪影響の所産又は検察官の強制・誘導の結果でないことも明白であり、その供述内容は十分信用するに足るというべきである。

これらの諸点から認められる、被告人丁の、甲一家内での自己の立場に対する認識、及び、それに起因する、右立場上抗争を遂行する必要性の高さ等に鑑みれば、前記①及び②の両局面における同被告人のE2に対する対応の際の主観的状況については、前記二月二一日付検面調書の記載内容をもって真実と認めるのが相当であり、それが、一個人、あるいは、E2やE6の上位者としての心情と、甲一家幹部組員としての立場との板挟みの結果としての、やむにやまれぬ選択であったことは認められるものの、結果的に、甲一家の組織内における自己ないしB組の立場を優先させ、自己の利益のためにE2がその名代として行なうべき襲撃行為を是認し、E2にその決行を委ねる態度に出たものであると解すべきである。

ウ E2の行動に鑑みての信用性

次に、被告人丁からの前記のような各対応を受けた相手方であるE2のその後の行動についてみるに、同人は、まず、「□□」での①の局面の後、ほどなく、P組事務所の即時襲撃を決意して、△△ビルに赴き、E6に新たにけん銃一丁を手渡した上、同所から本部事務所の被告人丁に電話を入れて、直ちにP組事務所の襲撃を決行する旨を、ほぼ断定的な表現で同被告人に伝えてことが、同被告人の舎弟事件の公判廷及びE2のE6事件の公判廷での各供述等から明らかであるが、そのように、同被告人から直接前記①の局面での対応をされた直属の配下組員たるE2が、その直後に襲撃決行を決意していることは、とりもなおさず、同人が、①の局面での同被告人の言葉を、同事務所襲撃を一般的・絶対的に禁止する趣旨のものとまでは解釈しなかったことの証左であるというほかない。

次に、前記②の局面で、E2が被告人丁に電話をした行為には、直ちにP組事務所を襲撃する旨の自己の意思を伝えるとともに、それが同被告人の意向に反しないことを最終的に確認する意味が含まれていたことは、その外形的行為自体に照らして疑いの余地がない。なお、E2は、E6事件の公判廷で、右電話に同被告人の意向確認の趣旨が含まれていたことを否定しているが、右電話をした目的については、「その日(正確には前日)に同被告人とちょっと会っており、それから急に私が(E6とE7をP組事務所の襲撃に)行かせるようになったから、一応電話をかけてみた。同被告人と私との繋り、親しい関係から、ただ、『今△△ビルに来ている』ということを電話しただけである」等と述べるのみであり、右は何ら説得力を有しないばかりか、自己の上位者には抗争と無関係であるような外観を装わせることに留意する一般的行動性向を有する暴力団員が、単に右公判供述にみられるような理由のみから、わざわざ、深夜の時間帯に、被告人丁がP組事務所襲撃に何らかの意味で関与する外観を作ってしまう結果をもたらすような電話をするとは容易に認め難く、右公判供述は、同被告人をかばう趣旨に出たものであることが明らかであって、信用することができない。

そして、E2は、わざわざ被告人丁の意向を確認するために電話をしておきながら、②の局面の直後の段階でも、何ら、P組事務所襲撃を一般的に思いとどまったり、再考したりした形跡がない。すなわち、E2は、右②の直後に、E6及びE7に対して、直ちに襲撃を決行することは中止することを告げたものの、E6から、「どっちみち、今日、明日のうちに行かにゃんなら(「P組事務所を襲撃しなければならないなら」の意)、一緒に連れて行ってくれんですか」との申し出を受け、切迫した時点での襲撃に備えて、E6及びE7を「□□」に連れ帰ったことが、E2、E6及びE7のE6事件の公判廷での各供述から明らかであり、E2自身も、同事件の公判廷で、「二、三日のうち、格好だけでもつけなければならないという気持ちだった」と述べているのであって、同人が、②の局面の直後の時点さえ、襲撃の決行の確定の決意を、その時期の点のみを除いて、維持・継続していたことに疑いの余地はない。また、E2が、右決意に基づき、具体的な襲撃を同日中と決めてこれを実行に移したこともまた明らかである。

そして、E2が、②の局面での被告人丁の言葉を、P組事務所襲撃を一般的に禁止する趣旨に出たものであると認識していれば、直属の上位組員である同被告人の明示の命令を受けながら、襲撃の決意を何ら同様させることなく継続し、同日中にこれを実行に移すということはほとんど考えられないことであり、同人が、被告人丁の右言葉を、焦燥感に駆られて襲撃を強行すれば失敗する蓋然性が高いとの判断から、深夜であることを理由として、単にその時点での即時の決行に出ることを思いとどまることを命じる趣旨のものと理解していたことは、疑いの余地がない。

これらの諸点を総合すれば、①及び②の両局面における被告人丁の心境に関しては、前記(3)掲記の同被告人の各検面調書の当該記載内容をもって、真実と認めることができる。

(5)  右に検討したところから、被告人丁が、「□□」において、自己の面前で行なわれた被告人乙による発破かけ行為を是認した上、右発破かけの結果として、自己の直属の配下組員たるE2が、P組事務所襲撃という特定の犯罪を遂行する決意を固め、今まさにその決行に出ようとしていることを知悉しながら、単に、即刻実行に出ることを制止するにとどまったことは明らかであり、それは、とりもなおさず、E2が時期を計って同事務所を襲撃することを是認したにほかならないと評価すべきである。

そして、被告人丁とE2との人的関係をみれば、同被告人にとって、E2は、自己の命令には絶対に服従すべき直属の下位組員であり、したがって、現実にも、P組事務所襲撃を一般的・絶対的に禁止する指示を与えれば右指示に容易に服従させることができる関係にあったと認めるほかない。

それにもかかわらず、同被告人が、E2に対し、時期を見て同事務所襲撃を決行することを是認する態度に出た以上、それは、単に純然たる第三者が特定の犯罪行為に出ることを認識しながらこれを放置したという域を越え、E2の暴力団組織の構成員としての行動は、すなわちその所属するB組の組長たる自己の手足としての行動にほかならず、E2が自己の甲一家での立場を理解し、その安泰を図って行動に出ることを十分認識しながら、あえて、E2が自己の手足となり、自己の意向を受けた行動として同事務所を襲撃する行為を是認したもの、すなわち、E2に対し、被告人丁固有の意思に基づく犯罪行為を実行に移すことを託したものであると評価するほかない。

(四) 小括

以上の次第で、一二月一二日の夜、「□□」における前記(三)(1)①の局面で、被告人丁とE2との間に、暗黙のうちに、近日中にP組事務所に対する襲撃を行なう旨の意思の連絡が成立したと認めることができ、翌一三日未明の同②の局面で、重ねて、暗黙のうちに同旨の意思の連絡がなされた上、E2がこれに従って具体的な襲撃の時期を決し、その決意に基づいて確定された最終的な襲撃方法に従って、E6ら四名によって上熊本事件が敢行されたことは明らかであるというべきである。

したがって、同事件について、被告人丁を含めた共謀の事実を認めることができる。

(五) 共謀の内容

なお、被告人丁に関する共謀の内容については、同被告人が、一二月九日に、E1が被告人乙に対して本件抗争の凶器として用いるべきけん銃の調達を依頼した場面を現認しており、本件抗争の一環として行なわれるP組事務所襲撃に際してけん銃が用いられることを認識していたと認めるに妨げないことや、同被告人が同事務所に装備されたガラスが防弾ガラスであると認識していたことを窺わせるような証拠もないこと等に照らせば、同被告人が、同事務所の襲撃に際し、その実行者による発砲行為によって、同組組員が死亡するに至る可能性があることを認識し、かつ、これを認容していたことは明らかであるというべく、右共謀の内容は、殺人罪のそれであると認めることができる。

(六) 結論

よって、被告人丁は、上熊本事件について、殺人未遂罪の正犯であるとの法的評価を免れない。

四  黒原病院事件について

1 被告人甲の罪責

(一) 検察官の主張の概要

検察官は、黒原病院事件について、被告人甲にも共謀共同正犯が成立するとするところ、同被告人を交えた共謀の態様として検察官が主張する事実関係は、大要、

「一二月一七日、本部事務所大広間に、H組幹部の『鈴木』が黒原病院に入院している旨を知らせる密告電話が二回にわたってあったが、そのうち、同日午後九時ころにあった二回目の密告電話(以下、単に「密告電話」という場合は、右二回目の密告電話を指す。)の際、その受話器を、その場に居合わせた被告人甲が取り、その後、同乙から同丙に引き継がれたが、同丙からその電話の内容を聞いた同甲は、他の被告人らに、『H組の『ギンシ』だ。それば、いけ』等と述べて、黒原病院に入院中の右『鈴木』を殺害するよう指示した」

というものである。

(二) 検察官主張に沿う証拠

本件証拠中、右の検察官の主張事実を直接認定するに資する証拠は、被告人丙の三月一七日付(総長事件<書証番号略>・舎弟事件<書証番号略>並びに、同丁の同月一六日付(二通<総長事件<書証番号略>・舎弟事件<書証番号略>>)及び同月一九日付の各検面調書のみであるから、右主張にかかる共謀を認めうるか否かは、結局、右各調書の信用性の検討に尽きるものであるところ、この局面に関する右各調書の記載内容は、大要、次のとおりである。

(1) 被告人丙の右検面調書の記載内容

密告電話の際、ちょうど被告人甲が大広間のこたつのところに座っており、その電話を同被告人が取った。同被告人は、「おい、黒原病院が何たらとか、妙な電話が入りよるぞ」と言い、次に、同乙が、同甲に代わって、自分の前にある電話に出たが、同乙は、私に、「さっきの電話がまたありよるぞ。おい、代わってみれ」と言い、私が電話に出た。電話の声は、一回目の密告電話と同じで、男は、「間違いなかですよ。『鈴木』は黒原病院に入院しとる」等と言い、同病院の電話番号と「鈴木」の部屋番号を言うので、それをメモした。電話を切った後、私が、被告人乙に、「H組の『鈴木』が黒原病院に入院していて、電話番号と部屋番号を言ってきた」と言うと、同被告人は、「そんなら、黒原病院に電話して確かめてみれ」と言ったので、私が同病院に電話をしたところ、女性が出て、私が、「鈴木勝則さん、入院しとってですか」と聞くと、女性は、「鈴木勝則さんなら、入院してますよ」と言って、部屋番号も言い、情報と同じことがわかった。それで、私が、被告人乙に、「間違いなかですよ」と言うと、同被告人が、「そら、名前の違うごたる。なあ兄弟、名前の違うとっど」と、Rに、「勝則」という名前が違うのではないかということを聞いていたが、右Rは、「うーん」と言って、首を捻っていた。すると、被告人甲が、「そるがHんとこの鈴木なら、『ギンシ』だ。金ばようけ持っとる」と言い、同乙も、「鈴木は、金融やら建物をやってて、金ば持っとる」と言った。そして、同甲が、「H組のそん鈴木なら、そればいけ。人違いなら大事するけん、ようと調べてからいけ」と言い、「ここであったこつは、言わんごつせなんぞ」と言って、大広間を出て行った。そして、黒原病院に入院している「鈴木」が、ギンシの鈴木かどうかを確かめることになり、被告人乙が、「名刺ば貰うとった」と言いながら、大広間を出て一階に行った。同被告人は、五分ほどで帰ってきたが、名刺は持っておらず、その時点では、確認ができなかったようだった。それで、「鈴木」という人物の確認は、うやむやになった。

(2) 被告人丁の前記三月一六日付検面調書(総長事件<書証番号略>のもの。なお、総長事件<書証番号略>・舎弟事件<書証番号略>のものは、関係各場面の見取図の作成・提出のみに関するもの。)の記載内容

密告電話の時、被告人甲が、大広間の、私、同乙、同丙らがいたこたつの隣のこたつにおり、その電話は、まず、同乙が取って、同丙と交替としたが、電話が終った後、同丙は、「さっきの電話の声に間違いなか。『鈴木』が黒原病院に入院しとっとがわかった」「『鈴木』は島村の『ギンシ』たい」等と言った。このあたりで、被告人甲が、隣のこたつから、「Hの『ギンシ』だけん、Hが帰ったら元気出すけん、絶対取らないかん」等と、私たちに声をかけ、それだけ言うと、立ち上がり、口にチャックをして耳を塞ぐ動作をして、「こうばいた」と一人言を言いながら、大広間から出て行った。その後、被告人乙が、「よし、あれは俺が名刺ば貰っとったけん」と言うと、内線電話で当番部屋に電話をかけ、「おい、鈴木の名刺持って来てみれ。回状か何かなかったか」等と指示していた。確か、密告電話の「鈴木」の名前(姓名のうち「名」を指す。以下同じ。)と、同被告人が知っている「鈴木」の名前が違っていたので、確認してみようということで、名刺の件が話題になったように覚えている。更に、被告人乙が、同丙に、「病院に電話をして、入院しとるかどうかば確かめてみれ」等と指示した。そんな時、同甲が久留米の道仁会本部に出かけることになり、私は、そのお供をするために、その場を立った。そのため、「鈴木」が黒原病院に入院していることを、誰がどのようにして確認したのかは知らない。

(3) 被告人丁の三月一九日付検面調書の記載内容

密告電話を取ったのは、被告人甲自身であり、その後、同乙の前の電話に、内線で切り替えて、同被告人と電話を代わったことを思い出した。

(三) 右各検面調書の信用性

確かに、右の各記載内容には、ある程度具体性もあり、また、暴力団組織上の自己の上位者の罪責に関して供述することは、供述者にとってかなり高度の危険を伴うことは自明の理であり、被告人丙や同丁としても当然その程度の認識はあったと認められ、それを承知の上で、あえて同甲に決定的に不利益となる事実を述べている以上、一般的にいえば、その信用性は高いとの評価も不可能ではない。

しかし、右供述調書の記載には、以下に述べるとおり、重大な疑問点が存在し、それらを総合・集積して検討すれば、右各供述調書の記載内容には、合理的疑いを差し挟む余地が十分存するというほかない。

(1) 時間的関係上の問題点(信用性検討の前提)

検察官主張の共謀事実の認定のためには、密告電話の際、被告人甲が大広間にいたことが前提となるので、まず、前記各検面調書それ自体の信用性の考察に先立ち、右事実の有無について検討を加えておく。

すなわち、

① 密告電話の後、被告人丙が、同乙の指示によって、黒原病院に対し、「鈴木」なる人物が同病院に入院していることを確認するための電話(以下「確認電話」という。)を入れたこと

及び

② 被告人甲が、一二月一七日の夜に、福岡県久留米市の道仁会本部に出かけたこと

の両事実については、証拠上、疑いの余地がないので、以下、密告電話とこれらの事実との時間的関係に照らして、被告人甲が密告電話の際に大広間にいた事実を認定できる余地があるか否かを考察する。

ア 確認電話の時刻

まず、確認電話がなされた時刻についてみるに、当夜の黒原病院における当直看護婦であったL(以下「L」という。)は、司法巡査に対する三月五日付供述調書において、右時刻に関し、大要、次のとおり述べている。

「一二月一七日、午後九時の消灯時刻には、いつものとおり、各部屋を見回った。同日は、入院患者が二〇人ぐらいで、重病の患者はいなかったし、一人勤務で電話番もいないので、急いで見回り、五分ぐらいで終ったと思う。午後九時以後だったので、二階の看護婦詰め所で勤務していたところ、四〇歳台ぐらいの男から電話があった。私は、その電話の内容を伝えようとして、鈴木勝則の病室である三一一号室にインターホンを入れたが、そのようにインターホンを使うことは、午後一〇時を過ぎていればしないと思うので、これは、午後一〇時前ころではなかったかと思う。つまり、この電話は、午後九以降で、同一〇時前ころの間ではなかったかと思うが、メモ等がなく、はっきりした時間はわからない」右のLの供述にかかる電話が、本件の確認電話であったことは疑いの余地がなく、また、右供述内容に照らし、その時刻が、午後九時以後、同一〇時以前であったことは間違いない。

そこで、右時間帯のうち、いずれの時刻と特定するのが合理的かについて検討するに、Lの供述によれば、黒原病院における所定の消灯時刻は午後九時である旨定められていると解するのが相当であるところ、病院等の施設における実際の消灯が、所定の消灯時刻より早く指示されることは経験則上ほとんど考えられないというべきであるから、確認電話当夜に消灯の指示が行なわれたのも午後九時以降であったと認めるほかない。

そして、消灯の際の各病室の見回りは、実際に消灯されていることの確認をその目的の一つに含むものと解するのが合理的であり、かつ、その見回りが五分ぐらいで終ったとのことであるから、Lが二階の看護婦詰め所に戻った時刻は、最も早くて午後九時五分ころと認めるべきである。

次に、確認電話が入った状況について、Lは、「二階の看護婦詰め所で勤務していたところ、電話があった」と述べており、右の表現からみれば、Lが看護婦詰め所に戻った直後に電話があったと解釈することは不自然であり、同女が看護婦詰め所に戻ってから、電話があるまでに、一定の時間看護婦詰め所で勤務していたと解すべきである。それとともに、「電話があったのは、午後一〇時前ころではなかったかと思う。つまり、この電話は、午後九時以降で、午後一〇時前ころまでの間ではなかったかと思う」との供述部分に依拠しても、これを率直に理解する限り、確認電話の時刻は、午後九時よりむしろ午後一〇時に近い九時台であったというべく、少なくとも、Lが、看護婦詰め所に戻ったと考えられる最も早い時刻である午後九時五分から一定の時間、少なくとも数分程度の時間が経過した午後九時台であると解するほかない。

イ 密告電話と確認電話との時間的間隔

a 二回目の密告電話の後

① 被告人丙が確認電話をしたこと

② 被告人乙が、黒原病院に入院中の「鈴木」の名前である「鈴木勝則」が、自己が記憶していたH組幹部である「鈴木建治」の名前とが一致しないことに気づき、かねて貰っていた鈴木建治の名刺を探す試みをしたこと(以下、便宜上「名刺探し」という。)

の両事実があることについては、各関係者の供述が一致しており、疑いの余地がない。

b ところで、右①と②の両事実の先後関係については、被告人乙及び同丙の捜査段階の各供述調書及び各公判供述では、いずれも、①の事実が先であるとされているのに対し、同丁の捜査段階及び公判段階の各供述に依拠すれば、②の事実が先であるという結論にならざるをえない。

c まず、被告人乙が名刺探しをしたのは、その時話題に出た「鈴木」の名前が、同被告人の記憶にあるH組関係者たる鈴木建治の名前と違っていたことが契機となっていることには、ほとんど疑いの余地はない。したがって、その時点で、既に、被告人乙や同丙らにとって、黒原病院に入院中の「鈴木」の名前が「勝則」である旨が明らかになっていたと認めるほかない。

d そこで、右のように、被告人乙や同丙にとって、黒原病院に入院中の「鈴木」の名前が「勝則」であることが明らかになった時期について検討するに、この点については、同乙や同丙の供述が必ずしも一致せず、密告電話と確認電話の双方の当事者である同丙自身は、捜査段階のほか、総長事件及び舎弟事件の公判廷でも、いずれも、密告電話の際に、既にその相手方から「鈴木勝則」という名前を聞いていた旨、また、「確認電話の際には、『鈴木勝則て入院しておるな』と尋ねた」旨述べている。

しかし、「鈴木」の名前が判明した時期に関する右の被告人丙の各供述は、必ずしも断定的なものではない上、密告電話及び確認電話の際における「鈴木」の名前に関する会話の内容も具体的に明らかにされていないのであって、必ずしも信用性が高いとはいえず、かえって、次に掲げるLの供述に照らせば、「鈴木」の名前が判明した時点が確認電話の段階であることは、ほぼ明らかである。

すなわち、Lは、確認電話の状況に関して、前記調書で、次のように述べている。

「私が確認電話に対応したが、相手の男は、『鈴木さんて入院されていますか』と尋ねるので、私は、『鈴木どなたですか』と、下の方の名前まで聞き返した。すると、男は、『鈴木さんて、そぎゃん何人でん入院しとんなっとですか』と聞くので、当時、鈴木姓では鈴木勝則一人だけが入院していたので、私は、『いいえ』と言って、すぐに、『鈴木勝則さんのことですか』と話した。すると、相手の男は、『鈴木勝則といいなっとですか』というようなことを言うので、私は、『この人は、自分から鈴木さんのところに電話をかけてきて、下の方が勝則だと初めて知られたのかな』『鈴木さんと知り合いの人なら、下の名前も知っているはずなのに』と、不思議に思ったことを覚えている」

右供述は、個々の会話の文言の具体的内容まで審らかにされており、迫真性・臨場感に富むものであるほか、そのやり取りの際にLが被告人丙の発言を奇異に感じた部分に関しても、同女は、その体験の特異さに照らし、十分な記憶力を保って右調書の録取に応じたものと認めるのが相当であり、同女の右供述は、「鈴木」の名前に関して、同被告人の捜査段階及び公判段階の各供述を遙かに上回る信用性を有することが明らかである。

よって、密告電話の際に「勝則」という名前を教えられた旨の被告人丙の供述は、公判供述を含めて、記憶違いである可能性が極めて高いというほかない。

e したがって、前記②の名刺探しの行為は、①の確認電話によって黒原病院に入院中の「鈴木」の名前が「勝則」であることが判明した後に行なわれたと認めるのが相当である。

f 次に、被告人乙及び同丙の公判段階の供述によればもとより、その捜査段階の供述に依拠するも、同丙が密告電話を切ってから、確認電話をするまでの時間的間隔は、極めて僅かであったと認めるほかない。

すなわち、被告人乙、同丙は、総長事件、舎弟事件、及びE10事件の公判廷で、いずれも、密告電話の後すぐに確認電話をしたことを内容とする供述をしているほか、この点に関して罪体認定に供しうる唯一の捜査段階の供述調書である同丙の前記三月一七日付検面調書でも、「密告電話を切った後、私が、被告人乙に、『H組の鈴木が黒原病院に入院していて、電話番号と部屋番号を言ってきた』と言うと、同被告人は、『そんなら、黒原病院に電話して確かめてみれ』と言ったので、私が同病院に電話をした」とされている。

なお、仮に、密告電話と確認電話との中間に、検察官の主張する被告人甲の指示等が介在したと想定しても、密告電話の内容に関する同丙の報告及び同甲の右指示に、ある程度まとまった時間がかかったことを窺うことはできず、やはり、密告電話から確認電話までの時間的間隔は、せいぜい数分程度であったと考えるほかない。

ウ 密告電話の時刻

以上のとおり、確認電話の時刻は、午後一〇時に近い九時台と解するのが最も自然であり、仮に最も早い時刻を想定しても、午後九時五分から少なくとも数分を経過した時点であり、かつ、密告電話と確認電話との時間的間隔はせいぜい数分であるから、密告電話の受話器が置かれたのは、やはり午後九時よりも同一〇時に近い九時台であると可能性が高く、仮に、最も早い時刻を想定しても、午後九時五分ころ以後の時点であったと解される。

エ 被告人甲の久留米への出発時刻との時間的関係

a 一方、一二月一七日の夜、被告人甲が久留米市の道仁会本部に出かけた際には、その出発に際して、遅くとも、同日午後九時一〇分には、右外出に伴う検問作業が開始されていたと認めるほかない。

すなわち、当時、本部事務所付近の三か所において警察による検問が実施され、その検問所で甲一家関係者の出入り状況が記録されており、右記録中に、前記外出の時刻に関して、これを午後九時一〇分とする記載があると認められる。この点については、右記載を直接認定するに足る証拠はないが、被告人丁が、前記三月一六日付検面調書において、「私は、密告電話の後、間もなく、被告人甲のお供で久留米の道仁会本部に出かけたが、警察の資料では、その時刻が午後九時一〇分ころだそうである」旨述べており、被告人丁の供述経過を示す同被告人の同月一一日付員面調書でも、「刑事に抗争中の本部事務所の出入り状況をチェックした一覧表(以下「チェック表」という。)を調べてもらったところ、私は、その晩、午後九時一〇分から午後一一時五五分ころまで、被告人甲らと事務所を出ている」等と述べていることからみて、少なくとも、警察官が原記録たるチェック表の記載内容をもとに被告人丁を取調べたことが認められ、また、右のような記録に、「午後九時一〇分『ころ』」というように、「ころ」の二文字を含む記載がなされることは、性質上極めて不自然であるから、右の原記録にみられる外出時刻の記載は、端的に、「午後九時一〇分」であると認めるのが相当である。そして、チェック表の右記載内容は、警察官による現認に基づいて即刻記録化されたものであって、少なくとも、その時刻の点では、十分な信用性を有するというべきである。

b そこで、右の久留米への外出の際の状況を含めた、本部事務所前での検問の状況一般及び被告人甲の外出の際の状況一般についてみるに、総長事件及び舎弟事件における被告人乙、同丙及び同丁の各供述を総合すれば、右の状況は、ほぼ次のようなものであったと認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

① 一二月九日又は一二月一〇日ころから、抗争期間中を通じて、

本部事務所北側の玉名区検察庁前

本部事務所南側の商店街側の玉名駅通り方面の入口

本部事務所裏側(西側)

の三か所で、検問が行なわれており、検問所一か所あたり四名前後の警察官が検問に従事していたこと。

② 自動車で外出する時は、ほとんど右の検問所を通過しており、被告人甲については、常に同検問所を通っていたこと。

③ 事務所から外出する時は、右検問所で、名前を聞かれ、手荷物の検査やボディチェックをされ、自動車については、トランク、室内、ボンネット等を全部調べられ、警察官は、外出者の名前や行き先をメモしていたこと。

④ 検問に要する所要時間は、例えば、一台の自動車で四ないし五人が外出する時は、一〇ないし一五分であったこと。

⑤ 被告人甲が外出する場合は、本部事務所から道路を挟んで東側の位置にある車庫に駐車してある同被告人の自動車を、前もって、運転手が右の検問所に運んでそのチェックを受け、同被告人は、そのチェックに要する時間を見計らって事務所を出ること、その際、同被告人は、事務所三階からエレベーターで一階に降り、事務所の通路から表に出て、その時点で本部事務所にいる数十人の組員に取り囲まれるようにして右検問所まで歩いて行き、そこでボディチェックを受けて、検問所の外で自動車に乗っていたこと。

⑥ 被告人甲が、外出時、本部事務所玄関前から直接自動車に乗ることはなかったこと。

c ところで、一二月一七日の被告人甲らの久留米への外出についてチェック表に記載された「午後九時一〇分」という時刻が、

① 被告人甲が玄関を出るに先立って、その自動車が検問所に運ばれた時刻

② 検問にあたっていた警察官が同被告人らが本部事務所玄関を出たことを現認した時刻

③ 同被告人又はその同行者が検問所に到着した時刻ないし検問の開始時刻

④ 検問の終了時刻

のいずれを示すものであるかを確定するに足る証拠はないが、少なくとも、②ないし④の時点であると仮定した場合には、遅くとも、右同時刻には被告人甲及び同丁は、既に本部事務所から屋外に出ていたものと認めざるをえず、これによれば、検察官主張の被告人甲の指示の事実を認める余地は、ほとんどないといわざるをえない。

d すなわち、チェック表の記載時刻が③や④の時点を示すものであればもとより、仮に②の時点を示すものであったとしても、それが午後九時一〇分であれば、被告人甲は、遅くとも同九時八分ころには、玄関前に降りるべく大広間を離れていたと認めざるをえず、同被告人が大広間に滞在していた時刻と、最も早くて午後九時五分以後であることが明らかな密告電話の時刻とが重なり合うことは、稀有の事態であるというべきである。

また、物理的には、被告人甲が大広間に滞在中に密告電話があった可能性が辛うじて肯定されるとしても、その場合には、同被告人は、密告電話の直後に本部事務所三階を離れたと認めるほかない。すなわち、同被告人が、密告電話の後、検察官主張にかかるような指示を行ない、その後、被告人丙による確認電話、及び同乙による名刺探しという一連の流れが一段落した更にその後に至って初めて三階を離れたとみることは、確認電話と久留米への出発の時間的関係に照らしてほぼ不可能であると断定でき、もし、検察官主張のような事実関係があったとすれば、確認電話及び名刺探しという一連の行為の途中に、被告人甲が久留米に向けて出発すべく三階を離れたと解するほかない。

しかし、被告人甲が久留米に出発する際の状況に関しては、前記bに示した各事実のほか、当時本部事務所に滞在していた組員のうち、電話番を除くほぼ全員、すなわち五〇人前後の組員がこれを見送ったことが認められることに照らし、その際には、事務所内がかなり喧騒な状況になったことが推認できるほか、少なくとも、その時、同乙は、同甲を見送るため、事務所を出て、検察庁前の検問所付近まで赴いた事実があったことが明らかである。それにもかかわらず、確認電話及び名刺探しという一連の流れの途中で、事務所内がそのような喧騒な状況になった事実を窺わせる証拠や、被告人乙がこれらの一連の行為を中断して事務所を出て同甲を見送った事実を窺わせる証拠は全くない。

そして、一方、密告電話から、確認電話、及び名刺探しという一連の流れが一段落した後に至って、初めて被告人甲が三階を離れるという事態が時間的に不可能であることに照らせば、右の一連の流れは、既に被告人甲の見送りが終り、事務所が静穏な状態を回復した後の出来事であったとみるしかない。

e しかし、一方、チェック表の記載時刻が、前記c摘示の①の時点を示すものであれば、密告電話の際被告人甲が大広間におり、その直後に検察官主張のような指示を行い、その後の、確認電話及び名刺探しという一連の流れが一段落した後に、初めて三階を離れたという時間的図式も、成り立ちえないではない。

すなわち、被告人甲の外出の際には、前記bのとおり、予め、検問所において、その自動車のチェックを済ませておき、同被告人は、その時間を見計らって玄関から出ていたことが認められ、また、前示のとおり、自動車一台で四ないし五人が外出する場合の検問の所要時間は、一〇ないし一五分であったこと、及び、外出者のボディチェック自体に特に長時間を要したとは考え難いことに照らせば、自動車のチェックに一台あたり一〇分近い時間を要したものと考えられる。

そして、関係者の一致した供述により、一二月一七日夜の被告人甲の久留米への外出の際に用いられた自動車が二台であったことが認められることに照らせば、右二台の自動車のチェックに二〇分足らずの時間を要し、また、被告人甲としては、自動車のチェックが開始された後、同程度の時間が経過したのを見計らって三階を離れたということも、十分考えられる。

したがって、チェック表の記載時刻である「午後九時一〇分」が前記c①の時刻であると想定すれば、被告人甲が三階を離れた時刻は、既に同九時三〇分前後になっていたと考えられ、確認電話の時刻が、午後九時五分に比較的近接する時点であれば、前記の時間的図式も一応成り立つといえる。

また、検問担当の警察官がチェック表に出入りの時刻を記入するに際しては、外出に使用される自動車が検問所に運ばれて、そのチェックを行ない、その後、外出者の持ち物やボディチェックを経た後、外出者が検問所を離れるという一連の継続した検問手続の最初の時点、すなわち、右①の時点の時刻をチェック表の記載にとどめるということは何ら不自然なことではなく、チェック表に記載された検問時刻が、右①の時点を示すものである可能性も決して小さくはない。

オ 小括

以上に検討したとおり、密告電話の時刻に被告人甲が大広間にいた可能性を認めるためには、確認電話の時刻が、午後九時五分に比較的近接する時刻であり、かつ、チェック表の前記記載時刻が、自動車のチェックを開始した時刻を示すものである、という、二重の認定を行なう必要があるところ、確かに、そのような認定をする余地も、物理的には十分に残されているということができる。

したがって、被告人丙や同丁の、検察官の主張に沿う前記各検面調書の他の視点からの信用性次第では、同甲が密告電話の際に大広間にいた事実を認める余地はあるというべきである。

しかし、Lの供述を文理に忠実に、率直に解する限り、確認電話の時刻は、午後九時よりも、むしろ同一〇時に近接する九時台であった可能性が圧倒的に高いというべく、更に、チェック表の記載が前記エc①の時点であることを担保する証拠も全く存在しないから、自然的、客観的にみる限り、密告電話の時刻に被告人甲が大広間にいた可能性が、かなり小さいことは否めない。

そして、そのような証拠状況のもとで、捜査段階における共犯者の供述に依拠して、自然的・客観的に検討した場合に可能性が圧倒的に高いと評価でき、かつ、当該被告人に有利な事実関係を排斥し、逆に自然的・客観的可能性が低く、かつ、当該被告人に不利な事実関係を真実として認定するためには、その認定に供すべき供述証拠が、単にその供述内容の具体性、迫真性等の点のみならず、他の局面に関する供述を含めた当該供述者の供述が一般的に極めて信用性の高いものであること、当該供述者に対する取調べ状況の適正、捜査機関が当該内容の証拠資料を獲得するに至った経緯の適正、供述者たる共犯者が当該被告人を罪に陥れようとする動機の不存在等によって、十二分に当該局面における真実性を担保され、論理的に考えられるほとんど最高度に近い信用性を有していることが必須不可欠である。逆にいえば、前記のような証拠状況のもとで、その程度に至らない信用性しか有しない共犯者の供述によって、他の証拠から十分合理的に窺われるところの、自然的・客観的可能性が高く、かつ、当該被告人に有利な事実関係を排斥し、自然的・客観的可能性が低く、かつ、当該被告人に不利な事実関係を真実と認めることは、刑事訴訟における採証方法として許容されないものというべきである。

そこで、次に、被告人丙及び同丁の前記各検面調書の当該記載が、そのような、論理的に考えうるほとんど最高度の信用性を有していると評価できるか否かについて、更に検討することとする。

(2) 供述獲得の経緯

ア まず、捜査機関が、検察官主張の黒原病院事件についての被告人甲の関与状況に関する供述を得た経緯について検討するに、同丙の前記三月一七日付検面調書に記載された同甲の同事件に対する関与状況に関する事項は、これに先立ち、かつこれに近接する時点で、X1刑事によって録取された同丙の同月一六日付員面調書に、また、同丁の前記同月一六日付検面調書に記載された同様の状況に関する事項は、これに先立ち、かつこれに近接する時点で、X3刑事によって録取された同被告人の同月一五日付員面調書に、それぞれ、既に表われている事実であり、前記各検面調書は、結果的にみる限り、右各員面調書の上塗りの域を出ていないと評価するほかなく、したがってまた、右各検面調書の信用性を判断するについては、右各員面調書の録取経過を吟味せざるをえない。

これについては、まず、警察官が、検察官に先んじて、右各調書の中核的かつ最大公約数的な記載事項である、「被告人甲が、密告電話の後、黒原病院に入院中の『鈴木』の殺害を指示した」との供述内容を獲得した過程、特に右供述内容の淵源となる供述の獲得過程に着目する必要がある。

イ そこで、右事実が最初に表われた関係者の各供述調書を特定すれば、被告人丙については三月一六日付員面調書、同丁については同月一五日付員面調書であることは、前記のとおりであり、また、同乙については、熊本北警察署勤務司法警察員警部補X4(以下「X4刑事」という。)の取調べ・録取にかかる、同月一七日付(取調べは同月一六日)員面調書である。

ウ まず指摘できることは、被告人乙、同丙及び同丁が、時期的に見て、勾留延長後の、捜査の常態に照らして員面調書を録取すべきぎりぎりの段階に及んで、しかも、調書の記載上の取調べの年月日して僅か一日の誤差をもって、三名揃って同甲の指示を認める供述をしているという事実である。そして、そのように、これら三名の各被告人が、ほとんど同一の時期に、それぞれ別個独立に、捜査官からの穏当な説得によって、自発的に被告人甲の指示について述べる決心をし、その旨の供述の調書化に応じたとはにわかに考え難く、したがって、いずれかの被告人の供述に基づいて、警察官により、他の被告人に対する誘導がなされた可能性が極めて高いというべきである。

エ そこで、いずれの被告人の供述が最も先行しているかについて検討するに、調書上の取調べ年月日の記載のみに依拠すれば、被告人丁の前記員面調書にかかる取調べが、他の二名についてよりも、一日だけ早く行なわれていることになる。

しかし、供述調書上の取調べ年月日の記載は、必ずしも、当該供述がなされた当日と一致するとは限らず、また、被告人丁は、総長事件及び舎弟事件の公判廷で、黒原病院事件に対する同甲の関与の局面について、同乙及び同丙の供述によって誘導されたことを窺わせる供述をしている。更に、被告人丁の取調官であるX3刑事は、総長事件の公判廷で、右局面での同甲の指示については、同丁の供述が他の被告人に先行していた記憶はなく、誰がそのことを最初に供述したのかは覚えていない旨述べている。そして、被告人丁の供述が他の被告人に先んじていたとすれば、そのような重大な供述を自己の担当する被疑者である同被告人から引き出すことに成功したX3刑事としては、その記憶を容易には喪失することはないと解するのが合理的であり、したがってまた、同刑事として、総長事件の法廷で、右供述はまず同被告人の口から出た旨を断言するのが自然である。それにもかかわらず、同刑事が、公判廷で、右のような曖昧な供述しかなしえない点に照らせば、被告人甲の関与状況に関する供述の淵源が、同丁以外の者、すなわち、他に同趣旨の供述をしている同丙又は同乙のいずれかであったことは、ほぼ明らかであると認められる。

一方、被告人丙は、総長事件の公判廷で、右局面の供述をするについては、同乙及び同丁の供述による誘導を受けたとして、おおよそ「X1刑事が、『皆、総長がおったと言いよるから、言わんか』等と被告人乙や同丁も同甲が密告電話を取った旨を供述していると言った。私は、『そがんこつはなかです』等と言い、もう一度同乙や同丁を調べてくれと言い、X1刑事は、『ほんなら電話してくる』と言って取調室を出て行ったが、その結果は、『やっぱりそがん言いよる』ということだった」と述べている。

右被告人丙の供述内容を積極的に裏付けるに足る証拠はないが、さりとて、これを虚偽であるとして排斥することに資する証拠もなく、また、その供述内容自体に特に不自然な点や自己矛盾がないことに照らせば、刑事裁判における認定としては、一応、右のような取調べ方法が用いられた可能性があると認めざるをえず、したがってまた、被告人丙が、黒原病院事件に対する同甲の指示・関与を認める供述をする以前に、警察当局が、被告人乙及び同丁の双方又は少なくとも一方から、同趣旨の供述を得ていた事実を認めるほかない。

そして、前示のとおり、被告人丁がまず同甲の指示・関与を認める趣旨の供述をした事実がないことはほぼ明らかであるから、結局、同甲の指示・関与に関する供述の淵源は、同乙の前記員面調書であると認めるのが、最も合理的である。

オ ところで、被告人乙の三月一七日付員面調書が録取された時点では、同被告人は、決定書二6(二)に記載したとおり、同月一三日付員面調書の録取に際して、同調書への指印を拒否したところ、取調べ補助官の警察官に、強引に左手を取られて、物理的強制によって同調書に指印を押捺させられたという出来事に起因する精神的衝撃により、取調官に抵抗する精神力をほとんど喪失し、取調官の想定を無抵抗に受け入れるしかないという精神状態にあった疑いがある。そして、そのような精神的状況下で、かつ、右の指印強制の件に直接関与していたX4刑事によって録取された調書の記載には、任意性がないことはもとより、その記載内容の信用性の点でも、極めて重大な疑義が存在すると評価するほかない。

カ しかも、被告人乙の右三月一七日付員面調書を淵源として、同丙及び同丁の各員面調書に表われた密告電話の直後の同甲の発言の内容は、それ以前に作成された同乙、同丙及び同丁の各員面調書において、同乙又は同丙の発言として録取された言葉の内容を、単にその発言主体を同甲に置き換えて移記するだけで、取調官たる警察官限りの作文で造作なく作出できるものである。

更に、警察当局の立場から見れば、黒原病院事件に関する謀議の舞台を設定するについては、これを、既に作成された調書上、被告人乙、同丙及び同丁が一同に会して「鈴木」に関する会話をしていたとされる、密告電話直後の大広間とし、これに同甲を加えれば、被告人ら四名を一蓮托生にして同事件の正犯の罪責を負わせることができ、他方、密告電話直後の大広間以外に、かような舞台を想定することは必ずしも容易ではないことに照らせば、右の日時・場所は、警察当局として、被告人ら四名をいわば十羽一からげにして正犯の罪責を問うために、共謀がなされたと想定すべき、唯一無二の狙い目であったということさえ不可能ではない。

したがって、被告人乙の三月一七日付員面調書に記載された同甲の関与状況は、X4刑事ないし警察当局限りの作文で、極めて容易に作出できるものであり、また、警察当局がその作出を試みることは、特に不自然ではないのであって、「右調書は、警察官が勝手に書いた」という被告人乙の公判廷での弁解内容を、一概に否定することはできないというべきである。

キ 以上に検討したとおり、被告人丙の前記三月一七日付及び同丁の前記同月一六日付各検面調書の中核的部分の淵源は、警察当局が、同乙の抵抗力の喪失に乗じて作成した疑いを否定し切れない同被告人の同月一七日付員面調書であった可能性が濃厚であり、右各検面調書の記載内容も、結果的にほぼこれらの各員面調書の上塗りの域を出ていないのであって、この一事をもっても、右各検面調書の当該部分には、たやすく高度の信用性を付与し難い。

(3) 被告人丙の検面調書におけるその他の問題点

ア 記載内容それ自体の疑問点

被告人丙の前記三月一七日付検面調書の記載内容の骨子は、前記のとおり、確認電話の後、大広間で、同被告人、被告人乙、Rらが「鈴木」なる人物の名前について話していた時、同甲が「鈴木」の殺害を命じたというものであるが、前示のとおり、確認電話の時刻には、密告電話の時刻以上に、同被告人が久留米に向けて出発していた蓋然性が高く、右検面調書は、右のように、同甲の指示が確認電話より更に後に至ってなされたとされている点において、既に、その信用性に疑問を差し挟む余地がある(もっとも、右の点は、確認電話の時刻とチェック表の記載時刻の意味の認定次第で時間的整合性が保たれる余地はあるから、それほど大きな問題点ではない。)。

イ 他の局面に関する供述の信用性の不足

被告人丙の同甲の言動に関する供述内容については、前記三月一七日付検面調書それ自体の中に、一二月一〇日の、Cの葬儀後に、被告人甲が組員の面前でF一家との抗争を宣言した旨の記載があるが、その内容が信用できないことは、既に前記二6に述べたとおりであり、そのように、被告人甲の言動に関する重要な事実に関し、当該の供述調書自体の中に信用性に欠ける部分がある点は、その同一の調書中の黒原病院事件に関する同被告人の関与状況に関する部分についても、その信用性を減殺する要素として評価せざるをえない。

ウ 被告人丙があえて同甲に不利益な供述をする動機の存在(取調べ状況の問題点等)

また、暴力団組織の下位にある者がその上位者に対して不利な供述をするについては、かなりの恐怖が伴うことは、一般的経験則としては首肯されるところあり、また、被告人丙の取調べ担当検察官であった熊本地方検察庁勤務検事W2以下「W2検事」という。)のE14事件の公判廷での証言によれば、同被告人が、黒原病院事件についての被告人甲の関与を認めるに際して、かなり強度の恐怖心を示したことも認めることができる。

しかし、被告人丙が、そのような恐怖心、すなわち、同甲に不利な供述をすることによる危険を認識しつつ、なおかつ、あえて同被告人に不利な虚偽の事実を供述するに足る動機が存在した事実を、完全に否定することはできないというべきである。

すなわち、被告人丙は、黒原病院事件に関する員面調書の録取の際のX1刑事の取調べの状況ないし自己の心理等について、舎弟事件の公判廷で、被告人乙及び同丁の供述によって誘導された旨、前記(2)エのとおり述べているほか、次のような各内容の供述をしている。

① 取調べの際、私は、最初は、密告電話の際には被告人甲はいなかったと言っていた。しかし、私としても、前に上熊本事件で、「□□」の件に関し、私が「□□」に行っていないのに、皆が「行った」旨述べていると言われて、疑心暗鬼になってぐらつき、腹が立っていた。

② X1刑事に、「総長の自宅から現金が七〇〇〇万円出てきたぞ。お前はいくら差し入れがあっておるか。お前どもはもう使い捨てじゃなかか。雑巾のごたるじゃなかか」等と言われた。被告人甲の自宅から七〇〇〇万円が見つかったことは、今では嘘だと思っているが、当時は、そのように言われ、同被告人も金を持っていたので、拘置所に来てしばらくのころまでは、本当だと思っていた。そして、その話を聞き、「差し入れてくれるどが。見てみれ」等と言われるので、「ああなるほどな」とは思った。

③ また、②のように言われて、本当に雑巾のように使われていると思うについて、それまでの被告人甲の自分に対する扱いでも、心当たりがあった。例えば、私としては何も悪いことをしていないのに、夜中に呼び出されてぼろかすに怒られたことがある。私と同被告人との付き合いが始まったころは、仲がよかった。それが崩れてきた事情はわからないが、抗争の一年ほど前から、何か疑い始められたような感じになってきた。同被告人に恩義を感じていた面も、いっぱいあり、同被告人は、よい時はよいが、酒を飲むと変わり、酔狂になって、その時に怒った。

④ また、X1刑事は、ピラミッド型の図を書き、被告人甲、同乙、同丁、及び私の名前を書いて、それぞれの懲役の年数を書いた。その年数は、被告人甲については無期、私や同乙についても、無期に近い二〇年前後の数字であり、同丁は私よりちょっと下に書いてあった。補佐らやヒットマンの懲役年数は、書いていなかった。同刑事は、「刑は二〇年が最高ぞ」と言って、一八年・一七年ぐらいの年数を書き、それから下は書かずに、その「一八年」「一七年」ぐらいのところを指して、「ここぐらいぞ、お前。皆が言いよるけん、言うとがよかとじゃなかか」等と、ピラミッドの上ほど重く、下ほど軽いという内容のことを言った。それで、私は、ばんばん言われた後に、そのような説明をされるので、ほろっとなって、「なるだけ軽くなる方がよか」という気持ちになった。

そして、被告人丙が黒原病院事件についての同甲の関与状況について、同乙及び丁の供述による誘導を受けた可能性は、十分認められるほか、右①ないし④のような取調べ方法が用いられ、又は、同丙がそのような心理状態に陥ったことを否定するに足る証拠もない。そして、これらは、いずれも、被告人丙に、同甲の言動に関してあえて虚偽の事実を述べる心境を惹起しても、あながち不自然ではない心理状態をもたらす要因であるといえる。

a すなわち、まず、被告人乙及び同丁の供述による誘導の点は、被告人丙に、一面では、自己のみがその主張を貫徹しても、捜査官に聞き入れてもらえる目処がないという悲観的な心境をもたらす方向に作用するものであり、ことに、後記bのとおり、被告人丙が、上熊本事件で「□□」の件についての自己の弁解が通用しなかったという、近接した時点での体験を有していたことを加味すれば、その作用は、かなり重大なものであったと解するに妨げない。

そして、右誘導の事実は、それと同時に、他面では、被告人丙に、「黒原病院事件に対する被告人甲の指示の事実を、自分一人が喋っているのではない」という意識、すなわち、自己に先立って、既に被告人乙及び同丁が同様の供述をしており、専ら自己の供述によって同甲が有罪認定を受けるのではない、というある程度の安心感をもたらすに足るものであり、自己が同甲に不利益な供述をすることに伴って予想される危険の強度をかなり緩和させるに十分である。

b 次に、前記①の点は、「□□」の件で、結局自己の言い分を聞き入れてもらえず、上熊本事件について正犯として起訴されたことに対する精神的衝撃と、それによる、取調べに対する抵抗力の減退を窺わせるものである。そして、被告人丙として、上熊本事件で捜査機関に「□□」の件を肯定されて同事件で起訴された経験から、自己がいかに言い分を貫いても、他の関係者がそれに相反する供述をしている以上、結局は自己の言い分は通用しないとの悲観的観測に支配されることは、けだしやむをえないところである。そして、そのために、被告人丙が、自己のみが黒原病院事件についての同甲の指示・関与を否定しても、結局はその事実が捜査機関によって認定されてしまうであろうという、弁解を貫いても無益であるという予測、更には、自己自身も結局黒原病院事件で訴追されることを免れないであろうとの予測を抱くことは、十分理解しうるところである。

したがって、被告人丙の内心に、黒原病院事件について、同甲の関与を否定しても結局は聞き入れてもらえず、また、どのみち自分自身の同事件での起訴を免れることもできないのであれば、せめて、被告人甲を自己に対する上位指揮者としていただくことによって、同被告人との比較において、自己の刑事責任を相対的に軽くしようという思惑が働くことも、決して了解不可能ではない。

c そして、そのような心理的な下地がある状況で、取調官に、右②及び④のような、被告人甲に対する反感を惹起し、他方、同被告人の指示を認めれば自己の罪責が相対的に軽くなるという意味の言葉を申し向けられ、かつ、X1刑事が述べた右②の事実関係を真実であると思い込んだ被告人丙とすれば、右事実自体について同甲に対する反感を抱くとともに、右③のような従前の同被告人との関係に起因する反感も増幅し、それが故に、同被告人に不利な供述に出ることも、特に不自然な心理ではないと評価することができる。

以上の諸点に鑑みれば、被告人丙が、同甲に不利な供述をすることによってもたらされる可能性のあるかなり高度の危険を承知の上で、あえて虚偽の供述をしたとしても、それほど不自然・不合理と評価するには値しない。特に、被告人甲の指示を認めることによって、自己の刑期をたとえ二ないし三年でも短縮できることは、同丙にとって重大な利益であり、これに、前示のとおり、同被告人の主観面における右危険は、既に被告人乙及び同丁も同様の供述をしているとの意識によってある程度緩和されていると認められることをも併せ考慮すれば、自己の刑期の短縮という利益を右危険に優先させることも、それはそれとして十分理解しうる心理状態であると評価できる。

(4) 被告人丁の検面調書におけるその他の問題点

ア 記載内容それ自体の疑問点

被告人丁は、前示(二)(2)のとおり、前記三月一六日付検面調書において、一二月一七日の名刺探しの場面は現認していたと述べながら、黒原病院に対する確認電話については、被告人乙から同丙に対する指示の状況のみは現認していたものの、そのころ久留米に出かけたので同丙による確認電話の状況自体については現認していない旨述べている。しかし、名刺探しと確認電話との先後関係については、前記(1)イのとおり確認電話が先であることが明らかであって、名刺探しの場面を現認していながら、その直後に久留米に外出したため確認電話の場面を現認していないという事態は、論理的にありえないといえる。この一点のみに鑑みても、被告人丁が、右検面調書の録取にかかる取調べに際して、真に自己の実体験に基づく記憶に従った供述をしていたか否かは、かなり疑わしいというべく、換言すれば、右供述は、同被告人が事後的に知った情報との混同や取調官による誘導等、信用性を害すべき何らかの事情の影響下になされたものであることを強く窺うことができる。

イ 他の局面に関する供述の信用性の不足

被告人丁の捜査段階の供述には、既に判示したとおり、一二月八日の人吉署駐車場における状況、同月九日の本部事務所総長室での会合の状況、同月一〇日のCの葬儀の終了後の状況等の重大局面について、被告人甲の言動に関して直ちに信用し難い記載があり、同丁の供述には、全般的に高度の信用性を置き難いというほかなく、この一般的供述性向に鑑みれば、密告電話の際及びその直後の被告人甲の言動に関する部分についても、その信用性の判断には、ある程度の疑義をもって臨まざるをえない。

ウ 被告人丁があえて同甲に不利益な供述をする動機の存在(取調べ状況の問題点等)

また、被告人丙の供述の信用性について前記(3)ウに述べた点は、上熊本事件での起訴による心理的影響の点を除いて、同丁の検面調書の信用性についても、ほぼそのままの形で当てはまる。

すなわち、被告人丁が、最初に黒原病院事件に対する同甲の関与を認めた三月一五日付員面調書の録取の際の取調べをはじめとする取調べ状況一般や、その際の心理的状況等について、総長事件及び舎弟事件の公判廷で供述する内容は、大要、次のとおりである。

① 私は、取調べの際、警察官に、他の者がこう言っていると言われて、それに供述を合わせたこともあり、特に、被告人乙の供述については、同被告人の調書を、二ないし三回見せられ、また、調書は見せられないで、「こう言っている」等と言われたことは、かなりの回数あった。そして、私は、警察は嘘は言わないと思い、警察官の言葉は信じていた。その被告人乙の供述の内容は嘘だとわかっていたが、同被告人がそういう供述をしていることについては、警察官を信用したので、同被告人がそのような嘘を言っているのだなと思った。

② また、X3刑事や他の警察官から、「総長はお前たちのことはひとつも考えちゃおらんばい」「総長は、お前たちは信用しとらんと言いよるぞ。自分が信用するのは本家の会長ぐらいのもんで、ほかの者は何にも思っとらん、ほかの者は役に立たないと、いつも北署で言うとるぞ」等といろいろ言われるので、私も、「ええい」という気持ちになって、嘘をついた。私たちは金がなく、差し入れてもらった金を宅下げしたりしていたが、警察官が、「お前たちは差し入れてもらった金を女房に出したり、かれこれして貧乏しているのに、総長はうなるほど持っとるばい」等と言われ、「総長は、お前たちのことは屁のごつも思うとらんぞ。北署でこういうことを言いよるばい」等と言われ、私は、それを否定する返事をしていたが、あまりそのように言われるので、私もそのような気持ちになったところもあった。また、警察の本部事務所に対する捜索で、一億円の金があり、それを被告人甲の家族全員の名前で貯金してあると言われ、「お前たちは借金だらけじゃないか」等と毎日言われるので、「ええくそ」という気持ちになり、同被告人から気持ちが離れた。

③ また、被告人甲との間には、従前、トラブルがあった。昭和六一年三月か四月ころ、私が同被告人のブレーンになる人と一緒すると話を決めていた仕事を、同被告人に取り上げられ、気分が悪かったこと等のために、二、三日事務所に顔を出さなかったことがあり、同被告人に邪気を回されて、「殺す」「追放じゃ」等と言われ、大変な目に遭った。同被告人との間では、他にもいろいろなことがあり、同被告人に対しては、邪気ばかり回されるので、いい感情は持っていなかった。

④ また、取調官から、被告人甲の関与を認めなければ自分の刑が重くなると言われた。「乙ばかりかばえばお前が太なるぞ」と言われて馬鹿らしい気にもなったし、また、しょっちゅう、「舎弟三人で責任をとるのか。総長ば出さんと、三人の刑が重なるぞ」「総長を引っ張り込まなければ、乙が二〇年、丙が一八、九年、お前が一年か二年少ないぐらいだろう」「総長を上に持ってきたら、お前たちの分が二、三年なり四、五年なり軽くなるし、情状もよくなる」等と、朝から晩まで言われるので、そういう気になってしまった。

そして、被告人丁の三月一五日付員面調書の録取過程で、右供述内容にみられるような取調べ方法が用いられたことや、同被告人と被告人甲との間で従前右のような経緯があったことを否定するに足る証拠はなく、また、それらの各事実が被告人丁にもたらす心理的効果については、先に同丙について前記(3)ウに述べたのとほぼ同様の評価が可能である。

(5) 検察官による取調べの効果

これまでに検討したところから、黒原病院事件に関する被告人甲の指示の認定に供しうる被告人丙及び同丁の各検面調書に先立って録取された、それらと内容的に符合する各員面調書には、その成立過程に、いずれも、重大な疑義が残ることを否めない。

そして、これに対応する検察官の取調べについては、それが、任意性を回復する限度の効果を持ちえたことは、決定書のそれぞれの箇所に記載のとおりであるが、それ以上に、被告人丙の取調官であるW2検事や、同丁の取調官であるW4検事が、当初の暴行の点以外に警察段階で用いられた取調べ方法に見られる前記の不当性を認識しつつ、その悪影響を除去しようと試みたまでの形跡はなく、したがってまた、検察官の取調べに、被告人丙や同丁に警察官の取調べの過程で植え付けられた、同甲に対する反感や、同被告人との関係で自己の刑事責任を相対的に軽からしめようという思惑等、その供述の信用性を害する諸要因を完全に除去し、被告人丙又は同丁をして、改めて自己の記憶に従った、証拠価値の高い供述をせしめるほどの効果を期待することまでは、望みえなかったと解するほかない。

(6) 結論

以上に検討した次第で、被告人丙及び同丁の前記各検面調書には、看過し難い重大な疑問点が存在し、これらの供述調書に、前記(1)のとおり、確認電話の時刻及びチェック表の記載から自然に解釈すればその蓋然性が高いところの、密告電話の際には既に同甲が本部事務所にいなかったという事実を排斥し、蓋然性が低く、同被告人に不利な反対事実を真実として認めるに足るほどの、論理的に考えられる最高度に近い信用性があるとは、到底評価し難く、かような供述に依拠して、密告電話の際に被告人甲が大広間にいた事実、ましてや、同被告人が黒原病院に入院中のH組み関係の殺害を指示した事実を、合理的疑いを超えて認めることができるとの評価をすることはできないというほかない。

(四) 被告人の公判供述について

なお、被告人丁は、本件、総長事件及び舎弟事件の各公判廷でも、密告電話の際に自己が大広間にいたとして、その際の被告人乙や同丙の言動に関する供述をしており、これによれば、密告電話の時点では、同甲もまた、少なくとも本部事務所内にいたことにならざるをえない。

しかし、真に被告人丁が密告電話の状況を現認していたか否かは、かなり疑わしいというべきである。

すなわち、被告人丁の、一回目及び二回目を含めた密告電話についての捜査段階における供述状況をみるに、同被告人がその状況について供述した初期の調書である、二月一三日付員面調書及び同月一九日付検面調書(総長事件<書証番号略>・舎弟事件<書証番号略>)では、同被告人が、二回にわたる密告電話のいずれもの場面を現認していたか否かは、必ずしも釈然としない記載になっている。そして、同被告人の供述調書に、一回目の密告電話の場面と二回目の密告電話の場面とを明確に区別した上、それらのいずれの場面をも現認していた旨の記載がなされるのは、それらの各密告電話の両方に応対したことが明らかな被告人丙が、二月二一日付員面調書で、そのそれぞれの際の状況を述べるに至った後に録取された、同月二三日付員面調書の段階からであり、また、右員面調書及びその後の被告人丁の各供述調書には、同被告人が、二回の密告電話の際の状況をいずれも現認していた旨の記憶を呼び起こした契機等についての記載は特に見られない。

したがって、右二月二三日付員面調書以後の、二回目の密告電話の際に自己も大広間にいたという被告人丁の供述は、同被告人が、黒原病院事件以後、逮捕されるまでの間に、同丙や同乙から事後的に聞いた事実を、あたかも自己が現実に体験した事実と混同していた結果である可能性や、右の記憶の混同という状況のもとで、更に捜査官から同丙の供述を示して追及された結果である可能性を否定することができないというべきである。

そして、被告人丁が、右二月二三日付員面調書の録取以後の取調べで、一貫して、二回目の密告電話の際に同被告人自身が大広間にいたことを当然の前提とする追及を受け続けたために、自己が現に体験した事実と、事後的に他の被告人から聞いた事実や捜査段階で追及された事実とをますます混同して、二回目の密告電話の状況を現認していたかのような錯覚に深く陥り、その結果、その旨の供述を公判段階でも維持していた疑いがかなり濃厚であると評価できる。

更に、被告人丁の前記公判供述の内容自体、関係証拠に照らして確認電話の際には既に大広間にいなかったと認めるほかない同被告人が、確認電話の後で行なわれたことが明らかな名刺探しの場面(確認電話と名刺探しとの前後関係については、前記(三)(1)イのとおり)を目撃していることになっており、その点からも、前記のような、現実の体験と事後的な知識との混同の可能性を窺うことができる。

よって、密告電話及びその直後の状況に関する被告人丁の公判供述には、それほど高度の信用性を置くことができない。

(五) 小括

以上の次第で、検察官の主張する、密告電話の直後に被告人甲が他の被告人らに黒原病院に入院中の「鈴木」の殺害を指示した事実を認めことはできないというべきである。

(六)  検察官の指摘する被告人甲の正犯意思を表わす他の事実について

なお、検察官は、密告電話の直後の被告人甲の指示の事実のほか、

① 一二月一七日の夜、被告人甲が本部事務所から久留米に出発する際、見送りに来た同乙に対し、「何ばもたもたしとっとか。早うせんなら、人の中に入ったらもう喧嘩はできんぞ。ばたばた殺(や)らせなっせ」と指示し、

② 更に、久留米に向かう車の中で、同丁に、「鈴木のこつはどがんなっとっとかいた」等と尋ねた

各真実があるとし、右事実をもって、同甲の黒原病院事件に対する正犯意思の徴表であると位置づけている。

しかし、右の各事実は、いずれも、被告人丁の検面調書にのみ現われる事実であり、これを裏付ける何らの証拠もなく、既に各箇所で検討したとおり、同被告人の供述調書には、一般的に重大な疑問があることに鑑みて、右検面調書のみに依拠して右各事実を断定すること自体が躊躇されるほか、右①の事実については、右外出の際に被告人甲が自動車に乗った位置や組員の見送りの状況について前記(三)(1)エbに述べたところ等に照らしても容易に首肯し難く、また、②の事実についても、そもそも、密告電話の時点及びその直後に被告人甲が大広間にいた事実について重大な疑問が残るのであって、そうである以上、同被告人が「鈴木」についての情報に接していた事実自体の存在を認め難く、そのような同被告人が被告人丁に対して右のような問い掛けをしたとは、にわかに措信し難い。

(七) 結論

以上の次第で、黒原病院事件に関する被告人甲の正犯性ないし共謀の事実については、その証明がないというほかなく、同被告人は、同事件について無罪である。

2 被告人乙の罪責

(一) 密告電話の直後の共謀の成否

(1) 検査官は、「密告電話の直後に、被告人甲が、同乙、同丙及び同丁に対し、黒原病院に入院中の『鈴木』の殺害を指示し、右三名もそれぞれその旨決意して、同乙を含む四名の間に『鈴木』殺害に関する共謀が成立した」旨主張する。

(2) しかし、右事実の認定に供すべき積極的証拠は、前記1(二)に挙示した被告人丙の三月一七日付、及び同丁の同月一六日付各検面調書のみであり、これらの各調書の記載内容のうち、被告人甲の言動に関する部分がその信用性に乏しいことは、既に前記1(三)に述べたとおりであり、ことに、被告人丁の右検面調書については、同被告人が、密告電話の際、大広間にいなかった可能性がある以上、右検面調書は、被告人甲のみならず、他の被告人に関する右の局面の言動の認定についてもほとんど証拠価値がないというほかない。

したがって、他に密告電話の直後の局面での被告人乙ないし同丙の共謀の事実の認定に用いるべき証拠は、同丙の前記検面調書の当該記載箇所のうち、同甲の言動に関する部分を除いたその余の部分のみであるが、右証拠のみで同乙ないし同丙について、黒原病院事件に関する共謀を認定しえないことは、右調書の文面上明らかである。

(3) 次に、右の局面に引き続いて、被告人乙の指示により、同丙によって黒原病院に対する確認電話がなされた事実、及び、その際、同病院に入院している「鈴木」の名前が「勝則」であることがわかり、名前が違うことが話題になって、同乙が、「鈴木建治」の名刺を探した事実の存在は、いずれも明らかである。

右は、当時の抗争の進展状況に照らし、いずれも、殺害の標的たるべきH組幹部の「鈴木」と、黒原病院に入院中の「鈴木」との同一性を確認するための行為であると認められ、したがって、何らかの意味で、H組幹部の「鈴木」の殺害を念頭に置いた行為であったと評価できるものの、これをもって、直ちに、黒原病院に入院中の鈴木勝則を殺害する意思の徴表とまで認めることはできない。

したがって、右段階で、被告人乙が鈴木勝則殺害の犯意を形成しており、同丙との間でその旨の共謀を遂げたものとまでは認め難い。

(二) 黒原病院事件前日深夜の状況

次に、黒原病院事件前日である一二月一七日深夜、又は同月一八日午前〇時過ぎころの状況に関して、以下に述べるとおり、被告人乙が、E4に対し、黒原病院に入院中の「鈴木」らしい人物がH組関係者か否かを確かめるための手段として、同人の病室への潜入方法を教示していた事実を認めることができる。

(1) この点に関し、被告人丙及び同丁は、捜査段階ではもとより、公判段階でも、一貫してこれを認める供述をしている。

すなわち、被告人丙の、総長事件、舎弟事件及びE10事件の各公判廷における供述を総合すると、その要旨は、「同月一八日午前〇時過ぎころ、私が大広間に上って行くと、被告人乙が電話をしており、見舞籠のどうこうと言っていた。そして、同被告人は、私に、『丙、果物屋はどこかい。今ごろ開いとるや』と聞いたので、私は、『こがん時間はもう開いとらんばい。開いとんならば、飲み屋の酔っ払い相手の果物屋は、新市街の銀座通りの角の方にあるけど、もうなかばいな』と答えた」

というものであり、また、同丁の総長事件及び舎弟事件の公判廷における供述の要旨は、

「同日午前〇時過ぎころ、私が大広間に上っていくと、被告人乙が電話をしており、『訪ねに行くとに、果物籠を買うてHの弟の名前で持って行くとよかじゃないか』等と話し、また、よく確かめろということを言っていた。そして、同被告人は、私たちに、『果物屋はどこに開いとるかね』と聞いたり、私に、『Hの弟は、名前は何だったかい』と聞いたりし、私は、Hの弟の名前について、『國昭じゃなかったですか』と答えた」

というものである。

(2) もとより、相被告人の暴力団組織における上位者に不利な公判供述といえども、真実に合致するとは限らず、ことに、被告人丁の公判供述には、前記1(四)のとおり、同じ黒原病院事件の経緯に関し、同じ一二月一七日夜の状況について、その重要部分について虚偽である可能性の高い内容が見られることに照らせば、その信用性の吟味には、最高度の慎重さをもって臨まなければならないことは当然である。

しかし、被告人丙、同丁のいずれについても、右に摘示した限度の事実については、捜査段階でも、当初から自発的にこれを認めており、右の限度の事実に関する限り、捜査段階で供述の強制ないし誘導を受けた事実がないことは、当該取調べ状況に関する同丙や同丁の公判供述に照らしても明白である。したがって、密告電話の局面に関する事実等と異なり、捜査段階での取調官の執拗な追及、誘導によって、自己の体験しない事実をあたかもこれを経験したかのように思い込み、その意識を公判段階においても持続しているという関係は認められない。

また、被告人丙や同丁が、公判廷で最終的に前記供述をした時点では、同乙に対する反感に起因してあえて同被告人に不利な虚偽の事実を述べる態度に出たことを窺わせる証拠も皆無である。

よって、右(1)に摘示した以上の事実の存否については別論、少なくとも、右摘示の限度の事実があったことに関しては、被告人丙及び同丁の公判供述は、十分信用するに足り、したがって、同乙が、一二月一七日深夜又は同月一八日午前〇時過ぎころに、電話でその相手方と前記のような会話をしていたことは優に認めることができる。

(3) 一方、次のとおり、右電話の相手方はE4であったこと、並びに、その際、被告人乙とE4との間で、黒原病院にH組幹部の「鈴木」が入院していた場合には、これを殺害すべく、その事実の確認をすべきことが話し合われたこと、及び、前記(1)記載の果物籠の持参やHの弟の名前を用いることが、右確認のために黒原病院の「鈴木」の病室に潜入する手段であったことを優に認めることができる。

すなわち、E4は、二月一六日付検面調書で、明確に、そのころ、被告人乙との間で電話でその趣旨の会話をした事実を認める供述をしているほか、E10事件の公判廷でも、

「一二月一七日午後一一時過ぎころ、E2とE10が○○ビルに帰ってきて、黒原病院に『鈴木』が入院していることを聞き、その後、○○ビルから、そのことを本部事務所に電話で報告をした。その電話で、私は、『鈴木本人、建治に間違いないか』と聞いたところ、電話の相手は、『情報が入っている。恐らく間違いないだろう』というような話をした。その後、その電話では、果物籠の話が出、また、Hの弟か何かの名前を使うという話が出て、その名前で、黒原病院に果物籠を持って行く恰好にしようという話になった」

旨述べている。

まず、右のE4の公判供述にかかる時間帯は、前記の被告人丙及び同丁の公判供述により認められるところの、同乙が電話で話をしていた時間帯に符合し、その時間帯に、本部事務所にいた他の舎弟その他の者が、E4と電話で会話をした事実を窺わせる証拠は全くないばかりか、会話の内容も、被告人丙及び同丁が現認した内容と大筋において一致していることに照らせば、同乙が電話で話していた相手がE4であったことに疑いの余地はない。

更に、「Hの弟の名前で、果物籠を持って行く」ということの意味について、弁護人は、「もし、被告人乙がE4と見舞籠を持参して病院に潜入する方法を打ち合わせていたと仮定しても、その病院潜入は、黒原病院に入院している『鈴木勝則』なる人物の確認であったはずであり、同電話が即殺害の指示であったとは、他の証拠からみても、到底考えられない」と主張する。しかし、E4は、E10事件の公判廷で、「果物籠の話は、要するに、やる時に見舞いの恰好をして行くので、籠でも持って行くかという話だった。それは、『鈴木』本人がいればやるということである」と明言しており、右の「やる」という言葉が、殺害行為を意味することも経験則上明らかであって、右電話における会話が、黒原病院に入院している「鈴木」がH組幹部であることが判明した場合にはそれを殺害する意図に基づくものであったことは明らかである。

(4)  したがって、右の電話の際に、被告人乙とE4との間に、黒原病院に入院中の「鈴木」について前記の確認ができれば同人を殺害するという、いわば条件付きの意思の連絡が成立したことには、疑いの余地がないというべきである。

しかし、右認定が可能であるとしても、黒原病院事件の実行に際しては、E4並びに実行者たるE10及びE11は、その時点で黒原病院三一一号室に滞在中の人物が、「鈴木」ではないことを十分認識しつつ、「鈴木」に対する殺意とは別個に、新たに右人物であるUに対する殺意を形成し、これに基づいてE10及びE11が実行行為を完遂したことが明らかであるから、「鈴木」の殺害について意思の連絡が認められることをもって、直ちに、黒原病院事件の結果に対して正犯としての罪責を負わせることはできないと考えられ、また、右に認定しうる被告人乙とE4との間での「鈴木」の殺意の共謀は、あくまで「鈴木」すなわち鈴木勝則という特定の人物を殺害する旨の共謀であったと解するのが自然であって、これを、「鈴木」を含むH組関係者一般を殺害する旨の共謀であると捉えることには無理がある。

よって、被告人乙に、黒原病院事件の正犯の罪責が認められるか否かを決するについては、同被告人に、同事件の実行行為の際に現実に黒原病院三一一号室に滞在していた、「鈴木」の配下組員と思われた人物たるPに対する自己固有の殺意、及び同人殺害についてのE4ないしE10・E11との共謀の成立が認められる否かを、更に検討する必要がある。

(三) 黒原病院事件当日の同事件発生前の状況

右(二)までに検討したところに、黒原病院事件の経緯について争いのない事実を加味すれば、結局、被告人乙に、同事件に関して固有の犯意及び共謀の事実が認められか否かは、一二月一八日の同事件発生の直前に、同被告人が、E4に対し、黒原病院に滞在中の、「鈴木」の配下の組員と思われる人物、すなわちUを殺害すべき旨を指示した事実が認められるか否かの点にかかるので、以下にこの点を検討する。

(1) 被告人乙及びその弁護人の主張等

被告人乙は、公判段階で、一二月一八日の黒原病院事件発生前にE4と電話で会話をした事実自体を否認しており、同被告人の弁護人もまた、罪となるべき事実第一・三の「犯行に至る経緯」に摘示した、同日のE10から本部事務所に対する電話以後、同被告人がE4と電話で話すに至るはでの状況に関し、その認定に資するかのような捜査段階の供述調書には、信用性に重大な疑義があるばかりか、公判廷での供述も互いに錯綜しており、当該時点ころ、同被告人がE4と電話で会話をした事実自体が認められないと主張する。

確かに、後記(5)のとおり、一二月一八日の黒原病院事件発生前における被告人乙とE4との電話での会話の状況についての事実認定に供しうる、同丙及び同丁の捜査段階での各検面調書には高度の信用性を置き難く、また、その余証拠が、公判廷での供述まで含めて、必ずしも整合していないことも、弁護人の主張するとおりである。

そこで、以下、順次検討する。

(2) 一二月八日の午前中の関係者間の架電状況(架電事実の有無及びその時間的経緯等)

ア 事実経過の概要

まず、前記のとおり必ずしも高度の信用性を認め難い被告人丙及び同丁の捜査段階での関係各供述調書を一応措くとしても、他の各証拠を有機的・総合的に評価すれば、一二月一八日の黒原病院事件発生前における関係者間の架電の外形的状況に関して、次のような事実経過を、十分認めることができる。

①  E10が、黒原病院の鈴木勝則の病室に赴いたところ、同人は不在であり、その配下の組員と思われる人物(U)がいたため、E4に、その人物を殺害すべきか否かについての指示を求めるべく、黒原病院付近で公衆電話を捜した上、その公衆電話から○○ビルに架電したが、電話が通じず、E4と連絡をとることができなかった。

②  そこで、E10は、同じ公衆電話から、続いて本部事務所に電話をした。

③  右電話には、被告人Tが出て、E10が、同被告人に、黒原病院での状況を述べた後、「どがんしますかね」と言ったところ、同被告人は、「俺にそげんこつ言うてわかるもんか。E4に言わなんたい」等と述べて電話を切った。

④  被告人丁は、右E10からの電話の直後E4のポケットベルを打った。

⑤  当時、E4は、○○ビル付近の弁当屋にいたが、ポケットベルが鳴ったため、直ちに、近くの公衆電話から、本部事務所に電話をした。

⑥  右電話には、被告人Tが出、同被告人がE4に、E10から電話があった旨を告げた上、同人と連絡がとれるようにするよう申し向けた。

⑦ E10は、右③の電話での後、五ないし一〇分ほどして、再び、E4と連絡をとるべく、前記①公衆電話から○○ビルに電話をした。

⑧  右電話は、E4が⑥の電話での被告人丁の指示に従って○○ビル五〇一号室に戻った直後にあり、E4がこれに出た。

⑨  その電話で、E10がE4に、黒原病院での状況を述べた後、「鈴木」の配下の組員らしいUを殺害すべきか否かの指揮伺いをしたところ、E4は、本部事務所の幹部組員の意向を確かめてから指示しようと考え、E10に対し、「一〇分ほどしてまた電話をしろ」等と述べて電話を切った。

⑩  その直後、E4は、本部事務所に電話をした。

イ 右認定の根拠

弁護人は、右アのうち、⑥のE4と被告人丁との電話でのやり取りの内容及びそれがE4にもたらした認識を指摘し、これに依拠して、E4の方から再び本部事務所に電話をするという事態はありえない旨縷々述べている。

E4が再度本部事務所に電話を入れた事実については、E4自身が捜査段階・公判段階を通じて一貫してこれを認めているところであり、右供述に特に信用性を害すべき事情は見出しえないが、弁護人の右主張に鑑み、更に慎重を期す意味で、右のようなE4の行動には何ら不自然な点がないことについて、時の経過に従って順次判断する。

なお、これらの経過は、被告人丁の罪責を判断する上でも重要であるから、同被告人の関与形態についても、便宜上、ここに検討しておくこととする。

a まず、右①ないし③の各事実については、被告人乙、同丁やそれらの弁護人も特に争うものではなく、証拠上も疑いの余地はない。

b 次に、右④の被告人丁がE4のポケットベルを打った事実については、同被告人は、公判廷ではこれを否定する。

しかし、E4は、捜査段階ではもとより、公判段階でも、上熊本事件及びE10事件の各公判廷で、いずれも、「ポケットベルが鳴ったので本部事務所に電話をした」旨を一貫して述べており、その内容は「一二月一八日午前一〇時ころ、熊本電鉄堀川駅でE10及びE11と会って、E10にけん銃を渡し、午前一〇時半ころ、E2とともに○○ビルに帰った。そして、○○ビルの近くでE2が弁当を買っている時、ポケットベルが鳴ったので、公衆電話から本部事務所に電話をした」というもので、その供述内容に、記憶違いを窺わせるような不自然な点はなく、その時刻も被告人丁がE10からの電話の直後にE4のポケットベルを打ったと仮定した場合の時刻と完全に整合する。

また、E4が、E10から、「黒原病院には『鈴木』本人はおらず、その配下の組員らしい男がいる」旨の報告を受けたのは、E4が一旦本部事務所に電話をした後であることも、E4の捜査段階及び公判廷での一貫した供述により、疑う余地がないのであり、視点を変えれば、E4が、一度目に本部事務所に電話を入れた時点では、ポケットベルによる呼び出し等がないのに同人の側から自発的に本部事務所に電話をかける必要性は全くないのであって、その点でも、同人が本部事務所に電話を入れたのは、自発的に何らかの報告を行なうためではなく、ポケットベルによる呼び出しに呼応した結果であると認められる。

更に、

被告人丁は、E10からの電話を切ってからE4からの電話があるまでの時間的間隔について、公判廷で、「二ないし三分」あるいは「三ないし四分」と述べて降り、右時間的関係は、E10からの電話の直後に誰かがE4のポケットベルを打ち、それに応じてE4が本部事務所に電話をしたと想定した場合の時間的関係と符合すること

あるいは

被告人丁が、E4からの電話の際の会話の内容として捜査段階及び公判段階を通じて述べるところと、E4が、ポケットベルに応じて本部に電話をした際の会話の内容として、同じく捜査段階及び公判段階を通じて一貫して述べるところを対比すれば、少なくとも、その電話の際に、本部事務所にいる舎弟クラスの組員から、E4に対して、「直前にE10から電話があった」旨が申し向けられた点では供述が一致していること

等に照らせば、E4がポケットベルに呼応して本部事務所に入れた電話と、被告人丁がE10の電話の後にE4から受けた電話とが同一であることは明白である。

以上の事実に、被告人丁がE10からの電話の後、E4からの電話までの間、ずっと大広間の電話口の位置にいたことが同被告人自身の捜査段階及び公判段階の各供述によって明らかであること、更には、その数分の時間内に同被告人以外の者がE4のポケットベルを打った事実を窺わせる証拠が全くないこと等を総合すれば、同被告人がE4のポケットベルを打ち、同人がこれに応じて本部事務所に電話をして、同被告人と会話をしたことは、疑いの余地がないというべきである。

c 次に、右電話の際の会話の内容については、被告人丁がE4に対し、E10から黒原病院の状況に関する電話が入った旨を伝えたことが認められる。

なお、被告人丁は、右電話の際の状況について、舎弟事件の公判廷で、「E4が、『病院に行ったばってん、本人はおらんと言いよるですよ。若か者のごたるかわからんと言いよるですね』と言った」と述べて、E4の方から黒原病院の状況についての話題が出たかのような供述をするが、E4は、捜査段階、公判段階を通じ、右のようなやり取りがあったことを一言も述べておらず、「被告人丁から、その直前にE10から電話があったことを告げられた」旨一貫して述べているのであって、この点は、次に述べるとおりも、E4から被告人丁に対する電話と、E10からE4に対する電話との先後関係に照らして、E4の右供述内容が真実であり、被告人丁のそれは、同被告人の記憶違いによるものであると解される。

すなわち、被告人丁に対する電話をし、かつ、○○ビルでE10からの電話を受けた当事者であるE4は、右両者の前後関係について、一貫して、「ポケットベルを受けて本部事務所に電話をした直後、E10から電話があった」旨述べており、一方、E10は、E10事件の公判廷で、本部事務所への電話から、E4への電話までに五ないし一〇分の間隔があった旨述べており、右供述は、その両方の電話の当事者であるE10自身の記憶に基づくものとして、おおむね信用するに足る。よって、E4がE10から黒原病院三一一号室の状況を治らされたのは、E4と被告人丁との電話より後であることが明らかであり、E4としては、同被告人との会話の際には、そのような情報に接しておらず、したがってまた、その電話の際に、E4の方から同被告人に対し、Uの殺害を決行すべきか否かの窺いを立てるべく、黒原病院の状況を説明する行為に出ることも考えられない。

よって、E4と被告人丁との電話の内容は、同被告人がE4に対し、その直前にE10から電話があったことを伝え、併せて、E10が連絡をとれる場所にいるように指示したにとどまり、同被告人がE4から黒原病院の状況を告げられたり、Uを殺害すべきか否かの伺いを立てられたりした事実はないと認められる。

一方、E4は、捜査段階並びにE6事件及びE10事件の公判廷で、「右電話の際に、被告人丁に対し、E10に連絡をとって、自己のもとに電話をするように申し伝えてくれるように頼んだ。その後、○○ビルに帰った直後に、E10から、頼んであった電話が入った」旨述べている。しかし、被告人丁の捜査段階又は公判段階の供述に、右のような事実が全く現われていないこと、同被告人が自己の側から黒原病院付近にいるE10と連絡をとる方法を知っていた事実を窺わせる証拠もないこと、また、E10のE10事件の公判廷での供述によるも、同人が、自らの本部事務所に対する電話の後、同被告人から改めてE4に電話をするようにとの指示を受け、これに応じてE4に電話をした事実を窺うことができないこと等に照らせば、E4が右電話の際に同被告人に対して右のような依頼をした事実があったとは解し難く、E10がその後E4にした電話も、右依頼に基づく同被告人からの指示に呼応したものではなく、むしろ、E10自身が時間を見計らって自発的に○○ビルに電話を入れたものと認めるが相当である。

以上の点に、被告人丁が、右電話の会話内容に関して、捜査段階で特に強制ないし誘導を受けた事実を窺うことができないことをも併せ考慮すれば、右電話の際の会話の内容は、被告人丁の三月六日付及び前記同月一六日付各検面調書にみられる、「E4から電話があったので、同人に、『E10から電話があった。おるとか、おらんとか、俺に言うてもわかるか。E10に連絡のとれるごつしとけ。こっちさ、いろんな電話ばさすな』と言った」という内容が、ほぼ真実に近く、同被告人からそのように告げられたE4が、○○ビルに帰った直後に、E10が同被告人との電話の後、更に時間を見計らって自発的に○○ビルに入れた電話を受けた、という事実関係があると認めるべきである。

d 次に、E4が○○ビルに帰った後の状況についてみるに、まず、E4がE10からの電話で、同人から、黒原病院には「鈴木」本人は不在で、その配下組員らしい男がいる旨を知らされるとともに、その人物を殺害すべきか否かの指揮伺いを受け、自己のみではその決断がつきかねて、E10に対し、しばらくしてからまた電話をするように指示した事実が認められる。右の点については、E4は、捜査段階・公判段階を通じて一貫してその旨述べており、右供述内容は、E10の公判供述とも一致し、何ら疑いの余地はない。

e そして、E4の捜査段階及び公判段階の各供述によれば、E4が、右E10からの電話を切った直後、E4が、前記「鈴木」の配下組員らしい男を殺害すべきか否かについて、舎弟クラスの幹部の意思を確認するために、本部事務所に架電した事実を認めることができる。

右の点については、E4は、E10からの電話の直後に本部事務所に電話を入れた事実自体については、一貫してこれを認める供述をしており、右供述内容については、捜査段階においても特に強制・誘導を受けた事実を窺うことはできず、したがってまた、捜査段階に介在した強制・誘導等の不当な取調べ方法の影響によってE4が自己暗示に陥った結果、当該内容の供述を公判廷でも維持しているものとは到底解し難く、右時点で本部事務所に電話をした旨の同人の供述は、十分信用することができる。

そして、その目的は、後記のとおり、黒原病院三一一号室に滞在中の「鈴木」の配下組員らしい人物を殺害すべきか否かについて、本部事務所の幹部組員の意向を打診するためであったと認められる。

f この点、弁護人は、そのころ、E4が本部に電話を入れた事実はありえない旨主張し、「ほんの今しがた、E4は、被告人丁から、『本部にいちいち電話させるな』と言われたばかりなのに、もし、E4が、E10からの電話の内容を報告し、襲撃の可否の判断を仰ぐための電話を本部にかけ、その時も同被告人が受話器を取ったとすれば(僅か前の本部事務所との電話の主が同被告人がったのだから、本部事務所に電話を入れれば、同被告人が電話に出る可能性が一番高い。)、同被告人は、『人を馬鹿にしている』とカンカンに怒り出すであろう。そのような愚かなことを、E4がするはずがない」と述べる。

しかし、前示のとおり、E4は、被告人丁との電話の際には、いまだ黒原病院の三一一号室の状況を認識しておらず、E4がそれを認識するに至ったのは、その直後にE10から電話を受けた際のことであり、E4を巡る状況は、右E10からの電話により根本的な変化を生じたと見るべきである。そして、被告人丁との電話より後に、そのような極めて重要な状況の変化が生じ、その時初めて、殺害の実行者となるべきE10の直接の指揮者として、「鈴木」の配下組員らしい人物の殺害を決行すべきか否かという局面に立ち至ったE4が、ことの重大さに鑑み、自己のみの判断で襲撃の可否を決しかねて、改めて本部事務所と連絡をとろうと考えることは、何ら不自然をことではない。

弁護人は、右電話に被告人丁が出た場合、強度に叱責されることは当然予想できることであって、E4としてそのような愚かな行動をとるはずがないと主張する。

確かに、被告人丁が、E10からの電話の際に、同人に対し、「いちいちこっちに電話するな」等と述べ、更に、その直後のE4との電話の際、同人に対し、「(E10に)いちいち電話させるな」等と述べて、いずれも、E10が本部事務所に電話をした行為を避難したことは、これを認めることができる。

しかし、被告人丁の捜査段階・公判段階の各供述や、それに現われた電話での会話内容によれば、同被告人が、右E10から及びE4からの各電話の際に述べた言葉は、いずれも、本来その直接の上位者であるE4の指示に従って行動すべきE10が、そのE4を飛び越して、いきなり本部事務所の自己のもとに、しかも、自己が殺人事件の共謀関係に巻き込まれかねないような内容の電話を入れてきたことに対する不快の念に起因するものであることが明らかである。この点に照らせば、被告人丁がE4に命じたのは、平組員に過ぎないE10が自己にとって危険な内容の電話を直接自己のもとに入れないようにとの指示にとどまるものであって、E4から本部事務所に対する爾後の電話まで一切禁じる趣旨に出たものでないことは明らかである。右事実は、被告人丁の供述が、一貫して、E10に申し渡した内容に関しては、「こっちに電話『するな』」というものであるのに対し、E4に申し渡した内容に関しては、「こっちに電話『させるな』」となっていることからも推認できるところである。

また、被告人丁が、E4との電話に際し、下位の組員から抗争に関係する電話を受けることを一般的に迷惑に感じる心境を有していたことは窺えるものの、E4側の心境としては、E4が、その際の同被告人の「こっちに電話させるな」という言葉を、E4自身が本部に電話を入れる行為まで禁じる趣旨のものだと解釈したことを示すような証拠は全くない。すなわち、E4は、捜査・公判の各段階を通じて、「右電話の際に、被告人丁から、E10から電話があったことを避難された」旨の供述は一言もしておらず、まして、自己が本部に電話をすることを禁じるような言葉を申し向けられた等とは全く述べていないのであって、右供述状況に鑑みれば、右電話の際に、同被告人がE4に対して、「(E10に)いちいちこっちに電話させるな」等と述べた事実自体は認められるとしても、E4の意識としては、その言葉はほとんど印象に残るに値しないものであったと解することができ、少なくとも、E4が、その言葉によって、同被告人が、下位組員から本部事務所に対する抗争事件関係の電話一切を封じたい旨の強い意思を有しており、E4自身が同所に電話をすることをも禁じようとしているとまで解釈しなかったことは明らかである。

よって、E4が、自己が再び本部事務所に電話を入れた場合の被告人丁の憤慨を恐れて架電をためらうという関係はそもそも生じないと認められ、弁護人の前記主張は採用できない。

以上の次第で、E4が、E10から電話を受けた直後に、本部事務所に電話を入れた事実について、疑いを差し挟む余地は全くないというべきである。

(3) E4の前記(2)イ⑩の電話の目的

次に、E4が本部事務所に対して前記(2)イ⑩の電話をした目的については、E4が、同⑦ないし⑨のE10からの電話の際、同人に対し、しばらくしてから再度自己に電話をするように申し向けた外形的行為自体から見て、E4としては、黒原病院に滞在中の「鈴木」の配下組員らしい人物を殺害すべきか否かについて、再びE10から電話があるまでに本部事務所の幹部組員の意向を打診しようと考えたとみるのが自然であり、また、E4の供述状況をみても、E4は、捜査段階では、明確に右事実を認めているほか、E6事件の公判廷でも、「本部に電話をしたのは、『鈴木』本人がいないからどうするかを聞くためだった」と述べ、更に、E10事件の公判廷でも、「自分でどうしたらいいかわからなかった」と述べているのであって、右供述状況自体に照らしても、E4の右電話の目的が、右の意向打診の趣旨に出たものであったことは明白である。

まだ、前述のとおり、E4が、E10からの前記報告及び指揮伺いを受けて、「鈴木」の配下組員の殺害を決行すべきか否かという極めて重大な局面に立ち至り、自己のみの判断で襲撃の可否を決しかねて、改めて幹部組員の意向を打診しようと考えることは、それ自体何ら不自然なことではないこと、更には、E4が、E10から一回目に電話を受けた後、同人からの二回目の電話までに、自分のみで思案を巡らせた結果、右配下組員を殺害する意思を固めたことを窺わせるような証拠も全く存在しないこと等を総合して考慮しても、E4の右電話がいわゆる指揮伺いの目的に出たものであったことに疑いの余地はない。

(4) E4の電話の相手方

ア まず、右電話の際、E4に応対したのが本部事務所にいた舎弟クラスの幹部組員であり、かつ、その組員が、少なくとも、E4による意向打診に対し、直ちに、同人の判断で黒原病院に滞在中の「鈴木」の配下組員を殺害してもよい旨の指示ないし許容をしたことが、E4の本件、E10事件及びE6事件の各公判廷での一貫した供述によって明白であるところ、当該時点で、E4に対して、そのような指示ないし許容の返答をしうる状況にあった舎弟クラスの組員は、被告人乙をおいて他にないことがほぼ明らかてあるというべきである。

すなわち、被告人丁については、前記のE10との電話の際の応対の態様を含め、同被告人の罪責について後記4(四)に述べるとおりの、抗争との関わりを極力避けようとする消極的姿勢に照らして、E4に対してそのような積極的な指示ないし許容の行為に出るとはおよそ考え難い。また、被告人丙についても、右E4からの電話の時点までに、同人からの意向打診に即応して直ちに同人に右のような指示を出せるだけの情勢を認識していなかったと認めるのが相当である。また、それ以外の舎弟クラスの組員についても、本件抗争に表面上無関係であることを装っていたか、少なくとも、積極的にこれを遂行する姿勢を見せないように振舞っていたことが、関係各証拠から明らかであり、また、これらの者が、右E4からの電話の時点までに、同人からの意向打診に対応して直ちにPの殺害を指示ないし許容する返答をなしうるだけの状況を把握していたことを窺わせるような証拠もない。

したがって、E4に対し、前記のような対応をなしえたこと自体に照らしても、その主体が被告人乙であった蓋然性は極めて高いというべきである。

イ また、上熊本事件以前の段階から、補佐らからの連絡を受けていた舎弟クラスの組員が、ほとんど専ら被告人乙であったことは、そのころの補佐らの中心的存在であったE1の捜査段階及び公判段階の一貫した供述によって明らかであり、また、E1が、上熊本事件後に、同被告人と激しく口論をして、甲一家本部と一体となって抗争を遂行する意思を放棄し、E1にかわってE4が本部事務所との連絡に携わるようになってからも(なお、右事実は、E1のE6事件及び舎弟事件の公判供述等の関係各証拠により明らかである。)、その本部事務所側の接点は、やはり被告人乙であったと認められる。すなわち、E4は、一二月一四日ころに、本部事務所に電話をして、食事代を要求した際の状況について、「右電話の際の相手は、被告人乙だった。その時は、同被告人を名指しして呼んだ。同被告人を名指しした理由は、代貸は、私たちの上であり、責任者だからであり、金とか云々ではなく、私たちが何かを相談する時は、代貸を通じてする」と述べている。右の事実に鑑みれば、E4の認識としても、被告人乙は、舎弟クラスの組員の中でも、責任者的立場にある者として特筆に値する存在であり、重要事項の相談は、同被告人と行なうとの明確な意識を有していたことが明らかである。そして、そのようなE4が、抗争の一環としての殺人の遂行という極めて重大な局面に直面して、その是非を相談すべき相手は、やはり被告人乙をおいて他にないというべきであり、E4として、相談の相手は舎弟クラスなら誰でもよいという程度の認識であったとはおよそ考え難く、E4が、黒原病院事件当日の前記電話の際、被告人乙という特定の人物との相談を目的としていたことは明らかである。

ウ 更に、E4は、二月一七日付検面調書では、明確に、前記電話の相手方が被告人乙であったことを認めていたものである。

E4は、右調書の作成経緯に関し、右検面調書の録取に先立つ警察官の取調べ状況について、本件公判廷で、「前記電話の相手が被告人乙だということは、取調官であるX6刑事(熊本北警察署勤務司法警察員巡査部長X6の意・以下同じ。)から聞かされ、それに供述を合わせた。同刑事が、『被告人乙の調書があるぞ』と言って、それを読み聞かせた。私は、『そんな馬鹿なことはない。そがん言うなら弁護士を呼んでくれ』と言って、Y1弁護士を呼んでもらい、同弁護士に、『被告人乙と同丁が喋っているらしいが、一応確かめてくれんか』と言うと、同弁護士は、『調べてくる』と言って、すぐに帰った。その日には、連絡はなく、翌日、Y2弁護士が来たので、同弁護士にもその話をすると、『すぐ調べてくる』と言われた。そして、その返事が、二人とも喋っているということだったので、『じゃあ、自分が隠していてもしょうがないですね』と言って、X6刑事の言いなりに調書を合わせた」等と述べて、取調官から、被告人乙及び同丁の供述によって誘導された旨主張しており、E6事件及びE10事件の公判廷でも、同旨の供述をしている。

しかし、右検面調書が作成された時点ないしそれに先立ってE4がX6刑事から黒原病院事件の取調べを受けていた時点では、被告人乙は、同事件に関しては全く取調べを受けておらず、はた、同丁については、その取調官であるX3刑事に対し、黒原病院事件に関する自己の刑事責任の有無を案じて、同事件の経緯の概略を申し述べ、二月一三日付で同刑事作成の員面調書が録取されていることは認められるものの、右段階では、被告人丁も、前記の同乙とE4との電話での会話の具体的内容については、何ら供述するに至っていないのであって、少なくとも、被告人乙、同丁のいずれについても、右の一二月一八日の同乙とE4との会話の具体的内容について、供述の調書化がなされていないことは明らかである。この点に、右段階で、捜査機関の側が、舎弟クラスの組員のうち、特に被告人乙という特定の者を、E4の供述を介して黒原病院事件の上位指揮者に仕立て上げようとする理由も見出すことができないことをも併せ考えれば、被告人乙及び同丁の供述内容によって誘導された旨のE4の弁解が虚偽であることは明白である。

以上の諸点を総合すれば、E4による前記電話の相手方が、被告人乙であった事実は、優にこれを認めることができる。

(5) 右電話の際の会話の内容

ア そこで、右電話の内容について、その認定に資する捜査段階の供述調書は、被告人丙の三月一七日付(舎弟事件<書証番号略>)、同丁の同月六日付及び同月一六日付(<書証番号略>)、並びに、E4の二月一七日付の各検面調書である。

イ このうち、まず、被告人丙の右検面調書には、右調書録取当時、同被告人が、後記五2(二)(2)に述べるとおり、「□□」の件に起因する被告人乙に対する強度の反感・憎悪心を有していたことが強く窺われ、そのような状況で録取された同被告人に不利な供述には、その信用性に多大の疑念があるといわざるをえない。

なお、被告人丙は、二月二一日付及び同月二七日付各員面調書において、既に、前記検面調書の記載内容に符合する供述をしているが、これとても、同被告人が、その録取当時、既に「□□」の件に起因する同乙に対する反感を形成していた可能性が高いというべく、この時点から一貫して、黒原病院事件直前の被告人乙の指示の事実を肯定していることをもって、同丙の前記三月一七日付検面調書に信用性ありということはできない。

また、被告人丙は、総長事件及び舎弟事件の各公判廷では、いずれも、右事実を否定しているが、それに先立ち、E10事件の公判廷では、一旦、その第六回公判で、「黒原病院事件当日の昼前、大広間で、被告人乙が電話で、『うんうん、そればいけ』というようなことを言っているのを聞き、私は、その意味が、襲撃しろということだと、すぐにわかった」と、前記検面調書の記載内容に合致する供述をしている。しかし、被告人丙は、同事件でも、後日、第八回公判で、右事実を否定する証言に転じており、その間の第七回公判での証言によれば、第六回公判が開かれた昭和六二念七月二〇日に先立つ同月初旬ころ、X1刑事ほか二名の警察官が、同被告人の妻や父親に対し、同被告人が公判廷でも捜査段階の供述調書の内容のとおりに供述するようにとの申し入れをし、右第六回公判の前に同被告人が右事実を知ったことが窺われる(この事実を、虚偽であるとして排斥するに足る証拠はない。)。また、仮に、そのような事実はなかったとしても、そもそも、右第六回公判の時点では、「□□」の件に起因する被告人丙の同乙に対する憎悪心が、いまだ完全に払拭されていない可能性も否定できないのであって、そのような状況でなされた証言は十分な信用性を認め難く、自己の暴力団組織の上位者たる相被告人に不利な公判供述であることを考慮しても、直ちにこれを信用することはできない。

ウ 次に、被告人丁の三月六日付及び前記同月一六日付各検面調書については、既に再三指摘しているとおり、同被告人の捜査段階の供述調書には全般的に高度の信用性を置き難いほか、右各検面調書の当該部分についても、例えば、同月六日付検面調書には、被告人乙の方からE4に電話をした旨の、前示認定に反する明らかな虚偽記載があり、同月一六日付検面調書では、右の点は、「ちょうどE4から電話が入ったのか、被告人乙が電話をしたのか、その点は、記憶がはっきりしない」と、一応の取り繕いが施されているものの、一方、E4との電話の際の被告人乙の言葉については、同月六日付検面調書では、単に「うんうん、わかった」という記載であったものが、同月一六日付では、それに加えて「行け」と、明示的に襲撃を指示する文言が付け加えられており、これらの供述の変遷の理由も明らかでないことに鑑みると、直ちにこれを信用することはできないというべきである。

エ そこで、E4の二月一七日付検面調書及び同人の本件、E10事件及びE6事件の各公判廷における供述の信用性について検討するに、前示のとおり、E4が前記電話をかけた目的が、「鈴木」の配下組員らしい人物を殺害すべきか否かについて被告人乙の意向を打診することにあった以上、E4が、右電話の際、その目的に従い、同被告人に対して、E10から伝え聞いた黒原病院三一一号室における状況を説明し、前記人物を殺害すべきか否か判断を仰いだことは明らかであり、右事実は、E4の前記各公判廷での供述に依拠しても、十分これを認めることができる。

次に、被告人乙のこれに対する対応については、E4は、二月一七日付検面調書では、「同被告人が、『わかった。若い者に間違いなかか』と言うので、私が、『間違いなかと思います。やってよかですか』と聞いたところ、同被告人は、『お―お―』という言葉つきで、その若い者をやってもよいということを承知してくれた」旨述べており、右の「お―お―」という言葉は、特に積極的な指示の文言ではなく、単なる許容の文言であって、捜査機関が被告人乙の発言の態様を、殊更、正犯意思の認定に資する方向に誇張して捉えようとした事実を窺うことはできず、その信用性はかなり高いというべきである。

但し、被告人乙とE4との右電話での会話を目撃した旨の同丙及び同丁の各供述にはいずれも疑問が拭い切れないことは前示のとおりであり、また、同乙自身の捜査段階の各供述調書にさえ、E4に対して右のような具体的な言葉で殺害を許容した旨の記載は現われていないことに照らし、いまだ、被告人乙の発言の具体的な文言が「お―お―」というものであったと断定することには、多少の疑問を差し挟む余地があるとの評価も全く不可能ではない。

しかし、E4は、E10事件、上熊本事件、及び本件の公判廷を通じて、その時の電話の相手方が、前記人物を殺害すべきか否かについて、「お前に任せる」と述べて、これをE4の判断に委ねた旨、一貫して述べており、右電話の相手方と認められる被告人乙が、E4に対して右人物の殺害を許容する発言をしたこと自体には、疑いの余地がない。

そして、被告人乙が、右許容をするについて、E4が前記人物を殺害すべきか否かについて自己の意向を打診していることを十分認識していたことには疑いの余地がなく、したがってまた、被告人乙が、これに対する自己の対応が、E4が当該殺害行為に出るか否かについてのほぼ決定的な行動指針になることを認識していたことも明白である。そして、そのような認識のもとで、あえて、E4に対し、右人物の殺害を許容した以上、それは、絶対的命令ではないとしても、単に第三者による犯行を是認するという域を超えた、被告人乙固有の犯罪実現意思に基づく積極的対応であったと認めるべきであり、同被告人が、E4及びその配下組員と一心同体となって前記人物に対する自己固有の殺意を形成した上、実行者たるべきE10からの直接の報告によって黒原病院の状況を自己よりも的確に把握しているE4に、右人物殺害の最終的判断を委ねる行為であったと解するほかない。

(6) 小括

以上のとおり、被告人乙が、自己固有の殺意に基づき、E4に対し、「鈴木」の配下組員らしい人物の殺害をE4の最終的判断に委ねる旨を表明したことは疑いの余地がなく、また、E4が、同被告人の右の対応に従い、右人物の殺害を認識・許容する心境を固めたことも明らかであって、右段階で、同被告人とE4との間に、E4の最終的判断によって右人物を殺害する旨の共謀が成立したと認めることができる。

(四) 被告人乙のアリバイ主張について

なお、被告人乙は、黒原病院事件当日には、朝食後、午後二時から三時ころまで、事務所一階の当番部屋で博打をしており、その間、三階に上がったこともなく、電話を受けたこともない旨弁解しており、E15もまた、本件公判廷で、「被告人乙は、同日午前中、右当番部屋で博打をしており、その席を長く外したことはない」等と述べて、同被告人の右弁解に沿う証言をしている。

しかし、E15は、右の博打の状況を単に傍観していたに過ぎないばかりか、特に注視してその状況を観察していたわけでもないことが、同人の証言自体から明らかであって、右証言にさしたる信用性を置くことはできず、右(三)までに述べたところから十分認められる前示各事実に合理的疑いを生じさせるには到底足りないというべきである。

(五) 順次共謀の成立

右の経緯をたどって示された、被告人乙による「鈴木」の配下組員らしい人物を殺害することの許容の結果としては、これにより、E4が、実行者たるべきE10によって前記人物が「鈴木」の配下組員であることが確信されれば同人物を殺害しようとの意思を固め、その点を、黒原病院の状況を直接認識してこれを自己よりもよく把握しているE10の最終的判断に委ねたこと、及び、これによりE10が右人物の殺害を決意した上、E11との間でその旨の共謀を遂げ、これに基づいてE10及びE11が黒原病院事件を決行したことは、E4、E10及びE11の公判段階の各供述に依拠しても、何ら疑いを容れる余地はない。したがって、被告人乙とE4、E4とE10、及びE10とE11という経路をたどって、前記人物殺害についての右四名による順次共謀が成立したと認められ、もとより、被告人乙による殺害許容と、黒原病院事件の実行行為との間に、十二分な因果関係があることも明らかである。

(六) 結論

以上の次第で、被告人乙は、黒原病院事件について、正犯としての罪責を免れない。

3 被告人丙の罪責

(一) 検察官は、黒原病院事件についての被告人丙の罪責に関し、被告人甲及び同乙に関してと同様、「密告電話の直後に、被告人甲が、同乙、同丙及び同丁に対し、黒原病院に入院中の『鈴木』の殺害を指示し、右三名もそれぞれその旨決意して、同丙を含む右四名の間に『鈴木』殺害に関する共謀が成立した」旨主張するほか、被告人丙について、

① 密告電話の後、被告人乙の指示のもとに、「鈴木」を殺害するための準備として、黒原病院に電話をかけて、「鈴木」なる人物が入院している事実を確かめ、これを同被告人に報告した事実

② 同日、密告電話の後、被告人乙の指示で、黒原病院襲撃のための資金として、現金二〇万円をE4に渡し、それがE10及びE11に逃走資金として渡された事実

③ 同日深夜、被告人乙がE4に電話で黒原病院への潜入方法を指示していた際、同病院への潜入に必要な果物籠の入手先を教示した事実

がそれぞれ認められるとし、これらを基礎に、被告人丙にも、黒原病院事件について共謀共同正犯が成立する旨主張する。

(二) しかし、まず、被告人丙の罪責に関しても、密告電話の直後の時点での共謀の成立が認められないことは、既に被告人甲及び同乙について述べたのと同様であり、したがってまた、右(一)①ないし③の各事実を、右共謀に基づく行為であると位置づけることもできない。

(三) そこで、右時点以後の黒原病院事件の経緯における同被告人の関与を示す諸事実から、同事件について同被告人を含む共謀が成立したと認められるか否かを検討するに、確かに、本件記録上、検察官指摘の右(一)①ないし③の各事実の存在を窺うことができるので、以下、その各行為自体の存否ないし法的評価について検討する。

(1) 前記(一)①の黒原病院に対する確認電話の事実について

ア 被告人丙が、密告電話の直後、同乙の指示により、黒原病院に対して確認電話をした事実それ自体については、同丙自身をはじめとする関係者の各供述が一致しており、疑いの余地はない。

イ そこで、確認電話による確認行為の持つ意味について検討するに、密告電話から確認電話までの状況に関する捜査段階の供述調書のうち、被告人丁のそれが、同被告人自身が右の席にいなかった可能性がかなり高いことから見て、ほとんど証拠価値を有しないことは前示のとおりであるから、結局、右の状況の認定に供しうる捜査段階の供述調書は、事実上、被告人丙自身の三月一七日付検面調書(舎弟事件<書証番号略>)のみといえる。

右供述調書の当該部分の内容は、

「密告電話の後、被告人乙に、『H組の鈴木が黒原病院に入院していて、電話番号と部屋番号を言ってきた』と言うと、同被告人は、『そんなら、黒原病院に電話して確認してみれ』と言ったので、黒原病院に電話をすることにした。もちろん、このような電話をかけることが、H組の鈴木が入院しているかどうかを確かめ、命を狙う方向に進んでいくことは、わかっていた」

というものである。

このうち、被告人丙の認識を示す後段の部分については、当時、F一家との抗争の最中の時期であり、「鈴木」なる人物がH組関係者と思われた以上、当該人物を襲撃の標的たりうる人物として把握するのは事理の当然であり、また、同被告人自身、本件公判廷で、右検面調書の前記部分の内容を特に否定する供述はしていないことに照らせば、同被告人が、右時点で、黒原病院に密告電話の相手方が言う「鈴木」が入院している事実が判明し、かつ、同人がH組幹部であることが明らかになれば、同人を殺害する方向に話が進むであろう可能性がある旨を認識を有していた事実はこれを認めることができる。

ウ しかし、右段階で、被告人丙が、右の確認ができれば同人を殺害しようとする自己固有の犯意を形成していた事実や、同被告人と同乙との間で、右確認ができればその人物を殺害しようとする旨の意思の連絡が成立したことを窺わせるような記載は、捜査段階の供述調書にさえ全く見られず、これをもって、直ちに、同丙が、当該人物に対する殺意を有していたことを認めることはできない。

また、本件抗争の期間中、本部事務所に頻繁に嫌がらせの電話がかかり、その中には、一見、F一家関係者の動向に関する情報と思しきものも少なからず含まれていたことが、証拠上明らかに認められるばかりか、現に、一回目の密告電話の際にも、二回目の密告電話の際と基本的に同様の情報を受けながら、少なくとも、被告人丙は、嫌がらせ電話だという認識のもとにこれを放置し、真剣に取り合わなかったことが認められる。この点に鑑みれば、二回目の密告電話が終了した時点でもなお、同被告人の意識の中に、右電話による情報も単なる嫌がらせに過ぎないかも知れないとの認識が残っていたことは十分合理的に推察できる。したがって、同被告人の舎弟事件の公判廷における、「一回目の密告電話の時は、完全にいたずらだと思っており、二回続けて電話があって、半信半疑だった」旨の供述は、自然であって、信用にするに足ると評価できる。

すなわち、右時点では、被告人丙の意識において、いまだ、密告電話によりもたらされた情報が、単なる嫌がらせであるか、報復を前提とした爾後の真剣な検討に値するものかさえ、極めて流動的であったとみざるをえず、確認電話がそのような意識の中で行なわれたものであることに照らせば、確認電話の目的は、密告電話によってもたらされた情報が、単なる嫌がらせに過ぎないのか、真実に符号するものであるかをとりあえず確認するという意味合いのものにとどまるか、せいぜい、当該人物が果たして殺害対象たりうる人物か否かの判断に供するための前提行為としての性格を持つものに過ぎなかったとみるべきであり、これをもって、被告人丙固有の殺意それ自体の徴表とまで解することには無理がある。

エ しかも、確認電話の結果、黒原病院「鈴木」性の人物が入院している事実は確認できたものの、右電話で判明した同病院に入院中の人物の氏名が「鈴木勝則」であり、右の名前が、被告人乙が認識していたH組幹部である鈴木建治の名前と異なっていたため、同被告人が鈴木建治の名刺を探しに行き、それが見つからなかったため、その段階では、黒原病院に入院中の人物が報復対象とすべきH組関係者であることまでの確認はできなかったことが認められる。

そして、当該人物がH組関係者である旨の認識は、その人物に対する殺意の発生の当然かつ不可欠の前提であるというべく、その確認ができず、その旨の認識を有するに至っていない以上、右段階で、被告人丙が当該人物を殺害すべき固有の犯意を抱くということも、論理的にありえないと解するほかない。

むしろ、確認電話の結果、黒原病院に入院中の「鈴木」が、殺害対象となるべきH組幹部として被告人乙が認識していた鈴木建治と名前の異なる人物であったという点に鑑みれば、同丙の舎弟事件の公判廷における、「被告人乙が、『名前が違う』と言うので、『それなら、またでたらめを言ってきたいたずら電話だったばいな』という考えだった」という供述内容を、真実と認める余地がかなり高いというべきである。

オ 以上の次第で、右確認行為及びその直後の被告人乙に対する確認結果の報告の事実をもって、当該段階で同丙が黒原病院に入院中の「鈴木」なる人物を殺害する旨の犯意を有していたことの徴表と評価することはできず、ましてや、同時点又はその直後の段階で被告人丙と同乙との間に右人物を殺害すべき旨の意思の連絡が成立したと認めることは不可能である。

(2) 前記(一)②のE4対する金員の手交について

ア 被告人丙が、本件抗争の経緯の中で、同乙の依頼によって、現金一〇万円ないし一五万円を本部事務所から熊本市に持参して、これをE4に手渡した事実が存在することについては、関係者の供述が一致し、疑いの余地はない。

イ 右行為の日時については、検察官は、前記のとおり、これを、密告電話の直後の一二月一七日深夜であると主張しており、また、右の主張事実が認められることが、現金の持参やE4に対する手交と被告人丙の黒原病院事件についての正犯意思を結びつける前提となるものであるが、次のとおり、同被告人の右行為を、密告電話の後の出来事であると断定するに足る証拠はなく、したがってまた、右事実を捉えて、被告人丙についての正犯意思ないし共謀の成立を基礎づけることはできない。

ウ 確かに、被告人丙は、捜査の初期の段階から、右の日時の点に関し、検査官の主張に沿う供述をしており、前記三月一七日付検面調書、更には、総長事件及びE10事件の各公判廷でも、同様の供述をしていることに鑑み、その信用性を一概に否定することはできない。

エ しかし、被告人丙に現金の持参を依頼した同乙は、捜査段階で、その月日を、一二月一五日ないし同月一六日である旨述べているほか、現金授受の相手方であるE4も、少なくとも、捜査の初期の段階では同様の供述をしている。また、被告人丙自身、二月二一日付及び同月二七日付各員面調書では、いずれも、検察官の主張に沿う供述をしていたものの、三月一六日付員面調書においては、取調官から、「E4が、現金を受け取った日は一二月一五日か一六日ころだと供述している」旨告げられて、「私の思い違いかも知れないので、一二月一五日か一六日ころと訂正する」と、従前の供述を変更しており、右の点に鑑みても、現金授受の月日が同月一七日であるとする同被告人の供述が、確たる記憶に基づくものか否定かはかなり疑わしいと評価するほかない。

そして、被告人丙は、右のとおり、三月一六日付員面調書で供述を訂正していながら、前記三月一七日検面調書においては、再び、右現金の授受を、一二月一七日深夜の出来事として供述しているが、供述を再度変更する理由については何ら説明がなされておらず、三月三一日付員面調書に至り、ようやく供述再変更の理由が述べられているものの、その理由の内容は、「どう考えても、最初話していたのが本当だ」と述べるのみで、他の事実との時間的前後関係等の客観的な根拠に基づく供述変更とは評価し難く、右現金授受の月日を一二月一七日であるとする右三月一七日付検面調書に、それほど高度の信用性を置くことはできない。

オ 更に、総長事件及びE10事件の公判廷における供述内容についても、被告人丙は、後の舎弟事件の公判廷で、「総長事件では、一二月一七日だと証言したが、右証言をする時もわからなかった」旨述べており、捜査段階における前記のような供述の変遷状況に照らせば、同被告人が、総長事件等の公判廷でも、捜査段階での取調べに起因する記憶の混乱を持続していた可能性も十分存するというべく、たとえ公判廷の供述であっても、その信用性にはなお疑問の余地があるというべきである。

カ 一方、被告人丙は、舎弟事件の公判廷では、右日時を、一二月一五日又は一六日の深夜である旨述べており、これが、右局面に関する同被告人の最終的な供述内容であるところ、同被告人は、右のように述べる根拠として、同月一七日深夜には、被告人甲が久留米に出かけた後、大広間に残って電話番をしていたこと、その後、熊本の中島会から応援に来ていた本山某と食堂で酒を飲み、更にその後は、同月一八日午前〇時ころまで一階で碁を打っていたこと等を挙げており、右の説明は、必ずしも説得力を有するものではないが、他方、前示のとおり、現金の授受が同月一七日であるとの認定に資する各証拠の信用性が必ずしも高くないことに鑑みれば、これを虚偽であると断定して排斥することもできないというべきである。

キ したがって、被告人丙とE4との間での現金の授受は、同月一六日以前になされた可能性が残るというべきであるが、そもそも、右時点では、いまだ黒原病院に「鈴木」が入院している旨の情報は何らもたらされておらず、したがってまた、「鈴木」という特定の報復対象を念頭に置いた犯罪遂行の前提が満たされていないことは明らかである。

そして、かような状況で、被告人丙とE4との間で現金の授受がなされたとしても、右現金は、せいぜい、抗争のための偵察活動や食事代等に一般的必要な金員であったと認められ、同被告人の認識としても、補佐らの右のような一般的な偵察行動等を支援するという程度の意思であったと解するほかない。

ク 以上のとおりで、右事実をもって、被告人丙が黒原病院に入院中のH組関係者を殺害するという特定の犯罪についての正犯意思を有していたことの根拠とすることはできない。

(3) 前記(一)③の果物屋の教示の事実について

ア 一二月一七日深夜(同月一八日午前〇時前後ころ)に、被告人丙が大広間に上がっていくと、同乙が電話をしており、その電話で、同乙が「見舞籠」又は「果物籠」という言葉を口にしているのを現認したこと、その直後、同乙が、同丙に対し、「果物屋の、どこか開いとるとこ知らんか」等と尋ね、それに対して、同丙が、「こがん時間には開いとらんですよ。銀座通りの近くのところぐらいでしょう」等と答えたことについては、被告人丙自身の供述がほぼ一貫しており、ほとんど疑いの余地はない。また、同被告人は、公判段階でも、E10事件の公判廷で、「その電話については、誰かが入院しているのだろうかなと思ったが、あれこれ聞いてはいない。あまり聞いて深入りしない方がよいと思った。深入りして、警察問題になっては引き合う話ではないと思い、根掘り葉掘り聞けば、自分に関わるので、聞かなかった」旨述べており、同被告人が少なくとも、被告人乙の質問が抗争に関するものであろう旨の抽象的な認識を有していたことは、ほぼ認められる。

イ しかし、その時点で、被告人丙が、同乙が黒原病院への潜入方法を模索していることを認識した上で、その返答として右のような返事をした事実や、同丙が同病院に入院中のF一家関係者の殺害という自己固有の犯意を形成していた事実を断定することには、いまだ無理があるといわざるをえない。

ウ すなわち、その数時間前に、確認電話の結果判明した黒原病院に入院中の鈴木勝則の名前が、被告人乙が知っていた鈴木建治の名前と異なり、その同一性の確認もできなかったため、「鈴木」を巡る話は、同人を襲撃するか否かという具体的な話に進展することなく立ち消えになったばかりであり、黒原病院に入院中の「鈴木」の襲撃ということは、同丙の念頭から離れていたと解する余地が多分にある。

そして、被告人丙が、一二月一八日午前〇時ころに大広間に上がって来た後、ある程度のまとまった時間、同乙の電話での会話の内容を聞いていたことを認めるに足る証拠もないことに鑑みれば、黒原病院に入院中の「鈴木」の殺害ということを現実的に問題とするほどの意識を有していたとは認め難い同丙が、同乙から「果物屋」云々という前記質問を受ける直前の段階で、同乙の会話の内容が、黒原病院に入院中のH組関係者の殺害を念頭に置いたものであることを具体的に認識していたと解するには、かなりの不自然さを否めない。

したがってまた、それに対する返答も、黒原病院への潜入方法を教示するという意識のもとになされたとは認め難く、単に、被告人乙の質問の表面的な意味に即して、何気なく答えたという域にとどまっていた可能性を否定できない。

更に、右電話の後で、被告人丙が、同乙に対して、「果物籠」云々の意味するところを確認したり、ましてや、同被告人と黒原病院に関する会話をしたりした事実を窺わせる証拠は皆無であり、かようなやり取りは全くなかったものと認めざるをえないところ、そのような事態もまた、同丙が、黒原病院に入院中のH組関係者を殺害するとの自己固有の犯意を形成した上で、かつ、同乙による前記電話での会話の意味を具体的に認識しつつ、黒原病院への潜入方法の教示という意識をもって同乙の質問に答えたとの想定には、極めて馴染み難いものであり、したがってまた、右のような正犯意思の存在は、これを断定できないというべきである。

(四)  以上の次第で、検察官が被告人丙の共謀を裏付ける事実として主張する前記(一)①ないし③の事実は、いずれも、その存在自体を断定できないか、あるいは、同被告人の共謀の事実の根拠とまでは認め難いものであり、かつ、それら以外に、黒原病院事件の発生までの間に、同被告人が同事件に加功した事実を認めることもできない。

(五)  よって、被告人丙は、黒原病院事件について無罪である。

4 被告人丁の罪責

(一) 検察官は、黒原病院事件についての被告人丁の罪責に関し、同被告人は、密告電話の直後に被告人甲から黒原病院に入院中のH組組員を殺害するよう指示されて、右決意し、同被告人並びに右指示により同様の犯行の決意を抱いた被告人乙及び同丙と共謀を遂げた事実が認められると主張するほか、被告人丁について、

① 同日深夜、被告人乙がE4に黒原病院への潜入方法を指示していた際、Hの弟の名前を被告人乙に教示し、被告人乙がこれをE4に指示した事実

及び

②  一二月一八日、前記2(三)(2)アに記載のとおり、E10から電話を受けた際、E4に電話をするように指示した上、

E4にもポケットベルで連絡を取りつけ、E10から電話連絡があった旨伝えるとともに、

右E10の電話の内容等を伝えれば、被告人乙がE4に対し、「鈴木」の配下組員でも殺せと指示することがわかっていながら、E10の電話の内容を同被告人に伝えた事実

の各存在を指摘し、これらを基礎として、被告人丁にも、黒原病院事件についての共謀共同正犯が成立する旨主張する。

(二) しかし、まず、被告人丁の罪責に関しても、密告電話の直後の時点での共謀の成立が認められないことは、既に他の被告人三名について述べたのと同様であり、したがってまた、右①及び②の各事実を、右共謀に基づく行為であると位置づけることもできない。

(三) そこで、右時点以後の黒原病院事件の経緯における同被告人の関与を示す諸事実から、同被告人を含む共謀が成立したと認められるか否かを検討するに、確かに、本件記録上、検察官指摘の①及び②のないしの各事実の存在を窺うことができるので、以下、その存否ないし法的評価について検討する。

(四) まず、その前提として、被告人丁の一二月一七日ころの時点における本件抗争に対する一般的姿勢について、次のとおり、同被告人が、右当時、抗争の遂行に極めて消極的であった事実を指摘する必要がある。

(1) 同被告人の捜査段階及び公判段階の各供述を総合すれば、確かに、同被告人が、そのころの時点で、補佐らが上熊本事件後、次の襲撃目標を探して、F一家関係者の殺害を図っている旨認識していたことは十分認められる。

(2) しかし、そもそも、上熊本事件について前記三3(三)に判示したとおり、被告人丁は、個人的には、同事件以前の段階から、できる限り本件抗争に関わりたくない心境を有していたことが認められるのであり同事件後の段階では、右同様の心境が継続していたことはもとより、これに加えて、本件抗争に関わる必要性もなくなったとの認識に至ったことが強く窺える。

すなわち、同被告人は、例えば、三月一六日付検面調書(舎弟事件<書証番号略>)で、「上熊本事件は、乙組としては、ヒットマンを出して犠牲者を出しているので、地義理を果たしたと評価してよい格好になっていた」「黒原病院事件については、私としては、上熊本事件の時より、逃げ腰の気持ちだった。上熊本事件の当時、私の組のE2が指揮をとっていたので、私としても、乙組の組としての地義理を果たすために、何としても行かせにゃならんという気持ちを持っていた。それに比べると、黒原病院事件は、直接自分の組でやった事件ではなかったので、できることなら自分の責任は回避したいという気持ちが、常に心の底にあった」と述べている。そして、同被告人がそのような心境を有していたことは、同被告人が、右検面調書に至るまでの間にも、「私としては、E6を上熊本事件に使っていたので、『乙組の役目は一応済んだ。義理は果たせた』と思っていた」、「私は、戦争に嫌気がさし、できるだけ自分が捕まることは避けようという気持ちが強かったが、本部長という立場上、それを表面に表わして被告人乙と対立して争うこともできず、流れに任せるより仕方なかった」(以上、二月一三日付員面調書)、「上熊本事件発生後、E6が警察に逮捕されたことを知って、『やることはやって警察に捕まった。これで乙組の面目は立った。乙組の役目は終った』という気持ちになった」(同月二〇日付員面調書)、「私の組のE2とE6が上熊本事件をし、私は、内心で、『これで乙組の面目は立った。これで自分たち乙組の役目は終った』という気がしていた」(同月二三日付員面調書)等と、折に触れて、同様の心境を吐露しており、右検面調書の記載の信用性はこれを容易に否定することができない。したがって、被告人丁が、密告電話の直前ころの時点で、本件抗争に関わり合いたくない心情とともに、乙組として上熊本事件を起こしたことで、いわゆる義理を果たし、より以上に本件抗争に関わらなくてもよいという安心感を有していたことがほぼ明らかである。

(3) そして、そもそも、既に前記三3(三)で検討したとおり、被告人丁の上熊本事件における正犯性を基礎づける主観的側面は、ひとえに、甲一家本部長という立場において、他の幹部組員や甲一家内の他の組織に率先して乙組組員に行動を起こさせなければならないという点にとどまっていたものと解するのが相当であり、右の必要性が同被告人固有の抗争遂行意思を支える唯一の根拠であって、これをおいては、同被告人が対立組織の構成員の殺傷を図るべき固有の動機は何一つ存在しなかったと解する余地が多分にある。

そうであるとすれば、そのような被告人丁としては、上熊本事件により、相手方組員を殺傷するには至らなかったものの、乙組組員であるE2及びE6が外面的行動を示し、甲一家の組織内における自己の義理は果たせたという心境に立ち至った段階では、個人的立場や、乙組組員の上位者としての立場からはもとより、甲一家本部長としての立場からも、更に積極的に抗争を遂行して、甲一家内における自己及び乙組の地位の安泰を図る必要性はなくなったものであり、右必要性が上熊本事件において同被告人の正犯意思を支える唯一の根拠であった以上、同事件でその目的が一応達せられ、消滅した後においては、もはや、同被告人が対立組織の組員の殺害を企図する動機は、いかなる観点からも見出しえない状況に至っていたと解することができる。

(4) したがって、黒原病院事件の経緯における被告人丁の各言動の評価についても、同被告人の主観の根底に、右のような、本件抗争に関わりたくないという心境、及びもはや本件抗争に関わる必要性がなくなったという意識があったことを前提として、これを評価するのが相当である。

(五) 前記(一)①及び②の各事実の存否及び法的評価

(1) 前記(一)①のHの弟の名前の教示の事実について

ア 一二月一七日深夜又は同月一八日午前〇時過ぎころ、被告人丁が久留米から本部事務所に帰り、大広間に上がった際、同乙がE4と電話で会話をしており、その際、右会話の中で、「果物籠」云々の話題が出ていたことは、従前判示したところにより、十分認められる。

また、右の局面で、被告人乙が同丁に、H組組長であるHの弟の名前を尋ね、これに対して、被告人丁が、「國昭ですたい」と答えた事実についても、同被告人の前記三月一六日付検面調書のほか、同被告人の総長事件及び舎弟事件の各公判廷での供述によって、これを認めることができる。

イ しかし、右の際の被告人丁の意識について検討するに、以下のとおりの理由により、その際、同被告人が、被告人乙とE4の会話の内容を十分理解し、Hの弟の名前がいかなる意味を有するかを認識しながらこれを同乙に教示したとまでは認められない。

ウ まず、黒原病院事件に関する動きについて、被告人丁が、同乙の右電話での会話を現認するまでに認識していた事実として、合理的疑いを超えて認めることができるのは、一回目の密告電話の際の状況のみであり、しかも、前示のとおり、右の電話は、当時大広間にいたほとんどの者が、嫌がらせの電話だという認識で、これを意に介することなく放置していたことがほぼ明らかである。したがって、被告人丁が同乙とE4との電話を現認する直前の時点では、同被告人としては、黒原病院に入院中のH組関係者の殺害に直接つながるような事実関係を全く把握していなかったものと解する余地が高い。

この点、被告人丁の前記三月一六日付検面調書には、「久留米から本部事務所に帰ってから、被告人乙らのその後(「密告電話の後」の意)動きを聞いた。同被告人から、『鈴木は、黒原病院に入院しとった。同病院の場所もわかった』というようなことを聞いた。その後、同被告人が、実行部隊の方に、『Hの弟の名前で、見舞籠を持って行け』と言って、鈴木を殺す具体的な方法を指示した」との記載があるが、右検面調書には、これまで当該箇所で述べたとおり、全般的にその信用性に重大な疑問があるばかりか、右の局面に関しても、それまでの供述経過の中で再三同じ場面について供述がなされていながら、一度として出てこなかった「久留米から帰った後、被告人乙から密告電話後の動きを聞いた」旨の供述が突如として表われ、そのような供述変遷の理由も全く明らかにされていないのであって、右部分を直ちに信用することはできない。

なお、被告人丁が久留米から本部事務所に帰着後、大広間に上がった時点で、被告人乙が既にE4と電話中で会話中であったか、その後に右会話が始まったかについては、被告人丁自身も、舎弟事件の公判廷では、後者である旨述べるものの、総長事件の公判廷では、「久留米から帰ってすぐに被告人乙が電話を始めたか、帰って来た時に電話をしていたかだと思う」と述べており、その時間的関係は明らかでない。しかし、いずれにせよ、被告人丁が密告電話の際には既に久留米に出発していた可能性があり、かつ、久留米から本部事務所に帰着後に、同乙から久留米に外出中の状況についての報告を受けた事実を認め難い以上、右電話の直前の時点で、同丁が、黒原病院に入院中の「鈴木」を殺害する計画が進行中である旨の認識を有していたと断定することはできない。

エ そして、被告人丁が、このような認識状況のもとで、右電話の際、同乙からHの弟の名前を尋ねられる前に耳にした同乙の言葉として、本件記録上認められるものは、同丁の三月一六日付検面調書に依拠しても、「果物籠ば、Hの弟の名前で買うて行け」ということのみであり、これを聞いた同被告人が、それを、黒原病院に入院中のH組関係者を殺害する計画の一環であると認識できたと考えことはかなり困難である。

この点については、被告人丁は、総長事件や舎弟事件の公判廷においても、電話での同乙の会話を聞いた際の心境として、「それを聞いて、密告電話での『鈴木』が本当に入院しているかどうか、また、『鈴木』の名前がまだはっきりしないので、Hの弟の名前で、果物籠を持って、病院に、入院している者の名前を確かめに行くためだと思った。そして、実際に本人がいれば、仕返しをするのだと思った」等とのべているが、これとても、その直前までの同被告人の認識について前示したところに照らせば、右電話で同被告人がHの弟の名前を教えた時点以後の同電話での会話内容から推察したことや、右電話の後で被告人乙から得た情報と混同している可能性、更には、捜査段階での追及によって認識が混乱している可能性を完全に払拭することはできないというべきであり、少なくとも、被告人丁が同乙からHの弟の名前を尋ねられた段階で、既に右のような明確な認識を有していたと断定するには、なお疑問の余地があるというべきである。

オ したがって、被告人丁は、そのような意識状態で、単に同乙からの問いかけに対して、単に受動的かつ反射的にHの弟の名前を教えたに過ぎないと解する余地があり、Hが対立組織の長であることに鑑みれば、その際、同丁が、同乙にHの弟の名前を教えることが本件抗争の遂行にとって何らかの意味を持つものであることを認識していたことはほぼ明らかであるものの、右名前の教示の事実をもって、同丁が、黒原病院に入院中のH組幹部を殺害すべき自己固有の犯意を有していた事実や、同乙とその旨の意思を通じた事実を認めることまではできないというべきである。

(2) 前記(一)②のE10からの電話の際の応対の事実について

ア 被告人丁が、同局面で、黒原病院三一一号室の状況を伝えて、「鈴木」の配下組員らしい人物を殺害すべきか否かの指示を仰いだE10に対し、「E4に言うて、E4に言われたごつせなん。俺にそげんこつ言うてわかるもんか。いちいち電話するな」等と述べた事実自体は、同被告人自身の総長事件及び舎弟事件の公判廷での各供述や、E10のE10事件の公判廷での供述等の関係各証拠に照らして、疑いの余地はない。また、同被告人の捜査段階におけるその時の心境に関する供述のみならず、関係各証拠から認められるE10の報告の文言の内容自体からみても、同被告人が、その時のE10の「どがんしましょうか」という言葉の意味が、E10が黒原病院に滞在中のF一家組員らしい人物の殺害を決行すべきか否かの指揮伺いである旨の認識を有していたことも、ほぼ明らかである。

イ しかし、たとえ被告人丁が右のような認識を有していたとしても、これに対する同被告人の対応を、自己固有の殺意に基づいて、E10に対し、E4と相談して右組員を殺害すべき旨の指示をしたものであると解することには無理がある。

すなわち、被告人丁は、公判段階では、右対応がそのような趣旨に出たものであることを明確に否定しているほか、捜査段階においてさえ、これが右のような趣旨を含むものであった旨の供述は、一言もしておらず、かえって、三月六日付検面調書では、

「私は、E10からの電話を受けて、困ったと思った。私がここで『殺(や)れ』と指示すれば、後日、私の名前がでるかも知れないし、かといって『殺るな』と指示することは、本部の意向に反してしまうので、責任逃れをするため、前記のように言って、電話を切った」

と、また、前記同月一六日付検面調書では、

「私は、まずい電話を受けてしまったと思った。ここで私が、『殺ってもよか』と返事をすれば、この事件の責任がもろに私にかかってくると思った。上熊本事件で、随分危ない橋を渡ってしまい、それだけでも自分の身が危ないと思っていたのに、またここで指揮をすれば、ばれた場合にどんな刑罰を受けるかわからないと思った。『こんなことでいちいち本部の時期を仰ぐな。実行部隊の責任でやれ』と言いたいのが、その時の私の本心だったので、私は、前記のように言った」

等と、いずれも、黒原病院事件に対する関与から逃れたい心情を述べており、また、右各検面調書に至る員面調書にも、被告人丁が同事件と極力関わりたくない心境を有していた旨の記載が散見されるのであって、これらの供述状況に照らしても、右のE10に対する対応を、同被告人の正犯意思の徴表と解することはかなり困難である。

そして、前記(四)のとおり、被告人丁は、従前から抗争の遂行に消極的であり、かつ、右時点では、同被告人としてF一家関係者を殺害すべき自己固有の利益はもはや何も存しなかったと認める余地が高く、また、上熊本事件の遂行によって義理を果たしたという点を云々するまでもなく、そもそもE10やE4は、B組の構成員ではなく、これらをしてF一家関係者を殺害せしめることについて、同被告人としての固有の利益は何も存在しないことに鑑みても、右電話の際の同被告人の対応を、前記組員殺害の正犯意思の徴表であると解することには、かなり大きな疑問があるというべきである。

ウ したがって、被告人丁の、右のE10に対する申し入れの真意は、平組員にすぎず、本来その直接の上位者であるE4の指示を仰ぐべきE10が、分別をわきまえず、E4を飛び越して、直接自己のもとに、しかも、自己が重罪に巻き込まれかねない危険を伴う電話をしてきたことを心外に感じた同被告人が、右感情を吐露し、爾後、抗争に関する事項は本来の指示者たるE4と相談するように申し渡したにすぎず、せいぜい、E10が、上位者の指示次第では殺人の実行行為に出ることを認識しながらこれを積極的に制止しなかったことが認められるにとどまるというべきである。

(3) 前記(一)②の被告人丁がE4のポケットベルを打った事実について

ア 右事実に関しては、被告人丁は、捜査段階ではこれを認める供述をしていたのに対し、公判段階ではこれを否認しており、同被告人の弁護人もまた、右事実はないとしてその理由を縷々述べているが、右事実が優に認められること自体は、既に被告人乙の罪責に関して、前記2(三)(2)イbに述べたとおりである。

イ しかし、前記(2)までに検討したとおりの、被告人丁の消極的な、本件抗争との関わりを極力避けようとする姿勢に照らせば、右の行為は、E4の配下の組員であるE10が自己にとって危険な電話を入れてきたことを伝えてその点を非難し、爾後、E10にそのような行為をさせないようにさせ、可能な限り若頭補佐クラスないしそれ以下の組員限りで、自己を事件に巻き込まずに事を運ばせる趣旨に出たものであると解釈することが十分合理的に可能であり、右事実に依拠して、E4との共謀の成立や被告人丁固有の殺意の存在を断定することはできない。

(4) 前記(一)②の、被告人丁が同乙に対し、E10からの電話の内容を伝達した事実について

ア 右事実については、被告人丁の三月六日付及び前記同月一六日付各検面調書には、いずれも、右の点に関する検察官の主張に沿う記載があるのに対し、同被告人は、公判廷では、右事実を明確に否定している。

イ そこで検討するに、被告人丁が自己が本件抗争に関わる事態になることを極力避けようとしていたことは、既に検討したところからほぼ明らかであるところ、E10からの電話の内容を同乙に告げれば、そのこと自体、自己の本件抗争に対する関与を意味することになり、その程度の事理は、同丁としても当然認識しえたと認めるのが相当である。そして、本件抗争への関与を恐れ、本件抗争に伴って殺人事件が遂行されるとしても、可及的に、補佐らないしそれ以下の組員限りの犯行である外観を持たせたいとの心境を有していた被告人丁が、殊更、自己の関与に直結し、容疑を招く危険性を承知の上で、自発的に、同乙に対し、E10からの電話の内容を取り次ぐ行為に出るというのは、かなり不自然な事態であるというべきである。

ウ また、捜査段階での被告人丁の供述経過をみても、その供述経過を示す関係各供述調書や、同被告人の取調官であるX3刑事の総長事件での証言によれば、同被告人が黒原病院事件についての供述をしたのは、上熊本事件の取調べの段階であり、その際、同被告人は、黒原病院事件についても自己に罪責があるのか否かを強く案じる心境を告白して、同刑事に対して自発的に同事件についての関与状況を述べたことが認められる。ところで、これに対応する供述調書であると解される同被告人の二月一三日付員面調書には、本件証拠上同被告が真に体験したと認められる同事件の経緯に関する他の主要な事実のほとんどが記載されているにもかかわらず、右の被告人乙に対する報告の事実は全く記載されていない。しかし、仮に右報告の事実があるのであれば、自己の刑事責任の有無を極度に案じ、自発的に刑事責任が及ぶ基礎となりそうな事情を告白するに際しては、当然、そのような事情に該当することが明白な右被告人乙に対する報告の事実をも告白するのが自然であるとみるべく、この点に照らしても、事実右報告の事実が存在したと認めるには躊躇せざるをえない。

エ これらの点に照らせば、「被告人乙にE10からの電話の伝えなかったのは、補佐らの責任でやってもらわなければならないという頭があるし、それを言えば、同被告人と私がまた関係しなければならないという考え方もあった。また、報告すれば、私自身も、今度何か言われれば話をしなければならないので、関わり合いにならないため、何も言わなかった。捜査段階では、『お前が被告人乙に報告せんなら、同被告人がE4に指示するはずがないから、お前がしとらんことはない』等と追及され、それに話を合わせた」旨の、被告人丁の総長事件及び舎弟事件の公判廷での供述内容にむしろ自然かつ合理的なものがあり、少なくとも、右公判廷での供述内容を虚偽のものとして排斥し切ることは困難であるというべきである。

オ したがって、右(一)②の事実については、その存在自体を断定することができない。

(六)  以上の次第で、検察官が被告人丁の正犯性の根拠として主張する各事実については、いずれも、その存在自体を認めることができないか、正犯意思の徴表としての評価をすることができないというべきである。

(七)  これらのほか、捜査段階においてさえ、被告人丁が、黒原病院事件の発生を知って、何らかの意味での満足感を覚えた旨の供述は、一切見当たらないばかりか、「私がE10やE4からの電話の際にはっきりした指示をしなかった結果、同事件が起きたと思うと、私としては、どうしたらよいのかわけがわからなくなるぐらい後悔している」、「E10やE4から電話があった時、どうして止めなかったのかと思い、後悔の念で目の前が真っ暗になった」等という、自己固有の犯罪実現意思に基づいて同事件を敢行した者の心境としてはあまりに悲観的な供述が散見されることをも考慮すれば、同被告人に、同事件について自己固有の犯罪実現意思があったと認めることはできないというほかない。

(八)  よって、黒原病院事件について、被告人丁に関する犯罪の証明はなく、同被告人は、同事件について無罪である。

五  南熊本事件について

1 被告人甲野罪責

(一) 検察官の主張及び右主張に沿う証拠

検察官は、南熊本事件に関して、被告人甲に共謀共同正犯が成立すると主張するところ、検察官が、冒頭陳述において、同被告人に関する共謀の態様について述べるところは、大要、

① 一二月二三日、本部事務所で、H組関係者襲撃の意を固めた被告人丙が同甲に相談したところ、同甲がこれを了承した。

② 同月二五日、被告人丙が、H組事務所の内偵に基づき、本部事務所で、被告人甲及び同乙に対し、同所付近の見取図を書いて状況を説明し、具体的襲撃方法の謀議を巡らせたところ、同甲が、同丙に、「出てくるとば狙うなら、包丁がよか。事務所から出てくる者なら誰でんよか。よかならば二人をやって来させろ」「今まで間違うてばかりおるけん、必ず玉ばとって来い。女・子供や素人は襲うな」等と、H組関係者を確実に殺害するように指示するとともに、襲撃に際して人違い等の失敗を繰り返さないように念を押した。

というものである。

しかし、このうち、②の点についてはその認定に供すべき証拠が全くなく、検察官も、現在ではもはや右主張を維持していないものと解される。

一方、①の点については、本件全証拠中、その認定に資する証拠は、被告人丙の三月三〇日付検面調書の第七項のみであり、そのうち被告人甲の関与に関する記載内容は、

「一二月二三日午後七時ころ、本部事務所大広間に被告人甲が入って来たので、私は、こたつに座ったまま、立っている同被告人に対し、『H組は丙組でいきますけん』と報告すると、同被告人は、『うん、頑張れよ。しっかりやらなんたい』と言った」

との部分のみである。

(二) 被告人丙の三月三〇日付検面調書の信用性

ア 具体性の欠如

まず、右検面調書の当該部分の記載内容は、あまりに簡略で内容空疎であり、到底、現に体験した者でなければ供述しえないと評価すべき域には達しておらず、既にこの点において、それほど高度の信用性を認め難いといわざるをえない。

イ 内容的不自然さ

また、一二月二三日当時、本部事務所大広間には、常時一〇名前後の舎弟や相談役が詰めていたことが、関係各証拠からほぼ明らかであるが、そのような状況の中で、自己の所属する組織の長に対しては極力抗争とは無関係の外見を装わせるべく意を用いることが通例である暴力団員が、安易に右のような報告をする行為に出るということ自体、にわかに首肯し難いものがあるほか、H組組員の殺害を担当するというような重要事実を、総長である被告人甲に対して報告するに際し、こたつに座ったまま、しかも、同乙の頭越しに声をかけるというようなぞんざいな態度をとることには、かなり高度の不自然さを否めない。

ウ 主調べ状況及び供述の動機

また、被告人丙は、右のような供述をした理由について、総長事件の公判廷で、「警察官から、『何で乙ばかりするか』と言われ、『総長はそがんとこ(大広間の意)来よったか』と言われたので『はい、入って来よんなったです。一日二回か三回ぐらい大広間に入って来よんなったです』と話したところ、『そんなら、ここで言われとるどが』と言われ、あまりしつこく言われるので、出任せの供述をした」と述べている。そして、被告人丙の三月三〇日付検面調書の右記載の内容は、結果的に、それに先立って録取されたと認めるべき同被告人の三月二四日付員面調書(舎弟事件<書証番号略>)に表われている事実の引き写しの域を出ないものであり、同被告人の右総長事件での供述は、右三月二四日付員面調書の録取経過に関するものと判断できるところ、同員面調書の録取にかかる取調べが右のようなものであったとする同被告人の右供述を排斥するに資する証拠はなく、一応、そのような取調べ方法が用いられたものと認めざるをえない。

一方、被告人丙が、従前から同甲に対して必ずしも好感をもっておらず、更に、黒原病院事件の取調べの段階を通じて、警察官から、被告人甲の自宅から七〇〇〇万円が出て来た等というような虚偽の事実を告げられる等して、更に同被告人に対する反感を強めた可能性が高いことは、前記四1(三)(3)ウのとおりであり、南熊本事件の取調べが黒原病院事件の取調べからそれほど日数を経過していない時期になされていることから考えて、被告人丙の同甲に対する反感は、南熊本事件の取調べの段階でもそれほど減退していなかったものと解するに妨げない。

したがって、被告人甲に対する好ましくない感情を有している同丙が、更に警察官から右のような取調べを受け、その煩わしさから、同甲の関与について同被告人に不利な虚構の事実を適当に作り上げて供述し、その供述内容を三月三〇日付検面調書の録取に際しての検察官の取調べでも維持していたとしても、とり立てて不自然であると評価することはできない。

エ 四月七日付検面調書における供述変更

更に、被告人丙自身、その後に録取された、四月七日付検面調書(その供述の任意性に疑いがあることは、決定書三6(二)に記載のとおり。)において、「実は、被告人甲が、もっと具体的に襲撃方法等について指示をしていた」として、三月三〇日付検面調書の内容とは異なる同甲の関与の態様を供述した後、従前、同被告人の関与について供述することが怖かった旨を述べ、それに続いて、「同被告人を相手にして、自分から喋る気にはならなかった。それでも、全く関与していないと言ったところで信用してもらえるはずがなく、『頑張れよ』と言っただけにしておいた。それぐらいなら、同被告人が南熊本事件で罪になることはないという判断だった」と述べている

すなわち、右供述は、実質的には、被告人丙の三月三〇日付検面調書における被告人甲の関与に関する記載内容が、「それぐらいなら被告人甲が罪になることはない」という安易な判断によって適当に虚構の事実を述べた自己の作り話である旨の供述にほかならず、この点からも、三月三〇日付検面調書の当該記載は信用性に乏しいというべきである。

このように、被告人丙の三月三〇日付検面調書の同甲に関する前記記載には、具体性・迫真性の欠如、内容的不自然さ、被告人丙が同甲に不利益な内容をする動機の存在、更には、同丙自身が捜査段階で実質的に右供述が虚偽である旨述べるに至っていることという、多種多様の観点から、その信用性に重大な疑義があると評価するほかなく、かつ、これを裏付ける証拠も全くないのであって、到底、これをもって、右記載内容に合致する事実が存在したと断定するには足りない。

(三) 結論

以上の次第で、被告人丙の三月三〇日付検面調書によって同甲の南熊本事件についての共謀を認めることはできず、また、同事件に関し、他の形態での同甲の共謀の事実ないし同被告人の正犯意思の存在を認めるべき証拠も、もとより存在しないのであって、結局、同事件に関する同被告人の共謀の事実については、犯罪の証明がないというべく、同被告人は、同事件について無罪である。

2 被告人乙の罪責

(一) 検察官主張事実の認定に資する証拠及びその内容

検察官は、南熊本事件に関して、被告人乙に共謀共同正犯が成立すると主張するところ、右主張事実の認定に供すべき具体的証拠は、事実上、被告人丙の三月三〇日付検面調書一通のみであり、右調書には、確かに、同事件についての同乙の関与の事実を示すものとして、次のような各記載がある。

① 一二月一九日の午後五時ころ、本部事務所で、被告人乙が、「丙、H組ば見てけ」と言った。

② 同日午後一〇時過ぎころ、大広間で、被告人乙が「今まで、E12とE17の者を、E18が連れとったが、E18ではどうにもならん。お前んとこのE13に指揮をとらせる」等と言った。私は、同被告人に、「E13には荷が重すぎる。今までどおり頭補佐にやらせてよかっじゃなかですか」等と言ったが、同被告人は、「あっどんじゃ信用ならん。E13にやらせる」と言って、聞き入れてくれなかった。また、その際、同被告人は、私に、「女・子供や素人は、間違ってもいかせんごつせなんぞ」と、関係ない人間は襲撃させるなということも言っていた。

③ 同月二三日午後七時ころ、本部事務所大広間で、被告人乙が、「丙組でH組ばいけ。必ず一人は取らなんぞ」と、H組を襲撃させるように言った。私は、もう一度同被告人に、「E13を外してもらえんだろうか。E13ではでけんと思うけん、頭補佐にやらせてくれんですか」等と頼んだが、同被告人は、「あいつらじゃ信用ならん。俺が言いよっとじゃなかっぞ。わかっとろうが」と言った。そこで、私が、「わかりました。しかし、H組の事務所がどこにあるのか、はっきりわからんです」と言うと、同被告人は、「E5が知っとるから、案内してもらって確認しとけ」と言い、そのほかにも、前と同様に、「女・子供はやるな。事務所に出入りする者なら、誰でもよかけん、とにかく、ガラスだけ割るようなこつはするな」と、H組組員の命を取るように言った。

④ 同月二五日午後五時ころ、大広間で、被告人乙が、「お前のところはやる気のあっとか。早よE12らにH組を確認させて行かせんか」と言った。私が、同被告人に、「包丁だけじゃいかんですばい。こがん時だけん、相手もいろいろ用意しとる。道具ばどがんかしてくれんですか」等と頼んだところ、同被告人は、「わかった。E5に準備させるけん、E5と連絡をとらせろ」と言った。

⑤ 同月二七日午後四時過ぎ、本部事務所の被告人乙に電話を入れ、「ゆうべ、E12たちにけん銃を渡して、見に行かせました」と言ったところ、同被告人は、「ほんなこつ見に言ったかい。やる気のあっとかい」と、「見に行ったらやれるはずだ」という感じの嫌味を言った。

(二) 右検面調書の信用性

(1) 一二月二五日の謀議に関する部分の信用性の欠如

ア そこで、被告人丙の右検面調書の前記各記載部分の信用性について判断するに、前記(一)のうち、同乙を交えた共謀のかなり重要な部分である、④の、一二月二五日の謀議の点につき、同乙は、公判段階でその事実を否定し、本件及び舎弟事件の公判廷で、右共謀がなされたとされる同日午後五時ころには本部事務所にいなかったとして、大要、次のようなアリバイを主張している。

「私は、同日には、午後二時ころ事務所を出て、玉名市亀甲のマンションの一階に住む知り合いの女性であるE19(以下「E19」という。)方に行き、午後九時ころ本部事務所に帰った。その外出が二五日だということは、クリスマスだったので覚えている。同日午後二時ころ、本部事務所を出て、E20が運転する事務所の白いベンツで、同女方まで送ってもらい、同女宅では、私だけが家に入った。私は、E19が風邪をひいており、私が薬を届けられないため、同日午前中、E15がちょうど外に出る用件があると言うので、同人に、適当に薬を買って持って行ってくれと言って、同女方のところに持ってやらせていた。それで、部屋にいた同女に、『薬きたか』と言って確認したところ、薬は来ているということだった。そして、『飯食うたかい』と言うと、E19がまだだと言うので、寿司屋に電話をさせて、寿司を取って食べていると、同女の友人が来た。そして、E19とその友人が女の話をしており、私は、横になっていたところ、寝てしまった。目が覚めると、午後九時ころだったと思うが、その時、E19はいなかった。同女は、バーのホステスで、午後四時か五時ころに家を出る。それで、私は、部屋の鍵を閉めてから、事務所に、『ちょっと迎えにけえ』と電話を入れたところ、私の車か、来た時のベンツかのどちらかが迎えに来たので、本部事務所に帰った。その時の運転手は、多分E20だったと思う」

右の供述内容は、十分具体的で、それ自体特に不自然な点もなく、少なくとも、これを虚偽であるとして排斥するに足る証拠はないのであって、その信用性を一概に否定できないものであるほか、次のE15の証言内容とも、整合性を保っている。

すなわち、E15は、本件公判廷において、

「一二月二五日午前九時過ぎころ、被告人乙に言われて、E19宅に薬を持って行った。その時は、自動車で行き、事務所を出る際の検問で、同被告人から預かっていた薬を見せた。その薬は、赤茶っぽいうがい薬のようなものが入っていたと記憶している。E19宅に行くと、既に同被告人から電話が入っていたと思うが、同女が了解済みだったので、同女に薬を渡し、挨拶程度に言葉を交わして、すぐに出た」

旨証言している。

これに関しては、E15は甲一家において被告人乙の下位に位置する組員であることに鑑み、その供述に全幅の信頼を置くことはできないとしても、同被告人の前記公判供述は、E15の関知しない公判廷でなされており、同人自身も自己に対する刑事被告事件であるE15事件で身柄を拘束されていたことに照らせば、同人が、被告人乙の右公判供述の内容を何らかの経路で知っていた事実を窺わせる事情はないというほかなく、また、E15が、右一二月二五日の同被告人の行動が本件訴訟上どのような重要性を持つのかについての認識を有していたことを認めるべき証拠もない。したがって、E15は、本件公判廷で、特に被告人乙に有利な虚構の事実を想像して述べているのではなく、自己の記憶に従って証言したものと認めるほかないのであり、それが右の同被告人の公判供述の内容と整合性を保っている事実に照らせば、同被告人の右供述の信用性をあながち低く評価することはできないというべきである。

イ 一方、右共謀の相手方とされる被告人丙は、舎弟事件の法廷で、一二月二五日の状況について、次のように述べている。

「同日は、午前一〇時ころに、前夜から泊っていた宇土の松山ホテルである『松山』又は『ファンタジー』を、私、E13及びそのそれぞれの彼女の四人で出て、自動車を止めていた松橋の青果市場の広場に行き、そこで右女性二人と別れて、私とE13は、同一一時過ぎには八代の事務所兼自宅に帰った。その後、すぐに、行きつけの竜北町鹿島の尾ノ上の床屋に出張して来てもらった。向こうに行ったら危ないという気持ちもあってそうしてもらい、私のほか、若い者三、四人が頭を刈ってもらったと思う。また、私は、私が責任をもって『丙講』という頼母子講を作っており、毎月二五日に、冬は六時、夏は八時から、私の家で三万円講をしていた。私が講元で、光枝某及び野田某が保証人になっていたが、当時は私の家には警察が張り付けをしていたので、右野田が、『こういう状態だから、講金はどこでするか』と言って来たので、私は、『そしたら、話し合って、どこかでしてくれんですか』と言って、帳面と三万円とを野田に預けた。その時刻は、午後五時前だったと思う。そして、午後五時を過ぎてから、E13が熊本にいくと言うので、自動車に乗せて行ったと思う。これは、E12にH組の場所を教えるためであり、同月二四日にE13にH組を教えたが、同月二五日に、E13自身がE12に教えるという話になり、E13が免許を持っていないので、私が自動車に乗せて行った。そして、私は、E12とは合わず、南熊本駅の一〇〇メートルほど手前でE13を降ろし、E13がE12にH組を教えて来るのを、私は近くの本屋で待っていたと思う。その後、E13だけが私のところに戻って来て、私の運転で二人で八代に帰って寝た。八代に帰った時刻は、午後八時か九時ころだと思う」

右供述内容は、虚構の事実を言い立てる者の空想による供述であるとはにわかに断じ難い具体性を有しているほか、E13のE14事件の公判廷における、一二月二五日の行動に関する供述にも、南熊本駅前での具体的行動の点を除き、その行動の時間的側面に関しては大筋において整合するものであり、また、被告人丙とE13とが公判廷で右局面に関する供述をするについて、口裏を合わせたような事実を窺わせる証拠もないのであって、その供述の信用性を一概に否定することはできない。

ウ 右ア及びイに検討したところによれば、被告人乙と同丙との間で南熊本事件に関する謀議がされたとされる一二月二五日午後五時ころには、同乙が本部事務所にいなかったとのアリバイの成立を否定し難いとともに、共謀の相手方とされる同丙もまた、本部事務所にいなかった蓋然性を否めない。

したがって、右日時・場所における共謀の事実に関する被告人丙の前記検面調書の記載内容は、虚偽である可能性が相当程度に高いというべきである。

エ そして、このように、南熊本事件についての被告人乙に関する共謀の重要な一翼をなす右(一)④の点について、虚偽である可能性のかなり高い記載がなされている点に鑑みれば、それと同一の供述調書に記載された、同被告人に不利なその他の各事実についても、その信用性には一応の疑義を差し挟まざるをえない。

(2) 被告人丙が同乙に不利な虚偽供述を動機の存在

ア 次に、被告人丙が三月三〇日付検面調書における供述をした時点の同被告人の同乙に対する感情についてみるに、右時点で、同丙は、同乙に対する強度の反感ないし憎悪心を有していたことをほぼ認めることができ、同丙が、南熊本事件に関して、あえて同乙にとって不利益な虚偽の供述をする動機も十分に備わっていたと考えられる。

すなわち、被告人丙は、総長事件及び舎弟事件の公判廷で、捜査段階では、同乙に対して腹が立っていたので、南熊本事件に関して、自発的に同被告人に不利な虚偽の事実を述べて、同被告人を同事件の犯罪に巻き込んだとして、

「被告人乙は、逮捕前には、『□□』の件に関し、私が『□□』に行っていないことを証明してやると言っておきながら、逮捕後、取調官から、同被告人が、私が『□□』に行って一人で喋ったように供述していると言われ、腹が立った。また、黒原病院事件に関しても、同被告人が、私が同被告人らと話をしてやらせたように供述しているということだったので、ますます腹が立った。そのように、上熊本事件や黒原病院事件で、私が何も指示していないのに、被告人乙が、私が指示したように供述しているので、腹が立ち、『ようし、何かあったらあれするぞ』と思った。そして、南熊本事件で同被告人にしっぺ返しをしてやろうと思い、同事件の取調べでは、警察官からも、『同事件をお前が決めたんじゃなかろうが』と言われ、渡りに船で、同被告人を引っ張ることにし、同被告人に不利な虚偽の事実を述べた」

等と述べている。

そして、次のとおり、被告人丙の右供述内容は、十分信用するに足るものである。

イ まず、被告人丙は、既に、上熊本事件の取調べの段階で、「□□」の件に関して、同乙に対する高度の反感ないし憎悪心を形成していたことが強く窺える。

「□□」の件に関しては、被告人丙の総長事件及び舎弟事件の各公判廷、並びに同丁のE6事件の公判廷での各供述を総合すれば、

① 被告人乙、同丙、及び同丁が逮捕される昭和六二年一月一三日の数日前ころ、「□□」の件に関して、本部事務所に、弁護士を通じて、上熊本事件に関して既に逮捕されている補佐ら、特にE3から、「□□」に丙が来ていたとの供述が出ている旨の情報がもたらされたこと

② これを耳にした被告人丙は、憤慨し、「俺が行ってもおらんのに、俺まで来て発破をかけたということになっているが、どぎゃんなっとか。何で俺がE3に指示したりなんかせやんどや。俺は人間は信用ならん。俺はやめた。帰る」等と述べて、丙組の本拠である八代に引き揚げると言い出したこと

③ これに対し、被告人乙が、同丙に対し、「あの時行ったのは、俺と二代目(被告人丁の意)じゃないか。お前は来とらんから心配せんでいいじゃないか」等と言って説得し、同丁もまた、同丙に、「それは本当ですよ。心配することはない。誰がそういうことを言いよるか知らんけれども、言うた人間も後で思い出すでしょうから、堪えてやらんですか」「時が来たら、はっきり裁判所でも言うし、検事から調べられた時にもはっきり言うから」等と述べ、他の舎弟や相談役も同様に述べて、被告人丙をなだめ、同被告人も、これに納得したこと

の各事実を認めることができる。

但し、このうち①の点については、前記三2(一)エaに判示したとおり、昭和六二年一月一三日の数日前の段階では、E3は、いまだ被告人丙が「□□」で発破をかけた旨の供述をするに至っていなかったことが明らかであるので、これを積極的に認定することには疑問の余地がある。しかし、他方、右段階で、E3が、既に、被告人丙が上熊本事件の実行を強硬に迫った旨の供述をしていたこと自体は前同箇所に示したとおりであり、右のE3の供述状況が本部事務所にもたらされる過程で何らかの誤謬が介在した可能性もあり、また、本部事務所にもたらされた情報それ自体は、単に、「E3が上熊本事件について被告人丙のE3に対する指示の事実を供述している」というものであったとしても、右情報に接した被告人乙・同丙及び同丁が、上熊本事件についての舎弟クラスと補佐らとの直接の接触の場面が「□□」におけるそれであったことから、右のE3の供述内容を「□□」の件を肯定するものとして理解したということも、十分に考えられる。したがって、右情報の客観的内容の点はともかく、被告人乙、同丙及び同丁の認識として、右①のような事実があったことは容易に否定しえないというべきである。

なお、右①ないし③のような各事実があったことは、前記三2(一)ウbに摘示した、被告人丁の二月二一日付検面調書(舎弟事件<書証番号略>)に「□□」の件に関する供述の変遷の理由として記載されたところからも窺うことができる。

したがって、以下では、右の各事実、又は少なくともそれに類似する事実があったことを前提として考察するほかない。

ウ 次に、被告人丙の舎弟事件の公判廷の供述によれば、同被告人が、上熊本事件の捜査段階で、「□□」の件を否定し、捜査官に対して、同乙及び丁に事実関係を確認してほしい旨申し向けたことが認められるとともに、その際は、被告人丙としては、右両名に確認してもらいさえすれば、右両名が、「□□」の件を否定する供述をし、自己の嫌疑が晴れることに、強い期待を抱いていたことが、同被告人の公判供述を待つまでもなく、十分推認される。

しかし、その結果たる取調官からの返答内容は、予期に反して、被告人乙及び丁が、いずれも「□□」の件を肯定しているというものであり、同丙としては、一面では、同乙や同丁が警察官による暴行の結果そのような供述をしているのではないかとは思いながらも、他方、故意に自己を上熊本事件の罪に陥れるために右供述に及んだのではないかという疑念を抱いたことに、何ら不自然な点はない(この点は、被告人丙が舎弟事件の公判廷で述べるところでもある。)

そうしてみると、「□□」の件に関して、自己が「□□」に行っていないことを最もよく知っている張本人であり、かつ、逮捕前に、自己の面前で、取調べの際にそのことを証明してやると約束までしていた、自己のための強力な砦となってくれるべき存在であるはずの、当の被告人乙が、たとえ警察官による暴行の影響によるものであれ、結果的に、その言に反して、同丙が「□□」で補佐らに発破をかけた旨の供述をしたことを知った同丙としては、同乙に裏切られたとの心境を抱くのは当然のことである。しかも、その結果被告人丙が被った不利益は、自己が「□□」の件の否認を頑として貫いた甲斐もなく、捜査機関に「□□」の件の存在を断定されて、殺人未遂罪という重大犯罪に関する共謀共同正犯に仕立てあげられ、これにより起訴されるに至ったというものであり、同被告人が被告人乙を強く憎悪する心境を抱いたとしても、何ら不自然とするには値しない。

エ 右段階での被告人丙の同乙に対する反感・憎悪を端的に示すのが、黒原病院事件での勾留期間中に録取された、南熊本事件に関する同丙の供述調書の記載内容である。

すなわち、被告人丙は、三月九日付員面調書において、「一二月二四日か二五日ころ、被告人乙が、同丙に対し、E13を私宅に行かせるように指示し、その後、私宅で、同乙とE13が会ったが、その話の内容は聞いていない」等と述べる一方、自己がE13に南熊本事件の指図をした旨の供述は一言もしておらず、右は明らかに、「被告人乙が、同丙の自宅でE13に直接南熊本事件の指示をした」旨を言外に含む供述であるといわざるをえないが、これが真実に反することは、その後の被告人丙の各供述調書や、右指示を受けたとされるE13の捜査段階及び公判段階の各供述に照らして明白である。

そして、右の三月九日付員面調書が録取された段階では、いまだ南熊本事件が本格的な取調べの対象になっていなかったこと、したがってまた、取調官たるX1刑事が被告人丙に不当な圧力を加えて右供述を引き出したものでないことは明白であり、右供述は、同被告人が、被告人乙を同事件の罪に陥れるべく、自発的にしたものであることがほぼ明らかである。

そして、被告人丙が、仮にも、暴力団組織において自己の上位に位置する同乙に不利益な虚偽の事実を、何ら取調官から追及されないのに、自発的に述べ、同被告人を殺人未遂罪という重罪に陥れようとしたことに照らせば、右段階における同丙の同乙に対する反感・憎悪は、極めて強度であったと認めるのが相当である。

なお、被告人丙は、右員面調書に続き、やはり黒原病院事件での勾留期間中に録取された三月一二日付員面調書において、初めて、自己がE13に南熊本事件を指示した旨の供述をし、同調書には、同乙が直接E13に同事件の指示をしたことを窺わせる記載はなされていないが、その間、同月一一日付で、同丙から同事件の指示を受けた旨のE13の員面調書が初めて作成されている点に照らせば、同月一二日付員面調書での供述の変更は、同丙の同乙に対する憎悪心が減退した結果、同丙が自発的に供述を転じたものではなく、E13が、同丙から南熊本事件の指揮を指示された旨の供述をするに至った以上、もはや、同乙がE13に直接指示した旨の供述を維持できないとの考えから、供述を変更したとみる方が自然である。

したがって、右三月一二日付員面調書の録取の段階では、被告人丙の、同乙に対する反感・憎悪心は、依然強いものがあったと認めるに妨げない。

オ それでは、被告人丙が、右以後の黒原病院事件での取調べの期間中を通じて、右の同乙に対する反感・憎悪心を多少なりとも減退させた事実を窺えるかについてみるに、かような認定に資する証拠は全くなく、逆に、右反感・憎悪心をますますつのらせた事実を強く推認できる。

すなわち、黒原病院事件に関しても、被告人丙は、舎弟事件の公判廷で、「同事件についても、被告人乙の供述によって私が巻き込まれたことがあると思う。同事件で起訴される前、警察官や検察官から、同被告人が『一二月一七日か同月一八日に、同被告人、被告人丁及び私で、同事件に関して相談した』旨述べていると言われた」と供述している。

そして、現実に、同被告人乙は、捜査段階で

「確認電話の後、被告人丙か同丁のいずれかが、現場のE4かE2のいずれかに連絡をとっていた」

旨、

「私・被告人丙・同丁の三人は、誰が言い出すとはなく、どうして黒原病院に入り込むかという話をし、同丙か同丁のいずれかが、『Hの弟の名前で、五〇〇〇円か一万円の見舞籠ば持たせようか』という話になり、そのように話がまとまった。私としても、立場上、二人の意見に引きずられる格好で、同意し、反対できなかった。その後、私はそのままそばの布団に入ったが、被告人丁か同丙のいずれかが、電話で、E4かE2に、『見舞籠にHの名前を書いて入り込め』という意味のことを言っていた」

旨(以上、三月一二日付員面調書)、

「被告人甲の、黒原病院に入院中の『鈴木』を殺害すべき強い指示の結果が、一二月一七日の深夜、私・被告人丙・同丁が話し合い、同丙か同丁によって、E4・E2らの現地指揮者への指示として流れていった」

旨(同月一六日付員面調書)等、明らかに客観的真実に反し、かつ、被告人丙に不利益な供述をしているか、少なくとも、同乙の供述として右内容の文言が録取された調書が作成されたことが認められる。

したがって、被告人丙が、同乙がそのような供述をしている旨を、取調べの際その他何らかの機会に知るに至ることも十分考えられることであって、そのような情報に接した同丙として、同乙に対する反感・憎悪心をますますつのらせたことは、想像に難くない。

更に、被告人丙としては、同乙が単に黒原病院事件の関して自己に不利益な供述をしたのみならず、まさに、同乙がそのような供述をしたために自己が同事件で起訴されるに至ったという因果関係がある旨の認識を有していたこともこれを認めるに妨げない。

すなわち、被告人丙は、舎弟事件の公判廷で「黒原病院で起訴されたことについては、誰かが私を含めて共謀した旨を供述しているのだなと思った。そのほか、私が密告電話を取ったのがいけなかったのだろうかという気持ちになったが、弁護人に、電話を取ったのが法律に触れるのかと聞いたところ、『いや、それはならん』と言われたので、それなら、上熊本事件でもそのようにして起訴されているので、被告人乙と同丁の二人が、私と一緒に話したと供述したから起訴されたのだなと思った」と述べており、右のような認識を抱くことは、現に、上熊本事件で被告人乙や同丁によるいわば裏切り行為を受け、その結果同事件で起訴されたという、近接した時点での生々しい実体験を有する被告人丙としては、誠に無理のないところであって、右供述の信用性をたやすく否定することはできない。

カ このように、被告人丙としては、同乙の裏切り行為によって、上熊本事件で起訴される羽目に陥ったのみならず、更に、黒原病院事件で殺人罪という重大犯罪の共謀共同正犯に仕立てられて、これにより起訴され、右各事件により現実に有罪認定を受ける高度の危険性にさらされるに至ったという、まさに甚大な打撃を被ったものであり、このことに鑑みれば、同乙に対して怒り心頭に発することも、誠に無理からぬものがある。そして、その反感・憎悪心の強度に照らせば、その結果として、南熊本事件に関して同乙を巻き込もうとする心理が働くことには、何ら不自然なことではないというべきである。

したがって、故意に被告人乙を巻き込んだ旨の同丙の供述内容には、十分な信用性があり、少なくとも、これを虚偽であるとして否定することは到底不可能であって、右のような意図のもとになされた供述を録取した被告人丙の三月三〇日付検面調書における同乙の関与に関する部分には、その信用性に重大な疑問があるというべきである。

(3) 被告人丙の抗争に対する一般的姿勢

更に、被告人丙は、かねて、抗争をする場合には、丙組単独で行動しようとの考えを有していたことが窺える。

すなわち、被告人丙は、抗争一般に対する姿勢に関し、舎弟事件の公判廷で、

「私は、抗争を起こす場合は丙組一本でしようと思っていた。それは、そうでないと手柄が立たず、丙組の名前も上がらない。失敗しても、成功しても、丙組がしたという名前が出ない。丙組でして成功すれば丙組としての手柄になり、そうなれば、組織に対して顔向けができるし、失敗しても成功しても、『した』という事実は生れる。また、私は舎弟でも一番下で、やくざ歴も長くなく、名前が売れていないので、よそと合流してしたのでは認められないし、する時は名を売るために別個でするぞという腹だった」

等と述べており、また、南熊本事件に関しても、本件及び舎弟事件の公判廷で、

「南熊本事件について丙組ですると決めたのは、私もCが殺される一週間か一〇日ほど前に舎弟頭にもなったことだし、また、丙組は、E6とE2をヒットマンに出しているB組に次いで組員の数も多く、長期の懲役に耐えられる年齢の者もいるので、順番からいっても自分の組がしなければいけないと思ったからである」

旨述べている。

そして、被告人丙が抗争一般に対する姿勢として述べるところには、特に不自然な点はなく、その信用性を一概に否定できない説得力を有しており、したがってまた、そのような同被告人が、丙組単独で南熊本事件の遂行を図ったとしても、何ら不合理はないのであって、同被告人がかような姿勢で南熊本事件に臨んだとの事実を排斥することはできない。

(4) 小括

以上の諸点を集積・総合して検討すれば、被告人丙の三月三〇日付検面調書における同乙に不利益な各事実の記載については、ほとんど信用性を置くことができないと評価するほかない。

なお、検察官は、被告人丙の右検面調書が、E13の捜査段階の各供述調書と内容的に整合していることを指摘し、そのことを、同被告人の右検面調書に信用性があることの一論拠とする。しかし、右検面調書の記載内容は、それに先立って録取された南熊本事件に関する同被告人の各員面調書を集成した域を出ず、また、その員面調書の録取状況に関しては、同被告人は、公判廷で、取調べ担当警察官から告げられたE13の供述に話を合わせた旨述べており、右録取状況に関する供述内容を排斥するに足る証拠もない。したがって、そのような右各員面調書の録取状況を前提とすれば、被告人丙の右検面調書がE13の各供述調書の内容と整合していることは当然であって、そのことが、右検面調書の内容面での真実性を担保しているとは評価できず、また、そもそも、E13の調書との整合性は、右検面調書のうち、E13との接触の局面に関する記載内容に関しては別論、被告人乙を交えた共謀の状況に関する記載内容の信用性を特に高く評価すべき事情となりうるものではない。

(三) 結論

以上の次第で、被告人丙の三月三〇日付検面調書は信用性に乏しく、また、それ以外に、南熊本事件について同乙の共謀の事実を認めるべき証拠は存在しないから、結局、同乙の共謀については、その証明がないというべく、同被告人は、同事件について無罪である。

3  被告人丙の罪責

(一)  南熊本事件に関する被告人の丙の罪責については、同被告人自身が一貫してその指示者である旨自認しているところであり、他の関係各証拠によっても、同被告人の正犯性に疑いの余地はない。

(二) しかし、弁護士は、被告人丙、E13、E12及びE14の間に、H組組員を銃撃する旨の共謀が成立した事実はあるが、同組員を殺害する旨の共謀が成立した事実までは認められないと主張し、また、実行行為に際してはE12及びE14に確定的故意がなかったと主張するので、一応、右の点について判断を加える。

(1) 共謀の内容

まず、南熊本事件に用いられた凶器は、殺傷力の極めて高いけん銃であり、共謀の参加者相互間における右けん銃の授受の際等になされた、被告人丙からE13に対する指示、E13からE12に対する指示、及び、E12からE14に対する説明に際しては、いずれも、右けん銃を用いてH組事務所に出入りする組員を銃撃すべき旨が告げられ、かつ、何ら急所を外して銃撃せよ等という注意もなされていないことが、これら関係者の捜査段階の各供述調書のみならず、その公判廷での各供述からも明らかである。したがって、各指示者ないし説明者の意図としては、特段の事情がない限り、H組組員に対する単なる傷害のみならず、その殺害を念頭に置いて指示ないし説明を行なったものであるとともに、それらの指示ないし説明を受けた者としても、当然、右各指示ないし説明が、右同旨のものであることを認識していたと認めるほかなく、本件において、その反対の事実を推認すべき特段の事情は何ら窺うことができない。ことに、E12が、E13からH組組員襲撃の指示を受けた後、その主体的判断で、とどめを刺すためにわざわざ刺身包丁を購入している点をも考慮すれば、共謀の内容が、H組組員の殺害にあったことに、何ら疑いを差し挟むべき余地はない。

(2) 殺意の態様

弁護士は、襲撃に至る経緯や、実行行為の時点及びその後のE12及びE14の各言動を分析して、右両名に確定的故意がなかった旨、縷々述べている。

確かに、暴力団組織の対立抗争の一環であるということ自体から、直ちに確定的故意を認定することには飛躍があるが、こと本件に即してみれば、共謀成立時点における殺意の内容が確定的故意以外には考えられないことは、既に右(1)に述べたことから明らかであって、実行行為者たるE12及びE14としても、右時点で、確定的故意を有していたことが優に認められ、また、右両名が、実行行為の直前の段階までに、一旦生じた確定的故意を翻したような証拠は何ら見当たらない。

次に、実行行為の態様については、まず、現実に発砲行為を行なったE14についてみると、同人は、被害者が十分自己に近づいた時期を見計らった上、約2.4メートルの至近距離から、何ら急所を外す等の配慮をしないまま、いきなり被害者を目がけて第一発目の銃弾を発射し、更に、その銃撃により、被害者が転倒したか、少なくとも転倒するような体位になったこと、したがってまた、自己の発射した銃弾が被害者の身体に命中した蓋然性が高いことを認識しながら、あえて、それに引き続いて第二発目の銃弾を発射したことが、X7及びX8の各検面調書や、司法警察員作成の昭和六一年一二月二九日付実況見分調書等の関係各証拠のほか、E14自身の公判廷での供述によっても明らかであり、その外形的挙動自体に照らし、右行為が確定的殺意に基づくものであったことは十分認められる。更に、E12についても、実行行為の直前、E14との間で、自己が刺身包丁でとどめを刺す役割を担当する旨取り決めているのであって、E14の発砲行為の直前まで確定的故意を有していたことは明らかであり、また、確かに、E12は、現実に刺突行為に出ることなく、E14の一発目の発砲行為の直後に逃走を始めたことが認められるが、E12自身、E14事件の公判廷で、右行為は、恐怖心と、E14の発砲行為により被害者が死亡するだろうからあえてとどめを刺す必要がないと判断したことに基づくものであることを認めているのであって、右逃走の事実は、何ら確定的故意の存在と両立しえないような性質のものではない。

更に、弁護士は、E14及びE12が、「実行の翌日に被害者の命に別状がないことを知って、ほっとした」旨述べていることを捉えて、確定的故意の不存在の根拠とする。しかし、被害者がH組組員ではなく、警察官であることを知った以上、その死亡の結果が生じなかったことに安堵することはあまりにも当然のことであり、また、仮にその点を捨象して考えるとしても、E12及びE14が、いずれも、H組組員に対する個人的怨恨から殺人の実行行為に及んだものではないことは明らかであり、自らの手で相手の生命を抹殺する行為に出ることに強度の良心の呵責を覚えるのは事理の当然であり、したがって、事後に、被害者が死亡するに至らなかったことを知って、自己が結果的に相手の生命を奪い去る重罪を犯さずに済んだという心情や、自己に対する刑罰が殺人既遂に比して比較的軽くて済むとの予測から、その結果に安堵感を覚えることは、全く不自然なことではない。したがって、右の点は、何ら、E12及びE14が実行行為の時点で確定的故意を有していなかったことの根拠となるものではない。

(三) よって、弁護士の主張は、いずれもこれを採用することができない。

六  覚せい剤取締法違反の事実について

1 公訴事実及び検察官主張の共謀の態様

被告人甲及び乙に対する覚せい剤取締法違反の控訴事実は、

「被告人甲及び同乙は、いずれも、法定の除外事由がないのに、営利の目的で、E15及び甲2(被告人甲の妻・以下「甲2」という。)と共謀の上、昭和六二年一月二〇日、熊本県玉名郡<番地略>納屋において、覚せい剤である塩酸フェニルメチルアミノプロパンを含有する白色結晶粉末約499.64グラムを所持したものである」

というものであり、警察官は、その共謀の態様について、

「昭和六一年一二月二八日、被告人甲が同乙に指示し、右公訴事実にかかる覚せい剤(以下「本件覚せい剤」という。)の購入資金を本部事務所総長室にある鏡台の引出しに入れて甲2に渡し、同乙が右資金を甲2から受け取って、E15に渡した」

と主張している。

2 E15の単独犯行であるとは解し難いこと等

まず、本件覚せい剤所持の犯行(以下「覚せい剤事件」という。)の実行正犯者であることに疑いの余地のないE15の供述内容を検討するに、E15は、本件で罪体認定に供しうる証拠中、自己に対する刑事被告事件であるE15事件の第一回及び第二回公判における供述を除いて、いずれも、自己の所持事実は認めるものの、被告人甲、同乙及び甲2との共犯関係を否定し、本件及びE15事件の公判廷で、「自己のみの個人的判断で、覚せい剤を一キログラム単位で仕入れた上、これを小分けして売りさばいていた」等と述べて、本件覚せい剤の所持は、自己の単独犯行である旨主張している。

しかし、そもそも、若年の平組員であるE15が、個人的裁量でそのような大規模な覚せい剤取引を敢行することができるとはほとんど考えられず、これに、E15が本部事務所の電話を用いて覚せい剤譲受人からの注文を受けていたこと、E15が覚せい剤の入手及び密売状況について克明なメモを作成していたこと、更に、E15自身、E15事件の公判廷で、「覚せい剤の密売は、昭和五九年ころから、当時所属していた組の仕事としてしていた」と述べていることを総合すれば、覚せい剤事件は、甲一家の組織ぐるみの犯行であるか、少なくとも、甲一家の幹部クラスの組員との共謀によるものであったことは明らかである。

また、甲一家の財政一般についてその運営の中心的立場にある人物が被告人乙であることは、同被告人自身が本件公判廷でこれを自認していること等に照らしてほぼ明らかであり、この点に鑑みれば、右の「幹部クラスの組員」に該当する人物が同被告人であった蓋然性も極めて高いということができる。

もっとも、右のような一般的経験則等基づく推論のみから、右共犯関係に立つ人物が被告人甲あるいは同乙であると断定することができないことはいうまでもない。

3 警察官主張に沿う証拠とその信用性

そこで、本件覚せい剤の所持が被告人甲ないし同乙という特定の者との共犯関係に立つことの積極的認定に供しうる証拠についてみるに、これに該当するものは、本件全証拠中、E15のE15事件第一回及び第二回公判における供述と、甲2の五月一一日付及び同月一二日付各検面調書のみである。

(一) E15のE15事件第一回及び第二回公判での供述

まず、このうち、E15事件第一回及び第二回公判におけるE15の供述については、既に当裁判所が決定書六3(二)(1)イ及びウに指摘したとおり、捜査段階で、E15の弁護権が警察当局によって侵害され、弁護人の選任関係自体に不当な圧力が介在していた疑いがあるほか、E15事件の公判再開後の公判廷におけるE15の供述によれば、同事件第一回及び第二回公判の段階でも、右の弁護権の瑕疵が治癒されていなかった疑念が高く、同人が、当時の弁護人から、公判廷でも事実を認め、警察官による暴行の点にも言及しないようにとの申し入れを受けていた事実を否定できない。

したがって、そのような状況でなされた疑いのあるE15のE15事件第一回及び第二回公判での各供述には、公判供述であるとはいえ、なお任意性にさえ疑いが残ると解釈する余地があり、仮に任意性の点では問題ないという見解に立つとしても、その信用性の判断についてはこれを極めて猜疑的に解せざるをえない。しかも、その供述内容は、せいぜい「本件覚せい剤は被告人甲の物である」という程度のものであって、単に、検察官の主張を概括的に自認したという域にとどまり、本件で検察官が主張する共謀の態様について具体的に供述した部分は全くないのであって、極めて抽象的な、証拠価値の乏しいものであるといわざるをえず、そのような供述によって、覚せい事件についての被告人甲又は同乙との共謀の存在を断定することは到底不可能である。

(二) 甲2の五月一一日付及び同月一二日付各検面調書

(1) したがって、結局、覚せい剤事件における被告人甲又は同乙の共謀の事実を認定しうるか否かは、甲2の五月一一日付及び同月一二日付各検面調書の信用性の判断如何にかかるところ、検察官は、これらに高度の信用性を置くことができるとし、その根拠として、

① 甲2の逮捕当時、被告人甲、同乙及びE15はいずれも勾留中で、甲2は、それらの共犯者がいかなる供述状況にあるのか、その内容を知り難い状況に置かれており、そのような外部的な状況にとらわれることなく供述しうる客観的立場にあり、取調官の誠意ある説得や弁護人との接見を得て自白するに至ったものであって、取調べの経過にも、何ら問題はないこと

② 供述内容に、具体性があり、現に体験した者でなければ語りえない事実について供述しており、迫真性があること

をあげている。

(2) 確かに、甲2の取調べ経過に、任意性を害するほどの強度の取調べ方法が介在していなかったことは、決定書七2に摘示したとおりであるほか、甲2の前記各検面調書の記載にはかなり具体性もあり、これに、甲2が被告人甲の妻であって、同被告人を罪に陥れることを積極的に企図するような事情も何ら窺えないことに照らせば、その信用性は高いとの評価も、あながち不可能ではない。

(3) しかし、以下の諸点に照らせば、右各調書の記載には、なおその信用性に疑問が残るといわざるをえない。

ア 被告人及び乙の自白の影響

まず、検察官が右(1)①のように主張する点については、事実には、右主張とは全く逆に、甲2が、覚せい剤事件について従前の否認から自白に転じるにあたり、E15及び被告人乙の供述内容を具体的に示されたこと、及びそのことが甲2が自白に転じる重大な契機となったことが明白である。

甲2の本件及びE15事件での各証言、並びに、同女の取調べ担当警察官であった熊本県警察本部勤務司法警察員警部補X6(以下「X6刑事」という。)及び熊本地方検察庁勤務検察官検事W3(以下「W3検事」という。)のE15事件での各証言によれば、甲2は、昭和六一年四月二一日に、覚せい剤事件で通常逮捕され、熊本県玉名警察署に留置された後、同山鹿警察署(以下「山鹿署」という。)に勾留され、その後、同事件についてX6刑事及びW3検事の取調べを受けたこと、逮捕・勾留の際の弁解録取手続及び勾留質問、並びにその後のX6刑事、W3検事の取調べに対し、いずれも被疑事実を否認していたが、五月八日に至り、初めて事実を認める旨の員面調書(録取者・X6刑事)が作成されたこと、その後に作成された、五月九日付、同月一一日付及び同月一二日付各検面調書(録取者・W3検事)、並びに同月一二日付員面調書(録取者・X6刑事)には、いずれも被疑事実を認める旨の供述記載があること、甲2が同月一二日午後に釈放されたことを、それぞれ認めることができる。

そして、X6刑事の証言によれば、甲2が自白に転じる兆しを見せたのは、最初の自白調書が録取された五月八日の前日である同月七日であると認められるところ、同日は、覚せい剤事件に関する被告人乙の員面調書の録取が終了した日であるとともに、E15については右の段階ではすでに同事件の員面・検面調書の録取が完了しており、右時点以後、甲2の取調官が被告人乙やE15の供述による誘導を行なおうと思えば容易にそれが可能な状況にあったことが認められる。

また、甲2が被疑事実を認めた最初の供述調書であるX6刑事に対する五月八日付供述調書の第一項には、否認から自白に転じた理由に関し、「このままでは、真実を述べている被告人乙やE15にも迷惑をかける。この二人の立場を思うと、自分だけが助かり、二人はどうなってもいいということはできない」旨の記載があり、これに鑑みても、甲2が自白に転じた重要な動機が、取調官から被告人乙やE15の供述を示された点にあったことはほぼ明らかである。

また、X6刑事は、E15事件の公判廷で、「五月七日夕方、甲2が自供する態度が見られ、ふっ切れない態度でいるように見えたので、甲2が、被告人乙やE15の供述が本当だろうかということを心配しているのではないかと思い、県警本部の特捜班長に、『被疑者が大分自供するような感じだ。よかったら、被告人乙とE15を調べているX5刑事(熊本県警察本部勤務司法警察員警部補X5を指す。以下同じ。)に来て会ってもらえないか』等と依頼した。そして、同月八日午後一時ころ、X5刑事が山鹿署に来たので、甲2と約一〇分間面接してもらった」旨証言しており、更に、X5刑事も、同事件の公判廷で、「五月初旬ころ、山鹿署で、甲2と約一〇分間面会した」と述べており、右の面会はX6検事の右証言に対応するものと認められる。そして、その際の状況につき、X5刑事は、「山鹿署で、甲2に対し、『覚せい剤の仕入れ資金や売上金の受渡に関する甲2自身の関与について、E15被告人乙も話をしている。そういう事実があれば正直に話をしてはどうか』等と説得し、その際、E15や被告人乙の供述内容を甲2に説明した。甲2の心境がぐらついていたので、ここで、調べた事実を突きつけて供述を得たらどうだろうかということで、そのような説明をした」と証言している。

右各証言に、甲2の本件及びE15事件での証言を加味すれば、甲2が否認から自白に転じる重要な契機が、その直前に、X5刑事から、E15や被告人乙の供述内容を具体的に示されて説得されたことにあったことは明らかである。

そして、決定書の当該箇所に示したとおり、被告人乙及びE15の覚せい剤事件に関する自白の供述は、いずれも、任意性に疑いがあるばかりか、内容的にも本件覚せい剤の入手先及び入手場所という重要事実についての虚偽を含むものであり、そのような共犯者の複数名の自白内容を具体的に示されたことを重要な契機としてなされた自白には、必ずしも高度の信用性を置き難いと評価すべきである。

イ 甲2が虚偽自白をする動機を否定し難いこと

次に、甲2は被告人甲の妻であり、あえて同被告人を罪に陥れることを積極的に意図して同被告人に不利な供述をする動機には欠けるが、覚せい剤事件の捜査当時、甲2が置かれていた状況に鑑みれば、なお、同女が他の利益を優先し、あえて虚偽の自白に甘んじることを選択することも、全くありえないわけではないと評価できる。

すなわち、甲2は、当時、それぞれ二〇歳、一二歳、一〇歳の三人子供の養育のほか、七三歳になる被告人甲の母親の介護の必要にも迫られていたと解釈でき、一個の主婦として、また、母親としての立場に鑑みる時、その必要性は相当高度であったと認めるに妨げない。

この点、甲2は、E15事件の公判廷で、「当時、私の次女が地元の中学に行けず、熊本市内の寮に入ったばかりであり、また、被告人甲の母が精神的におかしかった。それで、私は、私の認否にかかわらず同被告人を起訴することは間違いないと何度も言われていたので、同被告人が起訴された上、私がいないと、家には子供だけになり、義母の世話もとても無理なので、家のことが心配であり、帰宅したかった」と述べており、右供述内容自体は十分自然であって、信用するに足るというべきである。

また、甲2は、自己の精神的状況やそれに起因する体調について、E15事件の公判廷で、「私は、前科・前歴はなく、本件以前に逮捕されたこともなく、身柄を拘束されるのは初めての経験だったので、逮捕後四ないし五日は、夜も全然眠れず、その後もあまり眠れなかった。食事も、最初一週間ほどは全然食べず、水を飲む程度だった」と述べており、本件公判廷でも、ほぼ同旨の証言をしている。そして、右の食事の摂取状況等についての供述には、かなり誇張があることを否めないが、同女の五月八日付員面調書第一項にも、「自分自身のことや子供のことを考えると夜も眠れず、食事も喉を通らない」旨の記載があり、X6刑事も、「甲2は、取調べ期間中、『食事がおいしく喉を通らない』とか、便秘をしていること、夜にあまり眠れない等のことを言っており、便秘の点を非常にきついと言っていた。また、夜に眠れない事情については、いろいろ心配していると言っており、子供や義母の生活が心配だと説明していたと思う」旨証言していることに照らせば、甲2が自白をなすに至った五月八日の時点で、同女が肉体的、精神的にかなり疲弊した状態にあったことを推認することができ、右のような状態が、甲2の、早期に身柄拘束から解放されたいとの希望を、一層強いものにしていたことを窺うことができる。

このように、甲2が、当時、身柄の早期解放を強く希望していたことが窺われるところ、他方、甲2に、被疑事実を自白すれば起訴猶予となり、身柄の解放が得られるとの期待を抱かしめる事情があったことも、完全に否定することはできない。

右の点について、甲2は、本件やE15事件の公判廷で、「取調べの際、警察官や検察官から、自己の覚せい剤事件に対する関与を認めれば解放するが、否認すれば五ないし六年服役する旨を申し向けられた」旨述べているが、右供述をそのままの形で信用することができないことは、決定書七2(四)に判示したとおりである。しかし、X6刑事は、E15事件の公判廷で、「五月七日ころ、甲2が、『このままだったらどうなるでしょうか。認めたらどうなるでしょうか』という話をした」と証言しており、甲2が自己の認否と処分との関係に強く気を揉んでいたことが窺えるとともに、右の点が甲2とX6刑事との間で現実に話題にのぼったことはほぼ認められる。そして、同刑事は、右に対する答えを甲2に申し向けた事実はない旨述べるが、一方では、右の甲2の発言に対して、「『本当のことを話す気になったんですか。話してくれるか』というような、自供を促す質問をしたと思う」旨証言しており、右質問に対する答えとして同刑事からかような応対を受けた甲2としては、これを、覚せい剤事件に関する自己及び被告人甲の関与を認めれば釈放を得られるかも知れないとの趣旨に解釈した可能性が全くないとはいえない。また、甲2は、X5刑事からも、同趣旨のことを申し向けられた旨述べているところ、甲2と同刑事との面会の局面で右趣旨の話題が出た事実の有無を確定するに足る証拠はないが、同女は、前記のとおり、自己の認否と処分との関係に強く気を揉んでいたことが認められることに鑑みれば、右X5刑事との面会の際にも、甲2から同刑事に対して重ねて同様の質問がなされ、それに対して、X5刑事から、事実を素直に認め、反省の情が看取されれば起訴猶予処分もありうるという趣旨の話が出る等、被疑事実に対する認否と甲2の処分との関係に関する何らかの会話がもたれた可能性を完全に否定することまではできない。

更に、決定書七2(三)記載のとおり、甲2が、自白に転じるに直前の昭和六二年五月八日の午前中に、Y3弁護士(以下「Y3弁護士」という。)と接見している事実が認められる。この点については、甲2自身がこれを否認していることから、右接見の際の状況の詳細を知る術はないが、甲2が、それに先立ち、自らと対立関係にある警察官に対してさえ、自らの処分について質問をする態度に出ており、その点が当時の同女にとっての極めて重大な関心事であったと考えられることに照らせば、本来自己に対する助言者という性格を有する弁護人との接見の場面では、同様の質問と、これに対する弁護人からの何らかの助言がなされた可能性が極めて高いと評価するのが合理的である。

ことに、甲2には、前科・前歴がなく、加えて、家族を養育すべき高度の必要性があり、更に、同女の取調べに先立ち、捜査機関が被告人乙及びE15から得ていた供述内容を前提とした場合の、覚せい剤事件に対する同女の関与の態様等を総合すれば、起訴処分及び不起訴処分のいずれもが合理的に予測されるところであり、甲2自身の認否や反省状況によってその処分が左右される状況にあったとの評価も可能であって、この点も、取調べの過程、ことに、Y3弁護士との接見の際に、甲2の認否と同女の処分との関係に関する何らかの話題が出た可能性や、場合によっては起訴猶予処分もありうる旨の何らかの対応がなされた可能性を一概に否定しえない一つの材料となる。

そこで、右可能性があったことを一応の前提として考察するに、右のような状況で、甲2が、あえて、夫である被告人甲に不利な供述をしてでも、自己の身柄解放という利益を優先させる契機として重視すべき点は、前述の、家族の養育・介護の必要性のほかに、当時、甲2に、自己が否認を貫徹しても、どのみち、被告人甲の覚せい剤事件での起訴と、他事件での勾留を含む長期間の身柄拘束は免れないとの認識があったと考えられることである。すなわち、甲2が、取調官から被告人乙やE15の供述内容を示して告げられたと認められる覚せい剤事件の態様や、被告人甲の前科関係等に照らし、自己がいかに否認を貫徹しても、同被告人の同事件での起訴は避けられないとの認識を抱いていたこと、あるいは、同被告人が既に黒原病院事件や南熊本事件でも起訴されているという状況に鑑みて、同被告人が爾後長期間身柄を拘束される状態が継続する旨の認識を有していたことは、十分合理的に推認できる。そして、そのように、自己の自白・否認にかかわらず、被告人甲の身柄解放が期待できない以上、せめて自分だけでも早期に身柄の解放を得て、家族の世話に努めたいと考えることは、主婦として、また、母親として、決して不自然な心理ではない。加えて、被告人甲が黒原病院事件及び南熊本事件で既に起訴されているばかりか、覚せい剤事件についても、既に被告人乙及びE15の供述によって、同甲が同事件について有罪認定を受ける相当強度の危険性が生じていること、換言すれば、自己の自白によって、それまで希薄であった被告人甲にとっての危険性が決定的に増大するというような関係は生じないと評価することも不可能でないことに鑑みれば、甲2の立場として、自己の自白の同被告人にもたらす危険の増幅の程度が極度に大きいわけではないと判断すること、また、それ故に、身柄の解放を得る家族関係上の必要性の大きさが、自己の自白によって夫にとっての危険性が高まることの不利益にも増して大きいとの価値判断に立つことも、さほど不自然であると評価するには値しない。

ウ 本件覚せい剤の入手状況に関する関係者供述

検察官主張の共謀に基づいて、本件覚せい剤が入手された状況については、被告人乙やE15の本件及びE15事件の公判廷での各供述、あるいは、W3検事のE15事件での証言等によれば、覚せい剤事件の捜査段階で、捜査当局が想定していた構図が、「前記共謀に基づき、被告人乙が、暴力団K組のE21に電話で覚せい剤入手の注文を入れ、E15に対し、昭和六一年一二月二八日午後六時ころ九州自動車道久留米インターチェンジ出口の駐車場に出向いて右E21から覚せい剤を購入するように命じ、E15が右指示に従って、同所で本件覚せい剤を入手した」というものであったことが明らかであり、現に、被告人乙及びE15の員面調書及び検面調書には、右想定に沿う記載が散見される。

しかし、右に関する被告人乙やE15の捜査段階の各供述は、それぞれ決定書の当該箇所に指摘したとおり、いずれも任意性に疑いがあるものであるとともに、内容面でも、その入手場所に関する部分はほぼ虚偽であると断定でき、また、入手先に関しても虚偽である蓋然性が高いものである。

このように、本件で検察官が主張する共謀に対応し、かつ、人的同一性、時間的近接性に鑑みて、右共謀と不可分な一連の事実関係の一環をなしていると評価すべき、本件覚せい剤の入手先・入手状況に関する証拠の内容が、右のような虚偽のものである以上、同じ事実関係の一環である共謀それ自体に関する被告人乙やE15の捜査段階での各供述の内容の信用性にも、かなり重大な疑問が残るというほかない。

そして、甲2の五月一一日付及び同月一二日付各検面調書の内容は、そのような被告人乙やE15の供述内容による追及によって獲得された、右両名の供述と符合する供述であり、そうである以上、たとえ甲2の右各検面調書には、虚偽である可能性が高い本件覚せい剤の入手状況や入手先に関する記載それ自体はないとしても、右入手状況と一連の関係をなす当該共謀そのものに関する供述部分にも、その信用性に、なお疑義が残ると評価するほかない。

エ その他

a 甲2の甲一家の組織の財政運営一般に対する関与については、被告人甲は本件公判廷でこれを否定し、甲2自身も、本件及びE15事件の公判廷で、いずれもこれを明確に否定する供述をしており、また、そのほかに、甲2が甲一家の組織の財政的運営に一般的に関与していたことを窺わせる証拠はない。そうであるとすれば、被告人甲が、自己の妻であり、かつ、他の方面で組の財政に全く関与していない甲2を、何故、よりによって、覚せい剤の入手資金やその密売による売上金というような、発覚すれば直ちに重大な刑事責任を問われる可能性が極めて高い性質の金銭の授受に関わらせる必要があったのか、その動機において必ずしも釈然としないものがある。

ことに、被告人甲の本件公判廷での供述により、甲2は、日中は、その経営するクラブの集金等のために外出がちで、本部事務所には不在であることが多いことが一応認められ、この点に照らしても、殊更、そのような甲2を通じて覚せい剤購入資金や密売による売上金の授受をしようと思い立つことには、不自然さを否めないというべきである。

b 更に、甲2の右各検面調書における、被告人甲と甲2との間での、覚せい剤の購入資金及び覚せい剤密売による売上金の授受の態様は、購入資金については、「総長室の鏡台の引出しに、知らないうちに入れられていた」旨、また、売上金については、「右引出しに入れておいたところ、知らないうちになくなっていた」というものであるが、同一の寝室(総長室)で起居を共にしている夫婦である被告人甲と甲2との間で、何故にそのような迂遠な金銭授受の方法が用し難いものがある。

4 結論

以上の次第で、甲2の五月一一日付検面調書及び同月一二日付各検面調書には、いまだその信用性に疑問があるというべく、他に、検察官主張の共謀の事実を断定するに足る証拠もない。したがって、E15による、右共謀に基く本件覚せい剤の入手及び所持という関係が認められるか否かを検討するまでもなく、共謀の事実そのものの存在を断定できないというべきである。

よって、覚せい剤事件に関しては、被告人甲及び同乙のいずれについても、犯罪の証明がないというほかなく、右両名は、同事件について無罪である。

七  暴力行為等処罰に関する法律違反の事実について

前記罪となるべき事実欄第二に記載の暴力行為等処罰に関する法律違反の事実について、被告人甲は、捜査段階から一貫して右事実を否認している。

しかし、右事件の直接の被害者であるO自身はもとより、スナック「O」の従業員複数名、あるいは、中立的立場にあると認められる、事件当時に同店に居合わせた複数名の客、更には、共犯関係にあるG3さえ、いずれも、検察官の主張に沿う供述をしているところ、それらの供述は、いずれも具体的で、その相互間に特に矛盾点もなく、それ自体において信用性が高いものであるばかりか、これら相当数の供述者が、例外なく、被告人甲に対する反感等から、あえて同被告人に不利な虚偽の供述に出たともほとんど考えられない。かえって、Oや、右「O」の従業員らが、右のような供述をするについては、事後に甲一家側から仕返しをされることを懸念し、自己や家族の身に危険が及ぶことを強く恐れていたことが、これらの者の各検面調書から明らかであり、また、右のような恐れを抱くことは、具体的な供述を待つまでもなく、甲一家本部事務所のある玉名市内の飲食店の経営者・従業員として当然のことであって、それらの者が、そのような危険を承知の上で、あえて被告人甲に不利な虚偽の供述に出るとは考え難く、その他にも、その供述の信用性を害すべきような事情は、何ら見出せない。

また、判示の共謀の点に関しても、共犯者である前記G3は、被告人甲から、捜査機関に対して実行行為及びそれに先立つ共謀の状況を供述をしないよう、二度にわたって口止めされていたにもかかわらず、あえて、同被告人の逮捕を機会に甲一家と縁を切る決意をした上、右の状況に関する供述をするに至ったもので、その供述に何ら信用性を害すべき要素を窺うことはできず、同人の一月二九日付及び二月九日付各検面調書に依拠して、十分その事実を認めることができる。

よって、右暴力行為等処罰に関する法律違反の事実については、合理的疑いを差し狭む余地はないというべきである。

八  総括

以上に検討した次第で、本件各公訴事実のうち、被告人甲に対する昭和六二年二月三日付公訴事実(暴力行為等処罰に関する法律違反事件)、同乙に対する同月一三日付(上熊本事件)及び同年三月一九日付(黒原病院事件)各公訴事実、同丙に対する同月三一日付公訴事実(南熊本事件)、並びに、同丁に対する同年二月二三日付公訴事実(上熊本事件)については、いずれも、検察官主張のとおり、それぞれ当該事実について当該被告人にその正犯が成立することが認められる。

他方、被告人甲に対する同年三月三一日付(黒原病院事件)、同年四月一八日付(南熊本事件)及び同年五月二三日付(覚せい剤取締法違反事件)各公訴事実、同乙に対する同年四月一〇日付(南熊本事件)及び同年五月二三日付(覚せい剤取締法違反事件)各公訴事実、同丙に対する同年二月二三日付(上熊本事件)及び同年三月一九日付(黒原病院事件)各公訴事実、並びに、同丁に対する同日付公訴事実、(黒原病院事件)については、いずれも、その犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条により、それぞれ当該事実について当該被告人に対し無罪の言い渡しをすることとする。

(累犯前科)

一  被告人甲は、(1)昭和五七年二月九日熊本地方裁判所で暴力行為等処罰に関する法律違反罪により懲役一年二月に処せられ、同五七年八月二一日右刑の執行を受け終り、(2)その後犯した傷害罪により同年一〇月二六日同裁判所で懲役一年四月に処せられ、同五九年一二月二〇日右刑の執行を受け終ったものであって、右各事実は、検察事務官作成の同六二年一月一六日付前科調書(総長事件<書証番号略>)及び右(2)の裁判についての判決書謄本によってこれを認める。

二  被告人乙は、(1)昭和五五年一二月二五日熊本地方裁判所で覚せい剤取締法違反罪により懲役一年八月及び罰金二〇万円に処せられ、同五七年八月四日右懲役刑の執行を受け終り、(2)その後犯した傷害罪により同五九年一〇月二六日同裁判所で懲役一年二月に処せられ、同年一一月一四日右刑の執行を受け終ったのもであって、右各事実は、検察事務官作成の同六二年一月一六日付前科調書(舎弟事件<書証番号略>)及び右(2)の裁判についての判決書謄本によってこれを認める。

三  被告人丁は、昭和五七年四月一二日東京地方裁判所で覚せい剤取締法違反罪により懲役一年一〇月に処せられ、同五九年一月二七日右刑の執行を受け終ったものであって、右事実は、検察事務官作成の同六二年一月一七日付前科調書によってこれを認める。

(法令の適用)

一  被告人甲について

被告人甲の判示第二の所為のうち、団体の威力を示し、かつ、数人共同して脅迫した点は、包括して、行為時においては平成三年法律三一号による改正前の暴力行為等処罰に関する法律一条、刑法二二二条一項、罰金等臨時措置法三条一項二号に、裁判時においては右改正後の暴力行為等処罰に関する法律一条、刑法二二二条一項に該当するが、右は犯罪後の法令により刑の変更があったときにあたるから、刑法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、また、同所為のうち、常習として脅迫した点は暴力行為等処罰に関する法律一条の三、刑法六〇条、二二二条一項に該当するが、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い常習的脅迫罪の刑で処断することとし、前記の各前科があるので同法五九条、五六条一項、五七条により三犯の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうちその刑期に満つるまでの分を右の刑に算入することとし、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して同被告人に負担させないこととする。

二  被告人乙について

被告人乙の判示第一の二の所為は刑法六〇条、二〇三条、一九九条に、同三の所為は同法六〇条、一九九条にそれぞれ該当するところ、各所定刑中、いずれも有期懲役刑を選択し、前記の各前科があるので、判示第一の二及び同三の罪の刑にいずれも同法五九条、五六条一項、五七条により同法一四条の制限内で三犯の加重をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により犯情の重い判示第一の三の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一四年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち一八五〇日を右の刑に算入することとする。

三  被告人丙について

被告人丙の判示第一の四の所為は刑法六〇条、二〇三条、一九九条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役八年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち一八五〇日を右の刑に算入することとする。

四  被告人丁について

被告人丁の判示第一の二の所為は刑法六〇条、二〇三条、一九九条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、前記の前科があるので、同法五六条一項、五七条により同法一四条の制限内で再犯の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役五年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうちその刑期に満つるまでの分を右の刑に算入することとする。

(量刑の理由)

一  被告人甲について

被告人甲の判示第二の犯行は、何ら落ち度のない一般市民に対し、その無抵抗と地元の暴力団組織に対する畏怖心に乗じ、全く理不尽な言いがかりをつけて、配下の幹部組員とともに脅迫を加えたという、暴力団に特有の極めて陰湿な犯罪である。また、その動機において酌量の余地が全くないことはいうに及ばず、脅迫言辞の態様も極めてあからさまであり、その間の被害者の恐怖感は察するに難くないばかりか、将来の営業活動に対する弊害も懸念され、更に、これに対しては何ら慰謝の措置も講じられていないのであって、被害者や「O」の従業員らが同被告人に対する厳罰を求めていることも誠に無理からぬところである。

同被告人は、同種事犯を含む多数の前科を有しながら、再び本件犯行に及んだものであって、その遵法精神の欠如は誠に甚だしいといわざるをえず、また、本件についての反省の情も窺えない。

よって、同被告人の刑事責任は決して軽視できず、当裁判所としては、同被告人に対し、主文掲記の刑をもって臨むのが相当であると判断した。

二  被告人乙について

1  被告人乙の各犯行のうち、まず、上熊本事件についてみるに、同事件は、自己の所属する暴力団組織の幹部組員が対立組織の構成員に殺害されたことに対する報復として、右対立組織の系列団体たるP組の組員の殺傷という結果が発生するかも知れないことを認識しながら、その配下組員をして、同組の事務所を襲撃させたというものであり、右は、ひとえに、暴力団に特有の価値基準にのみ支配されたものであって、その動機に、一切酌量の余地はない。

また、本件犯行は、補佐らにおいて、凶器たるけん銃の調達、実行行為者の選定、潜伏場所の手配、関係箇所の下見等の周到な計画を踏んだ上でその決行に及んだという顕著な計画性と組織性を有するものであり、その過程における被告人乙の関与形態も、補佐らから刻々と情報の提供を受け、けん銃の調達や潜伏場所の手配にも積極的に協力した上、事件前日には、「□□」において自ら襲撃の決行を強硬に迫っているのであって、極めて主体的・能動的であったと評価するほかない。

しかも、その結果、補佐らが選択し、かつそれに従ってその配下組員が実行した襲撃方法は、白昼、警戒中の警察官に銃口を向け、これを威嚇して相手方事務所の敷地内に突入して発砲を遂げるという大胆窮まりないものであり、右は、警察による治安維持活動、ひいては、法治主義の理念そのものに対する挑戦といっても過言ではなく、右手段は被告人乙自身が考案したものではないとしても、P組事務所に対する襲撃が困難であると認識していた補佐らをあえて襲撃の実行に追い立て、結果的にそのような方法を選ばせるに至ったことにおいて、その責任は重大である。

更に、本件は、白昼、一般住宅街にあるマンションでの発砲事件であり、近隣住民に与えた恐怖感も並々ならぬものがあるというべきである。

したがって、P組事務所が強化ガラスを装備していたため、客観的には、同組組員殺傷の結果を生じる現実的危険性はかなり希薄であったこと、あるいは、本件の結果が、強化ガラスの損傷という軽微な損害のみにとどまっていることを考慮してもなお、同事件に関与した者の刑事責任の重さは、いかようにも否定しえない。

2  次に、黒原病院事件についてみるに、右犯行も、上熊本事件と全く同様の動機に基づく、暴力団に特有の価値基準に支配されたものであって、動機において一切酌量の余地がないことは前記1同様である。

また、右犯行は、既に前同様に組織的に進められていたF一家関係者殺害の計画の上に立ち、その系列団体たるH組の幹部組員らしい人物が黒原病院に入院しているとの情報に接するや、同病院の下見、けん銃の授受、同病院の右幹部組員の病室への潜入手段としての果物籠の購入等の周到な準備を経て、実行者が上位指揮者と連絡をとりつつ決行に及んだものであって、上熊本事件と同様の顕著な組織性と計画性を有する犯罪であり、その経緯において被告人乙が果たした役割の重要さも明白である。

更に、その実行行為の態様たるや、白昼、一般市民の出入りする医療施設たる病院内の、一般市民たる入院患者の眼前で、無警戒かつ無防備の被害者に対して、いきなり、有無を言わせず、けん銃を発射した上、ベッドから倒れ落ちる被害者に刺身包丁とどめを刺すという誠に凶悪かつ残忍なものである。

そして、本件犯行の結果の重大さについては改めて述べるまでもないが、ことに、対立抗争とは無関係の第三者の殺害という事態を招いたことにおいて、その社会的な衝撃大きさには、同種事犯の中でも際立ったものがあり、爾後に再びいわゆる巻き添えの犠牲の発生することが懸念される等、一般市民に与えた恐怖感・不安感も、容易に察せられる。もとより、同事件の被害者には何ら落ち度はなく、被告人乙らの意思に基づく理不尽窮まりない行為によって、いまだ三二歳という前途ある身で、全く抵抗するいとまさえなく、また、何ゆえに自己が殺害されなければならないのかも理解できないまま生命を奪われるに至った被害者の無念さは察するにあまりある。

したがって、後日、E4、E10及びE11から被害者の遺族に対して一五〇〇万円が支払われて示談が成立していることを考慮してもなお、黒原病院事件に関与した各行為者の責任は極めて重いといほかない。

3  以上の諸点のほか、被告人乙が累犯前科を含む多岐にわたる前科多数を有していることに鑑み、同被告人の刑事法規一般に対する規範意識の鈍摩は著しいといわざるをえないことをも考慮すれば、同被告人の刑事責任は、誠に重大である。

4  しかし、本件の捜査段階において、警察官相当数から、被告人乙に対して暴行が加えられ、これによって被告人乙が重度の傷害を負うに至ったことは、本件記録上明らかであるところ、右暴行は、現行刑事訴訟法における捜査史上、ほとんど他例をみないほどの峻烈窮まりないものであり、被疑者の人権にも意を用いるべき義務を有する警察官の右義務違背の程度は、まさに前代未聞の名に値する。そして、これにより被告人乙の被った肉体的苦痛、精神的屈辱感の甚大さ、警察官の非違行為の程度の重大さに鑑みるとき、裁判所としては、右違法行為がたとえ裁判所と別個の機関によってなされたものであるとはいえ、等しく刑事司法に携わる国家機関として、刑罰権の発動を相当程度に自制すべきであるというべきである。

5  当裁判所は、以上の各事情を総合的に考慮し、被告人乙に対し、主文掲記の刑を量定した次第である。

三  被告人丙について

被告人丙の指示により敢行された南熊本事件の罪質については、先に被告人乙に関し、上熊本事件及び黒原病院事件について述べたところと基本的に同一であり、その動機には一切酌量の余地がなく、組織性・計画性も顕著である。ことに、同事件は、H組事務所に出入りする同組関係者と判断される者を無差別に襲撃の標的としたものであり、その計画の性質上、もともと対立抗争と無関係の一般市民を巻き込む危険性が高かったものであって、意図自体において極めて凶悪であるといわざるをえない。しかも、被告人丙は、自ら襲撃目標をH組事務所に設定した上、中間指揮者や実行行為者の人選をも自ら行い、同所の下見、E13に対する同所への案内、けん銃の調達等、同事件に極めて主体的・能動的に関わっていたものであって、まさに、同事件の主犯であるとの評価に値する。

そして、本件犯行の結果は、警戒活動に従事中の警察官に全治二か月という重傷を負わせたものであり、それ自体重大な法益侵害を惹起したものであるほか、既に上熊本事件及び黒原病院事件によりもたらされていた一般市民に対する恐怖感・不安感を更に増大させたことも推察するに難くない。本件被害者には、もとより何ら落ち度はなく、その被った肉体的苦痛は甚大であって、同人が、被告人丙側からの示談を拒否して、同被告人に対する厳罰を求めていることは、個人的心情からも、警察官としての公的立場からも、至極当然であるといえる。

これらに加え、被告人丙の前科関係も芳しくないことに照らせば、同被告人の刑事責任もまた、重大であることは言を俟たないところである。

しかし、被告人丙は、南熊本事件の結果を心から悔い、逮捕当初から一貫して事実を認めて反省の情を示していることのほか、E13、E12及びE14により法律扶助協会に対する一〇〇万円の職罪寄付が、また、被告人丙を含む三名により、八代市社会福祉協議会に対する五〇万円の一般寄付が、それぞれなされていること、更には、捜査段階で、同被告人が警察官から峻烈な暴行を受けて重度の傷害を負うに至っており、その肉体的・精神的苦痛の大きさと警察官による違法の程度は、先に被告人乙について述べたのとほぼ同様であって、裁判所としても、刑罰権の発動をある程度自制すべきであること等を総合考慮すれば、被告人丙に対しては、主文掲記の刑を科するのが相当である。

四  被告人丁について

被告人丁が関与した上熊本事件の罪質については、既に同乙について述べたとおりであり、その動機、計画性及び組織性、並びに社会的影響等に鑑み、更に、同丁が累犯前科を含む多数の前科を有していることをも考慮すれば、同被告人の刑事責任もまた重いといわざるをえない。

しかしながら、同被告人が、補佐らやその他の者に対して上熊本事件の決行を積極的に指示した事実はなく、同被告人は、極めて消極的・間接的な表現で自己の配下組員たるE2に犯罪の決行を委ねたにとどまっており、また、その他の局面を含めて、同被告人が、同事件の経緯の中で、特に不可欠とまで評価すべき役割を果したとも認め難い。更に、犯罪実現意思の点でも、同被告人のそれに特に強固なものはなく、暴力団組織の幹部組員としての立場上、不本意ながらも、被告人乙の積極性に追随して共謀関係に加わったに過ぎないと評価することも、あながち不可能ではない。したがって、これら、上熊本事件に対する被告人丁の具体的な関与態様及び主観面の内実に着眼すれば、法的に同事件の正犯に該当するからといって、量刑面で同被告人を特に強く責め問うことは、同被告人に酷に過ぎるというべきである。

したがって、当裁判所としては、被告人丁に対しては、主文掲記の刑を科すにとどめるのが相当であると判断した次第である。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官松信尚章 裁判官秋吉淳一郎 裁判官植野聡)

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